「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

4.歴史家における天皇家起源問題

4.津田左右吉の「記紀」研究の意図 

 津田右左吉は1913年に『神代史の新しい研究』を発表したのを始めに、1919年に『古事記及び日本書紀の新研究』を公刊し、1924年には上記の二書に大幅な改訂を加えた『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』を相次いで刊行し、さらにその延長線上に『日本上代史研究』(1930)、『上代日本の社会及び思想』(1933)を完成し、戦後は『神代史の研究』以下の四著を改訂した『日本古典の研究』(上下、1948・50)と『日本上代史の研究』(1947)を刊行するなど「記紀」の研究において極めて重要な業績を残している。

 津田はこれらの著書において、「記紀」からは皇室及び国家の起源を知ることはできるが、民族の起源や由来を知ることはできないとし、「記紀」を対象に民族の起源を云々することは恣意的で非科学的であると厳しく批判した。そしてこのような批判は明らかに「記紀」を日本人種論の研究対象にしてきたそれまでの研究方法に向けたものであり、これは津田の「記紀」研究に見られる重要な特徴でもあった。

 戦後になって、津田の「記紀」研究が高く評価されるにつれて、古代史学界では津田の主張通り、「記紀」を日本人種論の研究対象にすることは一顧の学問的価値のない、非科学的方法と見なされるようになり、このような研究方法、特にそのような研究方法によって成立した「日鮮同祖論」はすでに津田によって克服された過去のものとされてきた。しかし、津田の「記紀」研究を日本人種論という側面から検討すると、そこからは津田の「記紀」研究の根本的性質について既存の評価を再考すべき重要な問題点が浮かび上がってくる。なぜならば、津田は民族の起源を議論することに消極的であったばかりではなく、同祖論者たちが説いていた天皇家の朝鮮半島起源説に対しては感惰的な面での反発を強く示したのであり、それが津田の「記紀」研究にまで影響を及ぼしたと考えられるからである。

 ところで、以上のような問題を考えるに当たって、ここでまず手がかりとしたいのは戦前の津田の出版法違反事件の裁判記録である。

 津田は一連の「記紀」研究において皇室の尊厳を冒涜したという理由で、1939年頃から右翼陣営から激しい攻撃を受け、40年2月10日に、当時の内務省によって『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』『日本上古代史研究』『上代日本の社会及び思想』の四著(以上はいずれも岩波書店発行)が発売禁止処分に付され、3月8日には、津田は出版法違反の疑いによって東京刑事地方裁判所から、出版者の岩波茂雄ともに起訴され、不拘束のままではあるが法廷に立ち、41年11月1日から始まり、翌42年1月15月まで21回の公判が開かれた46)

 公判では、津田の「記紀」研究の動機、神代史の性質、神代史の精神、神代史の政治的意味、上代史研究における「記紀」の価値、「記紀」の研究方法、津田の歴史観、学問観など津田と「記紀」に関わるほとんどすべての問題について訊問が行われ、津田もそれについて詳細且つ体系的に答えていたので、法廷での裁判とはいえ、この裁判における裁判記録47)は津田の学説を知る上で見逃すことのできない重要な資料になる。

 もちろん、法廷という特殊な場所であるだけに、津田は出版法違反の認定を免れるために必ずしも自分の学説に合致しない弁明を行ったことも考えられるので、裁判記録から津田の学説を知るためには以上のような特殊事情を考慮する必要がある。そこで、本論文においては津田の出版法違反事件の裁判記録を問題提起の手がかりとし、以上のような特殊事情を考慮に入れて裁判記録と津田の戦前、戦後の著作の内容とを慎重に対照しながら日本人種論という側面から津田の「記紀」研究について考えてみたい。

 津田は第6、9、10、16、18回公判などで、天孫の外来説を認めると、日本の国家が他の民族、他の国家と同じように武力と征服によって作られたということになり、それが神代史の精神に著しく矛盾し、国体の精神を傷つけるとしてこの説を極力否定し、また神武東征を歴史的事件だとすると、そこから天孫降臨と結び付けて天孫の外来説が主張され、日本の国家が征服国家であるという結論に至り、それによって国体の精神が傷つくとし、あるいは天孫の外来説を取らなくとも、日本の辺境地に皇室の都があったというのは、皇室の尊厳にマイナスになるから、神武東征を歴史的事件として認めることができないと主張した。それに津田が「記紀」は民族史ではないと主張した背景には明治時代に盛んに唱えられた天孫の外来説が存在し、「記紀」は民族史ではないという津田の主張には天孫の外来説を否定する意味合いが込められていたことも以上の公判過程で津田自身が明らかにした。なお、津田は第一審の判決に不服して控訴に出たのであるが、その時、控訴の理由を述べた「上申書」に於いても、以上と全く同じような論理で天孫の外来説を否定し、神武東征の事実性を否定したのである。

 第19回公判では、哲学者和辻哲郎が特別証言をしたが、ここで和辻は「記紀」の神代を歴史事実と考えることによってそれに対するさまざまな疑問が生じ、皇室の尊厳にとって甚だ不都合な天孫の外来説もそういうところから生まれたのであるが、津田のように「記紀」の神代を観念上の存在、思想上の存在とすることによって以上のような問題が解決され、皇室の尊厳の根拠が学問的に証明されるとして、証言ではこのことを特に強調したのである。この点、和辻は「記紀」に内在する観念、思想を明らかにするという津田の「記紀」研究の本質をよく理解していたし、「記紀」神話を歴史主義的に解釈することが国体の本質と皇室の尊厳に不都合だという点でも意見が一致したのである。和辻の証言が津田の弁護のためであると言え、以上のような証言内容が単に裁判対策のために考案したと言いがたく、和辻の津田の「記紀」研究に対する真実の評価と考えられる。

 それでは、津田が実際の著作の中では、これらの問題についてどういうふうに解釈したのかを調べてみる必要がある。


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