『第70回未来構想フォーラム』

  世界の教育・日本の教育      
            
     日本財団広報担当   本山 勝寛 氏

    2008年2月23日 武蔵野市南町コミュニティセンター
   主催:NPO法人 未来構想戦略フォーラム              

    後援:武蔵野市教育委員会 

パーソナル・データ
本山 勝寛氏。
 1981年、大分県生まれ。 幼くして母親を亡くし、父親はNGO活動・慈善事業で海外へ。
米だけで飢えを凌ぐ超貧乏のバイト生活を送りつつ、東大現役合格。工学部システム創成
学科卒業。ハーバード教育大学院国際教育政策専攻修士課程修了。現在、日本財団広報担当。
教育、NPO活動の支援、講演、執筆 活動に励んでいる。   
主な著書:『お金がなくても東大合格。英語がダメでもハーバード留学。僕の独学奮戦記』
   (2007年、ダイヤモンド社)。

       父親の背中を見ながら人格を形成

 今日、私は『世界の教育・日本の教育』というテーマでお話をさせていただきますが、
改めて振り返ると、私が人生観や社会観を形成する過程で、両親の影響がたいへん強かっ
たと実感しております。 ご承知のように、教育の〃教〃という文字は、左側に孝行の
〃孝〃という文字を充て、右側は父親の〃父〃という文字から成り立っております。 
さらに、孝行の〃孝〃という文字を分解すると、〈子どもが老いた親を背負っている〉
という形になっておりまして、これは要するに〈孝行の姿を父親が子どもに示すこと〉
が教育という言葉の本質ではないかと、私は受け取っております。 つまり、親が子ど
もに向かって「親孝行をしなさい」 と教えるのではなくて、自分が親孝行をしている
姿を通して、子どもに親孝行が大事だということを伝えるのが、教育の本質だと思うの
です。 私自身の場合、父親から何らかの言葉を通して教えられたのではなくて、父親
がNGO活動や慈善事業等で海外で過ごしていましたので、話をする機会は殆どなくて、
父親の背中を見ながら人格を形成したように思います。

        江戸時代にヨーロッパを凌駕する教育システムがあった。

 さて、今日は日本の教育の未来、世界の教育の未来について、皆さんと共に考えてみ
たいのですが、その前に、昔の日本の教育はどうだったのかについて、考えてみたいと
思います。 例えば、昨今よく話題に上る江戸時代の教育はどうだったかを顧みますと、
これは世界的に見て、非常に高い水準にあったことは確かみたいで、専門家によると
「江戸時代の日本の教育水準は、先進国と言われるヨーロッパ諸国よりも高かった」と
いうことであります。 何故かと言うと、当時の日本には、一般庶民を対象として作ら
れた―寺子屋と呼ぶ教育システムがあって、町人や農民の子弟は寺子屋に通って〈読み
・書き・ソロバン〉を教わりましたが、この『寺子屋』が「全国に数万箇所あった」と
言われております。 それに、各藩の子弟を対象にして作られた ―藩校と呼ぶ教育シ
ステムが作られ、自藩の特色を活かしながら、子弟の教育を行なっておりました。 当
時の先進ヨーロッパ諸国では、就学率・識字率ともにそれほど高くはなくて、それは一
部の上層階級に限られておりました。

 これに対して、日本では『寺子屋』を中心とした教育システムがあったことによって、
かなり高い識字率を維持しておりました。 昨今の日本では ―教育の再生が声高に叫
ばれていますが、すでに数百年前の江戸時代に、ヨーロッパの先進諸国を凌駕する教育
システムがあったことは事実です。

          国民皆教育を国家的スローガンとした。

 また、徳川時代の三百年間、鎖国を続けていた日本は、明治維新によって開国し、近
代化への道をひた走りましたが、明治政府が近代化に成功した要因の一つとして、江戸
時代の教育水準の高さが挙げられております。 これを基盤とした、明治初頭における
学制改革を通して、全国の子どもたちが、等しく小学校に通えるようにしましたが、そ
れから40~50年後に、就学率はほぼ100%に達するという、驚異的な近代教育が日本で成
功いたします。 昨今、アフリカ諸国が、OECD(経済協力開発機構)や世界銀行などの
支援を受けて、教育開発に力を入れておりますが、明治期の日本は、圧倒的な速さで、
就学率100%に到達しております。

 しかも、それは現代アフリカのように「海外からの支援金を受けやすいから、教育を
重要視しなければならない」というふうな外部からのプレッシャーがあったせいではな
くて、自らが教育の重要性を悟って―国民皆教育を国家的スローガンとして、力を入れ
発展させてきました。 その後、大正期を経て、昭和期に入り、第二次世界大戦(太平
洋戦争)に敗北して、戦後教育は大きく変わってきました。

 これを概観すると、昭和期教育の特徴は「世界一のレベルを目指そう」を合言葉に頑
張ってきた結果、理数科教育(特に小中学校の理科、算数)が世界的にレベルの高いも
のとなりました。

        「理数科教育水準の高い国が経済発展を高める」


 例えば、先進国の子どもたちの学力を世界的に比較する一つの基準として、OECDが行
なっている『国際学力調査』があります。 これが実施された早い段階から、日本は理
数科に関しては、常に1位、2位というトップレベルを占め続けてきました。

 例えば『東アジアの奇跡』という世界銀行が出した本があって、これは、東アジア、
つまり、韓国、シンガポール、香港などの東アジア諸国が、70年代から80年代にかけて、
すごい勢いで経済成長しましたが、それは何故かということを、経済学的に分析したも
のです。 これが全世界にセンセーショナル(際だった)な反響を呼び起こしましたが、
その要因一つとして人的資源、つまり、教育水準が非常に高かったことが挙げられまし
た。
 そして、教育水準の中でも「理数科(理科、数学)水準の高い国が経済発展を高める」
という相関関係(一方が他方との関係を離れては意味をなさないようなものの間の関係)
が強調されております。 こういった形で、日本の50~60年代の高度経済成長は、その
基盤に明治期以降の高い教育水準があって、とくに理数科を中心とした教育発展を通し
て、国の経済を発展させるというモデルが、東アジアの各国に伝わって、日本と同じよ
うに経済発展を遂げたというわけです。 さらに、これに追随する形で、90年代以降、
中南米やアジアの発展途上国において、理数科教育を中心に経済発展をしていこうとい
う流れが生じております。

       
 「それは何のためであるのか」と考えたり
         議論をする機会が少なかった。


 このような初等教育に対する関心の高さと同様に、大学などの高等教育における科学
・技術に関しては、日本の大学は国際的にトップレベルに位置しております。 世界の
大学にはさまざまなランキングがありますが、私が出身の東京大学は15位か16位で、工
学系の物理とか天文学では、トップレベルに位置しております。 世界における日本の
教育は、初等教育・高等教育を通じて、以上にお話した位置にありますが、全てが良かっ
たわけではなかったと、私はいま感じております。

 先ほどお話した初等教育の理数科、高等教育の科学・技術力などは世界のトップレベ
ルにあったけれども、この特徴を、日本の経済発展のためだけではなくて、世界のため
にどう活かしていくかという戦略、あるいは、構想が欠けていたのではないかと、私は
痛感しているわけです。 これはいったい何故だろうかを考えたときに、先ず一人ひと
りの日本人が、自らの人生を通して〈何をすべきか〉を考える必要があったのではない
かと思うのです。

 あるいは、それ以前に「自分はいったい何者なのか。どこから来て、どこに居て、ど
こへ行くのか」 ということを考える教育が、日本では欠けていたのではないかと、私
は感じております。

 結局、自分自身のアイデンティティー(自分が自分であることの認識)を考える機会、
あるいは、これを教えてもらう機会がなかったために、日本人の一人ひとりが、何とな
く学校に通い、何となく進学し、何となく就職し、何となく会社のために頑張って、家
族を養っていくために働いてきたのですが「それは何のためであるのか?」を考えたり、
これについて議論する機会が少なかったのではないかと思うのです。

        トップにあった理科と算数が落ち、
        読解力も転落。


 私は先ほど「日本の理数科教育は世界のトップレベルにある」と申しました。 とこ
ろが、逆に国語の力、読解力、あるいは、歴史科などは、現在、世界的に見て水準が低
いと言われていますが、過去においてもそんなに高い水準にはありませんでした。 こ
こで言う〈読解力〉というのは、人生を考えたり、歴史的なことを考えたり、人間・社
会といったものを考える力ですが、それが単に試験の点数を取るための手段になってし
まい、本当の国語を学ぶ意味、歴史を学ぶ意味といったものが、疎かにされてきたので
はないか。 それがために、たとい理科や算数が出来ても〈それを何に活かすのか〉と
いう観点が欠けていたのではないかと、私は思うのです。

 やがて平成に入ると、これまで日本が世界一を取り続けてきた科目がだんだんと落ち
ていきますが、2003年には、これまでトップにあった理科と算数が一気に6位まで落ち
て、読解力も8位から10位に転落いたします。 実は、これまでは海外諸国から「日本
の教育は素晴らしい」と言って、視察にやって来るほどでした。 ところが、その教育、
特に理数科が落ちてしまったのですが、そうなる前に日本の教育界では何があったかと
いうと、2001年に、いわゆる 「ゆとり教育」という名における迷走というか、具体的
には『学習指導要領』の改定、つまり、基礎科目の授業時間の削減と「総合的な学習の
時間」の導入が行われました。

        「自分とはいったい何者か」ということを知らずして
         個性を活かし、尊重することは難しい。

 その理由は何かというと、80年代の日本は、世界各国から「ジャパン・アズ・ナンバー
ワン」と言われた経済の高度成長があって「今後の教育をどうするか」について考えた
とき「従来のように、受験勉強を中心とした詰め込み教育ではなく、創造性や個性を重
視した、ゆとりある教育をしていこうじゃないか」ということが議論されて「そのため
には、時間的な余裕を持たせて、その余った時間で、より創造的に考え、個性を伸ばす
ための教育をしていこう」ということで『ゆとり教育』というものが実施に移されまし
た。 このように、子どもたちの創造性を重視したり、あるいは、個性を伸ばす教育は、
一見、たいへん良い流れのように受け取られますし、私も重要ではないかと思います。

 ところが、結果的には、この〈創造性を重視し、個性を伸ばす教育〉は、単なる〃創
造性〃という言葉、あるいは〃個性〃という言葉に踊らされ、形骸化されてしまいまし
た。 明治以降の日本という国は、概念(事物の本質をとらえる思考の形式)を西洋か
ら移入することが多くて、例えば、戦後の日本を大手を振って独り歩きした、「民主主
義、自由、人権」などといった概念は、全て西洋から移入したものです。 このように、
〃創造性〃とか〃個性尊重〃とかいう概念は西洋から移入したけれども、その本質とか
中身を教育現場に移入することが出来なかったというか、しっかり根を下ろさないまま、
形骸化して終わってしまったところがあって 〈授業時間数〉の減少という形だけで終
わってしまったのではないかと思うのです。

 例えば、いくら個性の尊重を唱えてみても、その根幹を為すところの「自分とはいっ
たい何者か」ということを考えなくては、これを知らずして、個性を活かし尊重するこ
とは、難しいのではないでしょうか。 言い換えれば、悪い意味での個人主義、もっと
言えば〃利己主義〃に陥ってしまう危険があるのではないかと思うのです。

      「教育は何のためにあるのか」という基本的な議論を
        優先して行なうべき。


 実際に、教育現場において、さまざまな混乱が生じ、その中で総合的な学習時間を通
して、良い教育が行われたケースもありましたが、うまく実らないまま終わりました。
 このように、単に概念だけを採り入れて学習時間を減らせば、学力が落ちることは当
然で「これではいけない」ということで、国を挙げて『ゆとり教育』を見直すことが検
討され始めました。 つい先日、OECDによる2006年度の『国際学力調査』結果が発表さ
れて「日本は、理科が2位から6位へ、数学が6位から10位に落ちた」というニュースが伝
えられて「『ゆとり教育』で、いったん減らした授業時間数を、元の状態に戻そう」と
いう動きが、いま文科省を中心に活発化しております。

 何れにしても〈子どもたちの学力が世界の中で何位〉とか〈授業時間数〉とかいうこ
とは、教育そのものの本質ではなくて、この中で「何が問題の本質であり、何が重要な
のか」ということ、「教育は何のためにあるのか」という議論が、先ず優先して行われ
るべきであると私は思うのです。
 ところが、これが為されないまま点数とか順位で表わされるもの、あるいは、授業時
間数のように、数字や形で表われたものだけを議論してしまったがために、こういった
教育の本質にかかわる問題が生じているのではないでしょうか。

        〃経済格差〃が教育の〃学力格差〃を固定化。

 また、日本における教育の特徴として一つ挙げられるのは「民間の教育サービスが非
常に発展している」ということで、つまり、塾や予備校がたくさんあって、日本の教育
はこれらに大きく依存しているという現実があります。 私はアメリカで暮らした体験
があって、この国にも塾みたいなものは少しありますが、日本のように至る所には見ら
れなくて、基本的に教育は学校で行われております。 ところが、最近の日本では、中
学生のおよそ50%が塾に通っていて、さらに、大学受験期を控えた高校生は70~80%が
塾や予備校に通って補修を受けており「いったい、学校は何のためにあるのか」という
疑念が生じます。

 私は塾や予備校に通った経験は一度もなくて、基本的に教育は学校と家庭と地域にお
いて、十分になされると考えております。 ところが、日本の教育の現状は、塾や予備
校など民間の教育機関が発達しているために、たとい公教育が落ち込んだとしても、一
定の学力レベルは維持していくことが可能です。  このような日本の教育が、現在、ど
んな問題を抱えているかというと、昨今〃経済格差〃というキーワード(情報検索の手
がかりとなる重要な言葉)がよく議論されますが、同様に〃学力格差〃といった問題も
注目されています。 それは何かと言うと「公立の小・中高教育では、大学進学の十分
な教育を受けられないがために、私立の塾や予備校に通わざるを得ない」という理由が
あって、その中で「家庭の経済的な原因で、塾や予備校に通えない子どもはどうなるの
か」 という問題が派生して、結局は「それは、仕方がない」という諦観で〃経済格差
〃が〃学力格差〃を固定化してしまっております。

 これは、要するに「お金がある家庭の子どもは、塾や予備校、あるいは、名門私立校
に通って、質の高い教育を受けて、有名大学に進学できるけれども、お金のない家庭の
子どもは、補修教育を受けられないが故に、大学に進学できずに職に就く」ということ
であります。 先ほどお話したOECDの『国際学力調査』の結果を見ましても、単に順位
が下がっているだけではなくて、その学力格差の開きがより大きくなっており、そこに
経済格差の影響が見え隠れするわけです。 これを、言い換えれば「経済力の格差が、
そのまま学力の格差に現われている。それは、努力の結果ではなくて、経済力によって
決まってくる」ということであります。

        日本の教育に対するビジョンが欠落。

 このような日本の教育の現状の中で、何か欠けているものがあるとしたら、一つには
公教育の問題があります。 これまでは、政府や自治体が一つの目標を掲げ、学校教育
を担ってきましたが、政府が公教育に力をいれていた時代は、教育はスムーズに発展を
遂げてきました。 ところが、国家自体の目標とかビジョンが衰えてきたとき、学校教
育もどこに行ったらいいのか判らなくて、迷走状態にあるというのが、今の日本の現状
ではないかと思います。 しかも、この日本という国は、とくに明治以降、すべてを政
府や役人に頼ってしまう風習「公のことは官がやるもの、御上がやるものだ」という文
化が定着しました。

 当然、子どもの教育についても「社会の未来のために、国民の一人ひとりが、市民全
体で担っていくものだ」という考え方、文化が失われてきたのではないかと私は感じて
おります。 最近は、学校教育だけではなく、家庭教育の重要性、地域教育の重要性が
注目されておりますが、このように「子どもは家庭で教育する。社会に貢献できる人間
になるように、しっかり教育していく」あるいは「地域の子どもが、悪いことしたら叱
る。良いことをしたら褒めてやる。地域の子どもは地域が責任を持って育てていく」と
いう観点、言い換えれば「市民の一人ひとりが、子弟教育というパブリック(公共)な
ものに責任を持つ」という観点が薄れて「子どもの教育は、学校に任せ切ってしまう、
先生に任せきってしまう」という文化に変質し、国家自体の教育に対するビジョンが欠
落したのではないでしょうか。

 そもそも、国家というのは、国民一人ひとりから税金を預かり、これをもって教育政
策を実施しているのですから「国家の将来を担っていく子どもたちを、どのように教育
し、人材として輩出するか」といったビジョン(未来像)を欠かしてはならないのです
が、残念ながら、日本の現実は、戦後の経済発展に浮かれていたというか「経済の高度
成長を達成して、その後、何をして行くべきか」というビジョンを真剣に議論しなかっ
たために、迷路に嵌まり込んでしまったのではないかと、感じております。

        アメリカの教育は、初等教育は水準が低いが
        高等教育は高い水準。

 さて、次は「世界の教育は、今どんな状況にあるのか」ということで、私自身が経験
したり勉強をした内容について、お話したいと思います。 先ず、アメリカの教育はど
ういった状態にあるのかというと、基礎教育、つまり、小学校・中学校・高校の教育は、
かなり荒廃しているというか、水準が落ちております。 先ほどOECDの『国際学力調査』
の結果を紹介しましたが、日本の順位よりも低いところに位置しており、また、高校生
の中途退学率も非常に高くなっております。 その一方で、高等教育というか、大学や
大学院の水準は世界でもトップレベルに位置しており、総じて、アメリカの教育という
のは「小学校・中学校・高等学校では勉強できなかったのに、なぜ大学に入ると勉強で
きるのか」という、不思議な状況下にあります。 これの理由は何かというと、世界中
の優秀な人たちが大学や大学院に集まってくるからで、アメリカの大学というのは、ハー
バードを中核として、多くの大学が総合大学として、高い水準を維持しております。

 しかし、アメリカの初等教育、小学校・中学校の教育のレベルが低さは算数において
顕著で、つまり計算がしっかり出来ない子どもが多くて、スーパーなどで買い物をした
とき、勘定を間違えておつりが返ってくるケースがよく見られます。 ただ、これは世
界的に見れば普通の現象で、日本は江戸時代の昔から〈読み,書き,ソロバン〉をしっか
り教えていましたので、買い物の勘定など100%の子どもたちができるという珍しい国で
す。

           現代アメリカのリーダー層の多くは
         ボーディングスクールで育てられている。


 それにもかかわらず、アメリカの大学や大学院は何故レベルが高いかというと、科学
系や技術系の学生は、その多くがインドや中国や韓国など、アジアからの留学生が占め
ており、彼らが高い研究内容に取り組み、成果を上げることによって、アメリカの大学
や大学院は、世界でトップレベルの位置を占めているわけです。

 もう一つ、先ほど申しましたように、アメリカの公立小・中・高校の教育水準はあま
り高くありませんが、リーダー層の教育水準はたいへん高くて、これはボーディングス
クールと言う全寮制の学校があるからだと私は見ております。 これは、私立の中学校
と高等学校ですけれども、アメリカのリーダー層と言われるハイレベル・ソサエティー
(地位の高い社交界)の子どもたちは、たいていここに入学して学んでおります。 こ
こでは有名大学、あるいは、大学院の修士課程や博士課程で学んだ先生たちが、レベル
の高い授業をやっておりまして、生徒たちは自分で研究テーマを決め、現場に行って調
査をして、それを論文にまとめております。 結果的ですけれども、現代アメリカを担っ
ているリーダーの多くは、このボーディングスクールで育てられていると言っても過言
ではありません。

        フィンランドでは教師、教員は
        プロフェッショナルな人材として認知。

 次は、ヨーロッパの先進諸国の教育について考えてみたいと思います。 私はヨーロッ
パで学んだり、生活をした経験はありませんが、いま世界から注目されているのはフィ
ンランドにおける教育です。 その理由は、フィンランドという国は、OECDの『国際学
力調査』で、2000年くらいから、殆どの教科で1位、2位の順位を占めて、トップレベル
の水準を維持しているからです。 つまり、韓国、香港、シンガポール等々が 「東ア
ジアの奇跡」と言われ、旧日本型の詰め込み教育で、高い水準を維持してきたのに対し
て、ヨーロッパではフィンランドだけが、独自の教育によって、高水準の成果を上げて
おります。 つまり、フィンランドは日本型・東アジア型の詰め込み教育ではなくて、
どちらかというと、個性、あるいは、創造性を重視した教育が為されているということ
であります。

「ヨーロッパの先進諸国の中で、フィンランドで何故それが成功するのか」ということ
は、私もこれから研究したいと考えていますが、一つ言われているのは、教師、教員と
いった人たちが、プロフェッショナル(知的職業人)な人材として認知されているとい
うことであります。 つまり、全て大学の修士課程以上の教育を終えた人たち、専門的
な教科を研修した人々が、プロフェッショナルな立場でもって、教育を行なっていると
いうことです。 要するに、フィンランドにおいては、教育に対して専門的知識、経済
的投資が、惜しみなく投資されていて、その結果が、OECDの『国際学力調査』において
出ているのではないかというのが、一般的な評価です。

        韓国の中学、高等学校では英語だけで授業を行なうところが
        人気の的。


 次に、アジアに目を向けますと、先ほどから例に挙げているインド、中国、韓国、シ
ンガポールの国々は、初等・中等・高等教育は、世界的に見て高い水準にあります。 
例えば、アメリカの大学に行きますと、これはカナダやヨーロッパも同じですけれども、
インド、中国、韓国等々の留学生が数多く学んでおりまして、授業で活発に発言する学
生も、ほとんどがこの3ケ国の人たちです。 人数的に見ても、この3ケ国の留学生が日
本を抜いて1位、2位、3位を占めておりまして、マインド(精神)も、非常に高い意識を
持って勉強に励んでおります。

 このインド、中国、韓国にシンガポールを加えた国々は、基本的に言って「教育とい
うものは国内で完結するのではなくて、海外に留学して初めて完結する」 という考え
方があるようで、私も韓国で学んだことがありますが、この国では英語熱・留学熱とい
うのがものすごく高くて、先進国への留学生数も多いわけです。 そのためかどうか、
いま中学校や高等学校で、英語だけで授業を行なうところが、数多く見られるようになっ
ております。 つまり、国語、歴史、社会だけを韓国語で授業して、これ以外の科目、
数学・理科・物理などは、韓国語ではなくて英語で授業するといった学校が増えている
のです。 しかも、このような授業はたいへんな人気で、学校には高い競争率でもって、
優秀な子どもが殺到しているということです。 そういった英語で授業を受けた学生た
ちが、アメリカやイギリスなど、世界的にレベルの高い大学、ハーバードやケンブリッ
ジを中心とした大学に留学しているわけです。

          地域や国を超えて学ぶ時代。

 さらには、この英語だけで授業を行なう中学校や高等学校に入るために、小学校から
英語の特別授業を受けたり、英語で授業する学習塾へ通っている子どもたちも、たいへ
ん多いということです。 ご存じのように、昨今は日本でも英語の授業を小学校教育の
中に導入する試みが始まっていますが、韓国では母親たちが必死になって、子どもに英
語を習わせておりまして、これが一つの社会現象になっております。 例えば、子ども
に英語の勉強をさせるために、母親と子どもが一緒にアメリカへ行って、その間、父親
は一人で韓国に住まいして、仕送りをしている家庭も見られます。

 このように、いま韓国では 英語熱と留学熱がたいへん高くて、もちろん、これが良
いか悪いかは議論する余地がありますけれども、こういった英語教育に関する意識が非
常に高まっていることは事実です。 これに対して、インドでは、かつてイギリスの植
民地だったせいもあって「英語を日常語として使っている」という現実もあって、とく
にどうこう言うことはありませんが、韓国においてはもちろん、昨今は中国においても、
このような傾向は見られます。 これを通して痛感することは、いまは教育がグローバ
ル(世界的)になってきたというか、国境を越えて教育が行われる時代に突入している
ということができます。 これまで教育というのは、それぞれの地域で、それぞれの国
で行なうものでしたが、いまや国境というものは意識しなくなってきました。

 それも、大学だけでなくて、小学、中学、高校の頃から、自分が受けたい教育を、地
域や国を超えて学ぶ時代になりつつあるわけで、こういった大きな時代の潮流の中で
「日本の教育は、いまどういう位置にあって、どういった教育を為すべきか。そして、
世界にどう影響を及ぼすべきか」ということ、これは今わたしたちが考えなければなら
ない大きな問題だろうと思います。

        教育とか教師が尊敬されない国は教育水準は低い。

 以上、お話をしたように、いまアジアという地域は、国においても、家庭においても、
教育熱はたいへん高まっております。 しかし、その一方において、例えば、パキスタ
ンの教育はなかなか進んでいない状況にあって、このような国では、教師という職業が
尊敬されていないという現実があります。

 例えば、日本において先生という敬称でもって呼ばれるのは、国会議員、弁護士、医
者、教師等々ですが、これでもって判るように、日本という風土では、伝統的に教師に
対する評価が高いわけです。 同様に、韓国や中国においても、教師という職業はたい
へん尊敬されていて、特に韓国においては、教師は今でも神様のように尊敬されており
ますが、しかし、一般的には、こういった国々ばかりではありません。 そして、この
教育とか教師が尊敬されない国、プロフェッショナル(専門的)なものとして考えられ
ていない国では、教育の水準は低い傾向にあります。

 つまり、国の政策としても重要視されていなかったり、あるいは、教師という職業に
就くことが、仕方のない選択として捉えられているケースが多いのでして、南米とかア
フリカも、基本的にはそういった条件下にありました。

         高いマインド無しには成功も
        国の将来も期待できない。


 また、アジア諸国、かつて発展途上国と言われた国々は、昨今は教育水準が高くなり、
経済発展を遂げてきましたが、中南米やアフリカの諸国は、未だに就学率が低く、経済
発展もあまり遂げていない状況にありました。 その中で、1990年代から「発展途上国
を発展させるためには、先ず教育が重要である」 という考え方が出てきて、その潮流
の中で、中南米やアフリカの発展途上国に対して「教育にお金を遣うのであれば支援を
する」といった国際的な合意がなされました。 以来、これらの地域においても、90年
代から急速なペースで就学率が上昇し始めて、中南米諸国では2000年代の今日、ほぼ80
%から90%台の就学率が達成されております。

 ただし、この中には国際的なプレッシャーで、名目的就学率を挙げて、中身が伴って
いないケースもあって、学校に通っても音を上げて、実際には勉学していないこともあっ
て、中退率や留年率が非常に高いところもあります。 以上、お話したような世界の教
育水準を概観して一つ言えることは何かを考えたときに、教育の成功というのは、シス
テムや制度の改革といったものもありますが、結局は教育に対するマインド(精神)と
いうか「将来を見据えて、努力をしよう、頑張ろう。そうしたら未来は開けていく」と
いう基本的な考え方が、その国の教育を成功に導いていくのではないでしょうか。

 要するに、教育の高いマインド無しには、教育制度も成功しないし、結果的に、その
国の将来も期待できないのではないかと、私は実感しております。

        私たちの『日本財団』は、数々の支援活動をしています。

 いま私は『日本の教育』あるいは『世界の教育』について概観しましたが、私自身は
未だ研究・経験ともに不足していて、間違ったことを申し上げたかも知れませんが、お
許し下さい。 それでは、今後いったいどうすべきかについて、私自身の立場を踏まえ
て、いま考えていることをお話したいのですが、その前に、私の現状についてお話いた
します。 私はいま『日本財団』という民間の非営利団体で働いていますが、ここは公
営競技(国が法律上認めて運営されているギャンブルで、競馬、競輪、競艇などがある)
の一つ、競艇の売上げの一部を使い、社会のために活かす公益活動を目的としており、
現在は一年間に約300億円の予算を使って、さまざまなNGO、社会福祉法人、NPOボ
ランティア等々の経済的支援を行なっています。

 日本では最大規模の民間財団ですけれども、世界で最も大きいのはビルゲイツ財団で、
ここは年間2000億円規模の予算を使って、私たちと同様の公益活動を行なっております。
 具体的に言って、私たちの『日本財団』はどんな活動をしているかと言いますと、障
害者支援の社会福祉活動、奨学金による教育活動、あるいは、ボランティア活動の支援
などをしております。 例えば、先日行われた『東京マラソン』では、32,000人のラン
ナーが走って、12,000人のボランティアが支えましたが、これを組織して支援するとい
う活動もいたしました。

 また、国の内外を問わず、さまざまな奨学金制度を設けておりますが、その一つは、
将来、世界的に活躍する人材を育成するために、40カ国68大学にヤングリーダー奨学基
金(SYLFF)を設けております。 あるいは、発展途上国における小学校建設(ペルー50
校、カンボジア100校、ミャンマー100校、その他タイ、ラオス、ベトナム、中国など)
を支援し、日本の学校とのフレンドシップ協定、障害者教育の支援などをしております。

      「世界の国々の中でお母さんのような役割を
         日本は担うことができないか」.


 さて、いま日本が国際社会で高水準にあるのは教育ですけれども、これ以外に公衆衛
生面においても高水準にあるのはご存じの通りです。

 例えば、平均寿命は世界のトップレベルですし、あるいは、乳幼児の死亡率が低いと
か、国民皆保険制度が整っているとか、こういったものも世界のトップレベルにありま
す。 あるいは、食生活、いま日本料理が健康食として海外でブームになっていますが、
これは要するに「日本文化や生活習慣が世界のトップレベルの平均寿命や肥満率の低さ
を支えている」とも考えられるわけで、こういったものを、世界に貢献できるものとし
て、さらに育てるべきではないかと思っております。

 あるいは、環境問題、省エネ技術なども抜きん出ておりまして、ノーベル平和賞を受
けられたマータイさんの言葉ではありませんが 「もったいない」という日本古来の精
神的美徳をさらに高揚して、世界に貢献して行けないかというふうに私は思っておりま
す。 これを判り易い言葉で表現すると「世界の中のお母さんになれないかな」という
ことであります。 ご存じのように、家庭生活において大事なのは、家族の健康である
とか、家庭内の整理整頓とか、ご近所付き合いとかで、これを受け持っているのはたい
ていお母さんですが、同様に「世界の国々の中で、こういったお母さんのような役割を、
日本は担うことができないか」というふうに私は考えております。

       教育を世界に開かれたものにしていくことが大事。


 ご存じのように、ハードパワー(軍事力や経済力)とソフトパワー(文化や政治的理
念による力)という考え方があって、昨今『ソフト・パワー戦略』というものが注目さ
れています。 この『ソフト・パワー戦略』というのは、ハーバード大学の教授が提案
したものですが、これは何かというと「これからの国家は、軍事力や経済力のハード・
パワーだけではなく、国の文化力や政治的理念による魅力というソフト・パワーも合わ
せたかたちで、その目的を達成するべきである」ということ、つまり「これからの国際
社会においては、力によるプレッシャーを与えるだけでなく、文化力によるソフト・パ
ワーを用いた総合的な戦略をもつことが大事だ」というわけです。 ご存じのように、
いま日本は軍事力の保持は『日本国憲法』によって否定されていまして、したがって、
ハード・パワーを使って世界に貢献することは不可能です。

 しかし、教育、公衆衛生、環境問題、その他、ソフト・パワーを通して、世界に貢献
することは可能でして、結果的に「母親のように信頼される国になれないかな」という
のが、私の念願です。 近代日本においては、明治維新であるとか、戦後の復興に、教
育を中心に発展してきた歴史がありますが、そういった教育による発展モデルを、世界
の途上国に伝達していけないかというふうに、私は考えているわけです。 現実的に、
このような形で世界に貢献して行くためには、具体的に何が必要かと言ったら、先ず日
本の教育そのものを、世界に向けて開かれたものにしていくことが大事だと思うのです。
 要するに、世界の多くの若者が、日本の教育を受けるために留学したり、あるいは、
日本の多くの学生が、アメリカとかヨーロッパの先進諸国だけでなく、アジアやアフリ
カの国々に行って、さまざまなことを体験してくるという、世界に向けて開かれた制度
や姿勢が大事だということです。

        「世界に平和を作り出して行く人材の育成」。


 もう一つは「いま日本という国は、世界の中でどういう立場にあるか」ということを
知ることが大事で、私は世界各国で生活を体験して、日本ほど安全で安心して生活でき
る国というのは、世界中のどこにもないと私は確信しております。 そういった立場に
ある日本が、あるいは、さまざまな個性、特徴、強みを持った日本が、世界のために何
が出来るのかということを考えなければならないと思うのです。 その場合、「自分た
ち一人ひとりが、どういった個性を与えられているのか、どういった天稟(天から授かっ
た才能・特徴・個性)を与えられているのか、それを通して何が出来るのか」 といっ
たアイデンティティー(自分が自分であることの認識)を、しっかり身につけておかな
ければならないと思います。 実は、私自身にも個人的な生涯を通してやっていきたい
目標があって、それは「世界に平和を作り出して行く人材の育成」であります。

 具体的には、世界を見据えた初等・中等教育の実現、つまり「世界を見据えて勉強で
きる中学校、高等学校を作っていきたい」という願望で、自分で作れないのであれば
「そういった計画を支援していきたい」「そういった内容の教育を一緒に担っていきた
い」 と念願しております。

 先ほど司会者がご紹介下さった著書『お金がなくても東大合格、英語がダメでもハー
バード留学、僕の独学戦記』も、これは単に本を書くということが目的ではなくて、私
自身の経験を通して「何のために勉強をするのか」 ということを、皆さんに少しでも
考えていただきたいと思ってのことです。

 実際に、そういった執筆活動とか、今日のような講演活動を通し、少しでも〈世界を
見据えた教育〉というものを、みんなで一緒に考えて行きたいと考えております。

         個性溢れる大学が日本の各地に作られて
        世界各国から学生が集まればいいなと念願。

 もう一つは「世界的人材を育てて行く教育」であって、これには大学教育というか、
崇高な理念に燃えた高等教育が、日本において必要だと思っております。 私は東京大
学で4年間学生生活を行い、ハーバード大学院で1年間を過ごしましたが、残念ながら、
東京大学では熱心に勉強をしたこともあれば、サボったときもありました。 その体験
から言えることは、東京大学での4年間の勉強よりも、ハーバード大学院での一年間の勉
強の方が身についたと思っております。

 どうしてかと言うと、海外から集まった留学生のそれぞれが「ここでしっかり学んで、
母国に帰ったらこういうことをしたい」という大きな夢を抱いて、日々の勉強に励み切
磋琢磨しているので、とても刺激を受けるわけです。このような大学が日本にも必要で
はないかと思います。 もっと言えば、その真似をするだけではなくて、日本の良さを
活かして、ハーバードの教育では出来ないところの、世界の人材を育てる大学、世界で
オンリー・ワン(突出した)の大学が出来ればいいなと考えております。 それも、一
つの総合大学ではなくて、いろんな特色を持った個性溢れる大学が各地に作られて、そ
こに世界各国から学生が集まることが出来たらといいなと念願しております。

        夢は第一歩を印さなければ
        現実として実らない。


 先ほどお話した『お金がなくても東大合格、英語がダメでもハーバード留学、僕の独
学戦記』という私の著書は、東大とハーバードの受験体験を中心として、独学でやって
きた私自身の生き様を赤裸々に書いた内容です。 したがって、受験生だけに読んでも
らいたい本ではなくて「自分は何をしたいのか」 という分かり易い目標を設定して、
それに向かって、一つ一つを実践して行く。

「そうすることによって、自分の夢は一つずつ適っていくものだ」ということを伝えた
いがために、この本を書いて世に問いました。 実は私自身、いま『日本財団』の一員
としてスタートしたばかりで、大きな夢に向かって歩みを始めたばかりです。 皆さん
方も、心の中に〈それぞれの夢〉を抱かれていると思いますし、かつてそういう夢を抱
かれていた方もいらっしゃると思いますが、夢というものは第一歩を印さなければ、現
実として実らないわけです。 そして、自分自身の夢に向かって計画を立て、実行して
いく日本人一人ひとりが、お互いにこのような勉強会に参画して、語り合いながら情報
交換をして、将来の夢を紡いでいけば、この社会は必ず良くなっていく、この国は良く
なっていく、この世界を良くしていくことができるのではないかと、私は信じておりま
す。

 最後に、私たち一人ひとりの夢を実現するための具体的なノウハウを解説した本を、
未だ本のタイトルも決定していませんが、来月頃発売しますので(『16倍速勉強法』
として出版)、関心をお持ちいただく方は、手にとって内容をご覧いただきたいと思い
ます。             
                   (文責: 大脇準一郎 栗山 要)


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