「日鮮同祖論」を通してみる天皇家の起源問題

3.日本人種論と国体

1.人種論に対する感情的反発 

 明治期の日本人種論において、日本に先住民が存在したことを前提にし、現代日本人の祖先が海外から渡来して先住民を征服したという「人種交替説」が有力になっていが、民族の起源を外部に求めることには国体論者を中心に当初より反発の声が上がった。天皇家に代表される古代支配層の朝鮮半島起源説を唱える「日鮮同祖論」に対する反擾は特に激しいものであった。

 水戸学の系統を引く幕末・明治期の史学内藤恥隻は1888年に発表した「国体発揮」において、日本の国体の卓越性を力説しながら、天孫降臨や神武東征の故事を誣言して、天孫が他の国から来たなどと想像を逞しくするものがあるとして、「国体を汚辱し、皇威を軽蔑するの大罪にいたりては、斬裂尚ほ足らずといって可なり」と西洋人の日本人種論に同調する人々に激しい怒りを発し、日本民族がすべて天神の子孫であると主張した12)

 以上のような内藤の反発は学問的問題よりは一種の信仰的な問題であり、それは彼の国体論と不可分な関係があった。内藤は「国体発揮」に於いて、天祖の子孫である皇室が日本の土地の固有の所有者がであること、日本の人種はすべて天神の後裔であること、日本の教化は天祖の宝訓により成立し、祭祀を以て根本とすること、日本の衣食の源は皆他国の伝来物ではなく天祖の教えによってできたことなどの四つの点を国体の特徴として上げていたが13)、天皇家が外部から来たとすれば、天皇家の自生説に根拠を置いたその国体論は成立し得なくなるわけである。そのために内藤にとっては天皇家の外来説は到底受け入れられない異端の説だったのである。

 また、内藤を含め当時の国学者たちは神武天皇東征伝説について、それは神武天皇の他の勢力に対する征服行為ではなく、筑紫から大和の旧都への遷都であり、旧地の恢復であるという解釈を多く取っていたが、明治・大正期の国文学者萩野由之もこのような理解に基づいて、近代の日本人種論者たちが神武天皇東征を天孫人種が大和の長髄彦等の大和人種を亡ぼして中国を占領したように解釈するのは、天孫の降臨をひたすら海外からきたとする妄想に起因するものだとして、そのような説は「大いに国体を汚し、国史を傷ふもの」であると非難し、国学者横山由清の天孫族朝鮮半島渡来説については誣妄な説であると退けていた14)

 明治期の代表的な国学者である黒川真頼は1890年8月に発表した「日本人種は蝦夷人種なりと云ふ説を弁ず」で、西方から渡来した神武天皇が日本の固有民族であるアイヌを征服して大和の橿原に都を定めたが、その中の一部が王化に帰せず東国に逃亡し、そこから北海道に移らて現在のアイヌ人になったというアイヌ先住説を「夢のやうな説」「妄想説」と表現したり、そのような説を説く者こそエミシであるとして、このような議論に対する感情的反発を露にしていた15)。やはり黒川も内藤と同じく日本人をすべて天神の後裔として画一的に捉えたので、彼にとってアイヌは異人種として認められなかったし、ましてアイヌ先住民説はあり得ない話だったはずである。

 星野恒・久米邦武ら初期官学アカデミズムの学者たちが日本の大陸侵略という現実的状況と合わせて「日鮮同祖論」を積極的に提唱したのであるが、日本人が朝鮮人と祖先を同じくするということも一部からは非難の声が上がり、特に皇祖が朝鮮半島から渡来したと公言した星野の所論については激しい反発が起こった。

 星野が1890年に『史学会雑誌』第11号に「本邦人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者ニ質ス」という論文を発表してから2年後の1892年から93年にかけて、神道家深江遠広は神道系の惟神学会の機関紙『随在天神』(カムナガラ)に「『本邦人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者ニ質ス」の邪説を読む」という長編の論文を発表して、星野の「日韓同域論」を江戸時代の藤原貞幹の狂説『衝口発』に付会した邪説であると決めつけて猛烈に攻撃した16)

 もちろん、星野の「日韓同域論」には厳密な史料批判を欠いたこじつけ的な側面が多く見られ、特に日朝両民族の言語が同一である主張は言語学的論理に基づくものではなかったので、論駁できる余地は十分あったわけである。しかし、深江は星野が皇祖が朝鮮半島より渡来したという主張を「国体を汚し皇室を誣る大奸曲」「皇国を韓土の末国ぞと貶しむる奸曲の逆言」であると非難し、星野が「記紀」の所伝が古代の日朝関係の真実を正確に伝えていないと疑うことに対して、正史を曲げる不敬不忠な態度と決めつけるなど論理的批判というよりは感情的反論を優先させていた。例えば、素戔鳴尊の新羅降臨伝説について、素戔鳴尊は天照大神の御弟神にして日本で生まれたので、新羅から渡ってきたというのはとんでもない憶説であり、素戔鳴尊は日本から新羅に渡って新羅を経略したと主張し、星野が両民族の言語が同一であるという論拠の一つに、上世の日朝両民族の往来に通訳が付いていないことを上げていたのに対して、韓地は素戔鳴尊が巡行し、御毛沼命が国王になったところなので、向こうの人に日本の事も日本語も教えたためであろうと反論した。

 深江にとっては、皇祖が朝鮮半島より渡来したと主張することは即ち日本を朝鮮の末国にすることであり、国体を汚くし、皇室を卑しめることであり、そのような主張は到底受け入れられないばかりではなく、あってはならない邪説であったのである。もっとも、星野の本意は「日韓同域論」を通して日本の朝鮮支配に歴史的正当性を賦与することにあったわけであるが、深江はそういう意図は分かっとしても皇祖が朝鮮半島より渡来したことはどうしても容認できず、星野に向かって「皇祖は韓土より来り給へりなどの狂言を止めて、我が朝の典籍を信ひき、韓土は皇国より開きし国なり、韓王は我が皇祖の支流なり、といふことを説きもし、諭しもせらるべきこそ」17)と相反する解釈を行うことを進めた。

 深江の星野の「日韓同域論」に対する反論は、江戸時代の本居宣長の藤原貞幹の『衝口発』に対する反論18)と全く同じ性質のものであり、深江の「『本邦人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者ニ質ス」の邪説を読む」という論文はまさに宣長の『鉗狂人』の現代版であったわけである。


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