「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

3.日本人種論と国体

2.天皇家起源問題のタブー化 

 ところで、以上のような比較的保守的な人々を除いてはすべての国体論者が日本人種論に露骨な拒否反応を見せたわけではなかった。明治期には人類学・考古学分野における「人種交替説」が圧倒的に優勢であったので、国体論者といってもそれを完全に無視することはできず、哲学者井上哲次郎と評論家高山樗牛が「記紀」神話の分析を通して天孫族の起源を南洋に求めていたように合理的な方法で民族の起源を探る人は依然存在していた。しかし、概ね国体論者たちは民族の起源を究明することに積極的な意義を賦与しなかったことは確かである。

 明治〜昭和期の憲法学者であった筧克彦は1926に刊行した「神ながらの道』の中で、日本民族が大陸より一部または全部が渡ってきたとしても、それはあまり古い時のことであるから、本来日本にいたのと同じであると主張したが19)、ここには筧が当時の日本人種論の常識を無視はできず、そうだからといってそれをその通りに受け入れることもできなかった矛盾した心理がよく反映されている。そのために筧は内藤や黒田のように日本民族は完全に日本列島で自生したとは言い切れず、「実際上日本国土の上に湧き出でたと申すべき」というような曖昧な表現を取り、結論としては「日本人が人間として、日本を以て神代随らの本国とする」と主張したのである。

 東京高等師範学校の教授であった亘理章三郎は「建国の本義と国民道徳」という講演の中で、日本民族が海外から入ったきたということを否定はしなかっが、「入る前のものは伝説中に残っていない」として海外から入ったことの意義を矯小化し、混成人種が皇室のもとに民族として一元化したことに力点を置いた20)。亘理は「建国の本義と国民道徳」で、日本民族は皇室を中心に形成され、皇室は神代の時代から国土と国民と不可分な一体的関係を持つという主張を盛んに展開していたが、彼のこのような国体論からすると、皇室の外来説を意味する同祖論は素直には受入れ難く、可能な限り同祖論を無意味なものとして解釈しようとするのも必然な結果だと言えるわけである。

 恐らく明治期の国学の中心人物小中村清矩の次のような考えが多数の国体論者の民族の起源に関する考えを代弁していると思われる。

 小中村は「古典講習科開業演説案」(1882年9月稿)の中で、国学の研究において高天原、黄泉国の類の穿鑿の不必要性を説き21)、それから2年後の1884年に皇典講究所でおこなった「建国の聖詔」という講演の中では、「記紀」を対象に民族の起源を議論する人々を念頭に、高天原は皇統の基本に関する事であるために深く探究する必要がなく、それを究明したとしても只私言として公にすべきではないと主張した22)。ここで考えられるのは、小中村が天皇家の日本列島自生説より外来説を意識していたがために、天皇家の起源に関する問題をおおやけに議論することを好まず、この問題を極力タブーにしたということである。もし、小中村が天皇家の自生説を固く信じていたなら恐らくこのような態度は取らなかったであろう。

 小中村は1895年に刊行した『国史の栗』(吉川弘文館)においても、上代史を知るには古典に拠るしかないが、神典については、「上古の人のかく語り伝へたるものぞと、心得るのみにて、強ひて其義を推し究めざるべき」であって、そうしないと、我が国は韓国により開かれた、皇孫は海外より渡来したなどのありもせぬ主張が生じて、国体の根本を誤り、皇基の始まりを惑わしてしまうとして、神典に対する合理的解釈を戒めた23)

 小中村が高天原の所在の究明を戒めたのも結局はここにその理由があったと考えられる。小中村が「記紀」神話の合理的に解釈を拒んだのは単に研究方法をめぐる問題ではなく、合理的解釈からは国体論にとって最も都合の悪い天皇家の外来説まで生じてくるためであった。そこで、小中村は神典はそのまま信じるべきものであって、強いてそれを合理的に解釈すべきではないと主張したのである。

 以上のように、日本民族の起源を海外に求めることには、とりわけ天皇家の起源を海外に求めることには一部の国体論者から激しい反発が出たし、あるいは表向きの反論はしなくても国体論者たちは概ねこの問題に素直に向き合うことはできず、天皇家の起源に関してはこれを極力タブーにしたのである。そして国体論者たちの日本人種論、ないし同祖論に対する反発あるいは消極的な態度はいうまでもなく彼らの国体論と不可分な関係があった。国体論者たちは一般的に民族論の根拠を「記紀」神話に求め、日本民族は天皇を中心に形成された単一民族であり、天皇と国土と国民は不可分な一体的関係を持つという論理を提唱したわけであるが、そのために天皇家の起源の海外に求めることは、始めから国体論者たちの主張とは相いれないものであり、国体論者たちは以上のよう観念を固守するためには天皇家の自生説を主張するか、あるいは天皇家の起源問題をタブーにしていったのである。国体論者たちにとって、天皇家の起源を「記紀」神話と分離させ、天皇家の起源を国土と国民と分離させることは、国体、すなわち天皇制の存立に関わる問題であり、天皇家の起源問題を単に学問的範囲に留められない理由もここにあった。

 そうすると、同祖論者たちが天皇家に代表される古代支配層が朝鮮半島より起源したと主張したことをどう理解すべきか。この場合、天皇制との関連で言えば、「記紀」神話に天皇の権威をあまり求めず、天皇と国土と国民は一体であるという論理に拘らず、その反面、天孫族の種族として優秀性、天皇の君主としての卓越した政治力を強調していたので、天孫族の起源が優秀な種族と関連すれば、その土着性はそれほど問題にならなかったと考えられる。また、文明開化の時代において、日本人種論の立場からすると天皇の土着性の主張は強力な説得力をすでに失ったことも考えられる。すでに見てきた通り、この時代の天皇家の自生説はいずれも論理的な説得力に欠けるものであり、見苦しい弁明に近いものであった。近代日本の朝鮮に対する植民地支配に関していえば、古代支配層が朝鮮半島より起源したという説が古代から日朝両国は同一民族、同一国家であったという論理を生み出し、朝鮮民族に対する支配と同化を正当化する名分にもなれたからである。事実、同祖論者の大半は朝鮮民族に対する支配と同化の正当化に同祖論を利用したのである。もし朝鮮民族に対する支配と同化の必要性がなかったなら、同祖論があれほど積極的に主張されることもなかったと思われる。


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