「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

4.歴史家における天皇家起源問題

2.白鳥庫吉の言語研究 

 白鳥庫吉は内藤湖南と並んで日本の東洋史学の開拓者としてよく知られている。白鳥の東洋史研究は朝鮮から始まって、次第に西に及び、そしてほとんどアジアの全域にわたり、取り扱った問題はひとり歴史に止まらず、地理・民族・民俗・神話・伝説・言語・宗教・考古など極めて広い範囲に及び、さらに日本の古代史や言語・民族の特質を解明し、邪馬台国の九州説を提唱するなど多岐にわたる研究活動を行った。

 ところで、白鳥が東洋史研究を始めた動機がまず注目される。白鳥の東洋史研究には西洋人の東洋史研究に対する対抗意識が強く働いたことが指摘されているが31)、そこにはもう一つ見逃すことのできない動機が存在したのである。白鳥は1905年に行った「言語学上より見たる『アイノ』人種」という講演の中で、自分は日本人の本源を知るために色々な方面から研究を続いており、それで初めは日本と関係のある朝鮮の歴史を探り、それから朝鮮と関係のある満州民族の歴史を探り、また段々と他の民族との関係を探って中央アジアまでいったことを回想していたが32)、白鳥の研究史を調べてみるとまさにその通りであったことが分かる。

 白鳥が東洋史を始めた動機の一つが日本民族の起源を知ることにあったわけであるが、それでは白鳥はこれらの研究を通して日本民族の起源についてどのような答えを得たのであろうか。

 白鳥は「『日本書紀』に見えたる韓語の解釈」(1897)、「日本の古語と朝鮮語の比較」(1899)、「支那の北部に拠った古民族の種類に就いて」(1900)などの論文において、日本語のウラル・アルタイ語族説を取り、日本語を朝鮮語と同系と考え、日本民族の主流が朝鮮半島または北アジアから起源したと考えていた33)。もっとも、1913年に発表した「日本民族論」において、日本民族はアジア太陸北方のウラル・アルタイ民族と南方民族との混合によつて形成されたと説いていた34)のをみれば、白鳥は日本民族の起源を単に北方だけに求めず、南方との関係も視野に入れていたし、この時期の日本人種論は当時の日本人種論の常識とかけ離れたものではなかった。

 ところが、白鳥は1907年に「韓史概説」を発表した頃から日本民族の起源について以上と異なる主張を取るようになった。「韓史概説」の中で、白鳥は大和民族が朝鮮半島を経て日本列島に移住し、ウラル・アルタイ語族に入る諸民族の中で日本人は朝鮮人に最も類似するとしながらも、大和民族の日本列島への移住は大変古く、朝鮮語と日本語との間には大いなる懸隔があり、そのために両民族は余程古くから別々に発展し、異なる部類に属するものであると主張した35)。さらに1909年に発表した「日・韓・アイヌ三国の数詞に就いて」においては、自分が多年間研究した結果、日朝両言語の関係が意外に疎遠であることが分かってきたと主張した。

 この論文の中で、白鳥は数詞は計算に関する国民の思想を表すために、数詞の類似はその国民間の思想の親密の程度を示すものであるが、日本語と最も密接な関係のあると信じられた朝鮮語の数詞が日本語の数詞とは些かも類似するところはなく、地理上、日本人に最も近い朝鮮人とアイヌ人の数詞が北アジアのウラル・アルタイ語族の数詞に類似するのに反して日本語の数詞とは全く異なることは、日本人の祖先が数詞を使用する程度の文明に達するまでは、以上の二つの民族と接触がなかったことを示すものであると主張した36)

 以後、白鳥は日本語と朝鮮語・アイヌ語の数詞の相違を有力な論拠に日本人は朝鮮人・アイヌ人およびその他の民族と人種的関係がないという主張を積極的に展開していった。

 例えば、白鳥は1913年に雑誌『弘道』の第245号に発表した「東洋史上より観たる日本国」では、日本語は日本の周辺のいずれの民族の言語とも系統が全く異なり、アジアはいうまでもなく、その他の大陸においても日本語のような言語はないと説き、そこから大和民族が後世に海外から到来したという通説を退き、大和民族はすでに歴史以前から日本列島で生まれたものであると主張し37)、その後も、「日本人種論に対する批評」(1915)、「日本民族論」(1929)、「東洋史上より観たる日本」(1934)、「日本語の系統―特に数詞について」(1936)などの一連の論文の中で、日本語の数詞の特殊性論を中心に、日本語が周辺諸民族の言語と異なり、日本民族は海外から渡来したとしてもそれは非常に古い時代のことであることを繰り返して強調していた38)

 それにしても、白鳥の日本語の数詞の特殊性論は言語学界で完全に支持されたわけではなかった。白鳥の以前に日朝両国語同系論を提唱したイギリスの言語学者W・G・アストンと日本の言語学者金沢庄三郎らが数詞の不一致の問題を解決できなかったためとあって、白鳥の学説は言語学界で注目されたが、1916年に言語学者新村出が「国語及び朝鮮語の数詞に就いて」という論文を発表して、言語の系統は語根、語法、語順、語音などを精密に比較した上で定めるべきで、特別に数詞にだけ重きを置くべきではないと白鳥の研究方法を批判し、『三国史記』の「高句麗地理志」に示されている高句麗語の三・五・七・十の数詞が日本語の三・五・七・十と類似することを論証した39)。しかし、白鳥は新村の有力な反論が出てからも日本語の数詞の特殊性論を依然主張し続けていた。

 白鳥は日本民族の起源について大きな関心を持ち、最初の段階においては、日本語のウラル・アルタイ語族説を取り、日本語を朝鮮語と同系と考え、日本民族の朝鮮または北アジア起源説に傾斜しながらも、後に必ずしも言語系統論の決め手にはなり難いし、すでに言語学者から有力な反論も出た日本語数詞の特殊性論にこだわって日本民族と周辺民族との言語的・種族的関係をほとんど否定してしまったことを如何に理解すべきか。


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