「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

4.歴史家における天皇家起源問題

3.白鳥における天皇家外来説 

 この問題は白鳥の神代史研究に見られる問題点と合わせて考える必要がある。白鳥の日本人種論の中では、言語の研究と並んで「記紀」神話の解釈も重要な意味をもっていた。白鳥は「記紀」神話は歴史の反映ではなく、古代人が構想した一大物語であるという、いわゆる「作為説」の最初の提唱者であり、彼のこのような「記紀」神話観は津田右左吉の「記紀」研究を生み出す源動力になった点でも注目される。しかし、白鳥の「記紀」神話研究を注意深く観察してみると、彼が「記紀」神話を歴史主義的に解釈することを徹底的に批判し、「記紀」神話から民族の起源を知ることができないと繰り返して強調したのは、実は天皇家の外来説と密接な関連があったことがわかる。

 白鳥は1915年に発表した「日本人種論に対する批評」で、日本が世界に誇るべきものは「国体」であり、我々が何故にこのように結構な国体を有しているかを知るためには、我が国の伝説や歴史を考察し、更には我が日本民族の本源に逆上って説明を求めるべきであるが、未だ此の点が充分に閲明されてないのは遺憾なことであると述べ、しかるに人種論も昨今から漸く学者の間で問題にされて来てはいるが、「その議論に至りては大に傾聴し難いものがある」として、当時の日本人種論者たちが「記紀」の所伝に基づいて、天孫民族、出雲民族、熊襲民族というような名称を作り、天孫民族が海外から渡来したと説くことに強い不満を表明した。

 白鳥は、仮に高天原を外国とし、天孫を外国の方だと想像するならぱ、所謂天孫族が中津国へ渡来した時には、鏡を鋳たり剣を鍛えたり、また絹で衣服を織る業をも知って居ったから、文化の点に於いては大いに発達したものと見做さなければならないが、日本周辺のアイヌやギリヤーク、ツングース、朝鮮人、マレー人、べトナム人などはいずれも野蛮民族であるか、あるいは天孫族より文化が遅れているとして、以上の民族と天孫族との人種的関係をすべて否定し、日本の周辺民族の中で、唯一中国は天孫が所持していたような鏡や剣を製造し、特に絹などは中国の特産物であったと思われるから、高天原を外国だとすれば、中国の外はないはずであるが、神典に現れた言語と思想が中国人の言語と思想と根本的に違うから天孫族が中国人と無縁であり、だからこそ神典によって日本人種を説こうとするのは全く不可能なことばかりでなく、又全く誤謬であり、神典の解釈と日本人種の研究は自ら別個の問題である主張した。

 続いて、白鳥は人種論の研究に最もよく使われる形質人類学、考古学的方法についても、形質人類学では大昔の骸骨を得ることは容易ではなく、古代の遺物は民族の系統を究明するに当たって多少参考になるが、器物の形式や紋様などは模倣できるからそれを判断するには極めて細心の考察が要るので必ずしも有効な方法とは言いがたく、容易に変化しない言語こそは民族の系統を探る最も確実で、また最も安全な方法であるとして人種論における言語の重要性を説いた。そして、国語には接頭語・接尾語が多く、そのために「国語は頭に冠を戴き足に靴を穿いている洵に行儀のよい言語であるといってよろしい」、国語のように各行の音に「て・に・を・は」などの分子を使う類例が外国語にはない、我が国では昔、物を数えるのに両手の指を使用したので、アイヌ、朝鮮、中国、マライ、ウラル・アルタイ等の諸国で片手の指を使用したのと全く異なっている、などの論拠を上げて日本語は周辺民族の言語と根本的に異なり、日本民族が鏡や剣を作る時代になって外国から移住してきたというのは間違いであり、日本民族が島国で生活したのは非常に悠久の昔からであって、ほとんど原住民と称してよろしいほどであると主張した40)

 しかし、白鳥の以上にような批判と主張が合理的判断に基づいているかは疑問である。白鳥は「記紀」の所伝に基づいて日本の周辺民族の中で中国人の外は天孫族ほど文化が発達した民族がいないと主張し、そこから天孫族は人種的に周辺のどの民族とも無縁であるという、一見合理的に見えて実は甚だ主観的な結論を導き出し、言語の比較においても国語には接頭語・接尾語が多いから行儀のよい言語であるとか、物を数えるのに他の周辺民族は片手を使ったが、日本では両手を使ったなどと言語的法則に基づく比較を行ったわけではなかった。

 そればかりではなく実はこの論文を分析してみると、そこには白鳥の天皇家の外来説に対する感情的反発がはっきりと読み取れるし、白鳥が「記紀」から民族の起源を知ることができないと繰り返して主張したのも、結局は「記紀」を日本人種論の研究対象にし、「記紀」神話を歴史主義的に解釈することから天皇家の外来説が生じたという思いが強かったことが分かる。そして、白鳥は他の神代史論の中でも、「記紀」を日本人種論の研究対象にするから天孫の外来説が生じるとして、「記紀」を日本人種論の研究対象にすることに一貫して反対していた。

 例えば、白鳥は「土蜘蛛伝説に就いて」(1938)、「神代史の新研究」(1954)などの論著の中で、我が国土に日本民族以外に出雲族や熊襲族などと称する異民族がいたと説くのは、皇室の由来と日本民族の皇室に対する信念などを述べた神典の性質を誤解したためであって、神典はその性質上民族論や人種論に利用すべきものではないと説き、神典を民族論や人種論に利用するから天孫の外来説が生じるとして、そのためにそのような研究法を断固として認めない姿勢を明らかにし、天孫の外来説を認めると日本国民が外来勢力に支配されることになるから、それは国民にとってはこの上ない屈辱的なことであると受け止めた41)

 以上のようなことから明らかなのは、白鳥がどうしても天皇家の外来説は容認できなかったということである。もちろん、当時の日本人種論において天皇家の外来説が有力であったことは間違いないが、それにしてもあくまでも一つの仮説に過ぎず反論の余地は充分あったわけである。しかし、以上のような論調を見るかぎり、白鳥はこの説について論理的反論よりはむしろ感情的反発を優先させていたし、どうしてもこの説を容認できないという前提がそこにはあったのである。もちろん、白鳥の神代史研究には「記紀」神話の本質に迫る合理的要素が充分に認められるが、「記紀」を日本人種論の研究対象とすることに強く反対したのは、天皇家の外来説を容認できない態度と密接な関係があったことは確かである。もし「記紀」を日本人種論の研究対象にした結果、天皇家の日本列島自生説が主流になったならば、白鳥が「記紀」を日本人種論の研究対象にすることにあれほど反対しただろうか。

 白鳥は民族の起源を知るために言語の研究の始め、最初は言語の同系関係を通して日本民族が朝鮮民族そして北方アジア民族と人種関係を持つと考えながらも、必ずしも言語系統論の決め手とはなり難いし、すでに言語学者から有力な反論も出た日本語の数詞の特殊性論にこだわって日本民族と周辺民族との言語的・人種的関係をほとんど否定してしまったのも、以上のようなことと無関係ではあるまい。事実、白鳥は1909年に「日・韓・アイヌ三国の数詞に就いて」を発表した頃から、日本語の数詞の特殊性論に基づいて日本民族と周辺民族との言語的'人種的関係を明確に否定しはじめたのであるが、彼の神代史研究もちょうどこの時期に始まっていた。津田左右吉の「神代史の新研究」(1913)に収められている津田の序文によると、「記紀」神話の解釈について二人の間で議論が始まったのは、1908年に津田が白鳥が主宰していた満鉄の満鮮歴史地理調査室に入ったのとほとんど同時期であったようであり、また同書の白鳥による序文によると、「神代史が我が皇室の由来を説明するために作られた政治的の意義を含んだものである」という点については二人の意見は当初より一致していたという42)。この時期の二人の「記紀」神話に対する解釈の中で、天皇家の外来説の問題はどう位置付けられたかはっきり分かっていないが、その後の二人の神代史研究において天皇家の外来説と「記結」を日本人種論の研究対象にすることに一貫して反対していたことを考えると、すでに1908年頃から二人とも以上のような研究姿勢を取っていたと推定される。

 ところで、白鳥が折にふれて発表していた国体論、国家論を調べてみると、彼の思想的立場がすでに天皇家の外来説を受容できるところではなかったことがわかる。

 白鳥は「我が国の強盛となりし史的原因に就いて」(1904)「国体と儒教」(1916)「東洋史より観たる日本」(1934)などの論文において、皇室は日本国民にとって生命のような不可欠な存在であり、皇室を離れた日本国家と国民が存在するはずもなく、また皇室の神聖性と尊厳性は国家と皇室の起源の古さに由来し、日本人種の起源の幽遠、その本源の悠久さが国家に対する愛国心と忠誠心を生む原動力だと理解していた43)。こういう国体論、国家論からすれば、天皇家の外来説は純粋に民族起源に関する問題であるはずはなく、そこにはどうしても主観的要素が介在せざるをえなかったはずである。

 結局、白鳥にとっては日本人種論は日本民族の起源を知るために必要なだけではなく、より重要なことは日本民族と天皇制の優越性を証明するために必要だったのであり、そのために、白鳥はこのような目的に合致しないと思われた天皇家の外来説は可能な限り否定し、どうしても天皇家の自生説と日本民族の歴史の悠久さを主張することになったと考えられる。そして白鳥の日本語系統論研究における学説の変化も以上のことと無関係ではあるまい。白鳥と同時代の学者である黒板勝美もすでに『国史の研究』の中で、神代史の中に歴史事実が存在しないという観点が白鳥の言語研究に影響を及ぼしたということを指摘していた44)

 もっとも白鳥が天皇家の外来説を極力反対したことを天皇制との関連だけでは説明できない。白鳥が『神代史の新研究』において、神代史を合理的に解釈して、高天原を外国に求め、天孫が外国から渡来したと説ければ、「日本国土着の人民は、外国から渡って来られた皇族に支配せられたといふことになる。これほど国民にとって屈辱的なことは無い」45)と述べていたことからも分かるように、彼にとってこれは単に天皇制の存立に関わる問題だけではなく、天皇家外来説を認めることは日本国民が外来勢力に支配されることを認めることであり、国民にとってはこれほど屈辱的なことはないという認識を持っていた。天皇家に代表される古代支配層の外来説を認めること、それも同祖論者たちが唱えるような朝鮮半島起源説を認めれば、それまでの天皇制に対する解釈が改まるばかりではなく、日本の古代国家の性格、古代の日朝関係について再定義する必要は確かに存在する。朝鮮を植民地として支配していた近代日本にとってこれはなかなか受け入れがたい問題であり、国家の尊厳、国民のアイデンティティーに関わる問題であった。白鳥が日朝両国語同系論を否定し、天皇家外来説を否定し始めるのがちょうど1907〜1909年頃であったことも、この問題が近代の日朝関係史と関連のあったことが伺える。この時期は日本がすでに朝鮮を保護国化し、併合を準備する段階であり、白鳥の朝鮮観にも質的な変化が生じたことは充分に考えられる。天皇家外来説が明治時代よりは大正時代を経て昭和時代に特に反対論が強く、戦後においてもその傾向が続いているのは、植民地として支配した民族、差別の対象であった民族から日本の支配層が起源し、その人々によって日本の古代国家が創られたという事実、あるいはその可能性を天皇制問題と別に国家の尊厳、民族のアイデンティティーの側面からも拒否感が強かったはずである。


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