「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

4.歴史家における天皇家起源問題

6.津田の単一民族論 

 津田の日本人種論はすでに1913年に刊行した『神代史の新研究』の中にその原型が現れていた。同書の中で、津田は日本民族は人種を同じくし、言語を同じくし、風俗習慣を同じくし、また閲歴を同じくしている同一民族であり、日本は風土が温和豊穣で、人口の少ない時代には生存競争も起こらず、国民が皆同一民族であって、その間に闘争の起こることも少なく、絶海の孤島にあるから異民族の侵入も受けなかったし、皇室は国民の内部にあって国民の外部から君臨したものではなく、皇室と国民は本来一体であり、両者は親愛の情を以て維がれていると主張した55)

 そして津田は戦後になってこのような日本人種論をよりまとまった形で発表した。津田が1946に雑誌『世界』4月号に発表した「建国の事情と万世一系の思想」は彼の日本人種論を体系的披渥した論文でもあった。

 この論文の日本人種論に関する内容をみると、津田は、まず日本民族は一つの民族によって形づくられ、近隣に親縁を持たないとして、大陸に於ける中国、朝鮮、満州、蒙古などの諸民族と人種が違うことは日本民族の体質、言語から知り得るし、洋上では、琉球の大部分は日本民族の分派が占拠したであろうが、台湾及びそれより南の方の島々の民族は日本民族と同じではなく、本土の東北部に全く人種の違うアイヌがいたと説明し、日本民族の原住地も、移住して来た道すじも、またその時期も今までの研究では全く分からないとして、隼活の状態や様式から見ると原住地は南方であったらしく、大陸の北部ではなかったことは推測されるが、その土地は知りがたく、来住の道すぢも世間でよく憶測されてジるように海路であったとは限らないし、来住の時期はただ遠い昔であったと言い得るのみで、原住地なり来住の途上なり、またこの島に来た時から、種々の異民族をいくらかづつ包容し、またはそれらと混血したことはあっただろうが、民族としての統一を失うほどのことではなく、日本列島に来た時に民族が違うどれだけかの原住民がいたであろうが、それが一つ若しくは幾つかの勢力として後までも長く残らなかったらしく、時と共に日本民族に同化され、包容されたと解釈した。

 それから、日本民族の国民性について、日本はもともと多くの小国家に分かれていてもその間に絶えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのでもなく、またともすれば戦争の起こり安い異民族との接触もなく、すべての国家がみな同一国家であるために好戦的な殺伐な気風も養われなかったと解釈し、皇室については、皇室が日本民族の外から来て日本民族を征服し、それによって君主の地位と権力を得たのではなく、民族の内から起こって次第に周囲の諸小国を帰服させ、また諸小国も皇室に対して基本的に反抗的な態度を取らず、皇室に接近し、皇室の威勢を背景として自らの地位を安固にしようとしたので、皇室は武力を用いて地方の豪族に臨んだことはなく、国内において戦闘の行われたような形跡もなく、上代の日本は甚だ平和であったが、それはその根底に日本民族が一つであるという事実があったからだと解釈した56)

 以上のように、津田の日本人種論は日本民族が単一民族であり、そのために民族内の闘争、階層間の対立がなく、皇室は民族の内部から自然に発生し、武力ではなく、情愛を以て日本を統一したという三つの特徴を持ち、この三者は相互に不可分な関係にあったのである。もっとも、津田の日本民族は近隣のどの民族とも親縁を持たず、日本民族はその起源を知らないほど古い時代から日本列島に居住したという観点は白鳥庫吉の日本人種論の内容と酷似し、実際津田が白鳥の日本人種論を言及していた点を考えると57)、白鳥の人種論の影響が窺える。また、津田の日本人種論は人類学者長谷川言人の日本民族の単系的形成を主張する「移行説」の影響も受けたど考えられる。事実、日本の人類学・考古学界は明治期の「人種交替説」から大正時代を経て昭和時代に入ってから、人類学者長谷川言人・清野謙次らの「移行説」と「混血説」が有力になり、とりわけ日本民族の形成における外部の人種的関係をほとんど認めない長谷川の「移行説」が戦後の長い期間日本の人類学界の主流をなしてきたのである。

 しかし、以上の白鳥、長谷部、清野の日本人種論には当時のナショナリズムと国家体制の影響がかなり認められるし58)、津田の日本人種論も皇室に関する解釈は明らかに主観的要素が含まれていた。

 史学者北山茂夫が「日本近代史学の発展」という論文の中で、「津田における近代主義は大正デモクラシーの思想のなかに顕著に現れたごときコスモポリタニズムではない。日本が西欧とのあいだに伝統を異にする点において、文化的統一を含意した歴史概念としての東洋を否定することによって、かれは一貫して日本民族の独自性を強調し論証しようとした。しかしそれを、主として民族の内面に探査した。そのために、かれは、近代西欧の神話学・民俗学・心理学・文献学などから学んださまざまの知見と方法を縦横に駆使した。津田の、日本史に関する著作・史観についての論説はすべて、日本民族の独自性の解明に捧げられたといってよい」59)と指摘したように、津田の日本人種論の本質も結局は日本民族の独自性を主張するところにあったのである。

 津田は日本民族の起源を単系的に捉えただけではなく、歴史時代に入って朝鮮・中国などから大量に流入した渡来人の存在もほとんど否定するなど60)、日本人種論においても徹底して日本民族の単一性を主張したが、これは民族の独自性の解明に主眼をおいた津田の研究姿勢と根本的関係があると考えられる。


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