神話時代からの日韓交流史(2)

「高天原故地」の峯から歴史を展望する

朱子学は李氏朝鮮において、呪いとなった。朱子学は、周学、程学、張学 

 朱子学は李氏朝鮮において、呪いとなった。朱子学は、周学、程学、張学、理学、新儒学とか、宋学など、いろいろな名によって呼ばれるが、明朝で全盛期を迎えた。朱子学はまったくの理論学であったために、その解釈をめぐって争点をつくりだして、党争を悪化させた。

 李朝は五百年の長い年月にわたって、宮廷を囲む少数の両班と宦官たちが、党派抗争に耽けるかたわら、国民を極貧のどん底まで追い込んだ。李朝初期においては、党争の主体が四色党派<サセクタンパ>として知られた。これは老少東西の四つのグループだった。はじめは東人と西人に分かれて対立したが、西人派の威勢が高まるなかで、老壮派と少壮派に分裂した。そして東人派も、北人と南人に分かれ、時とともに無数の党派に増殖した。

 これらの党派が政権を奪おうとして、競った。儒学派の対立、王室の内紛などが複雑に絡み合い、士禍<サフア>と党争が激化した。東西南北、老少といっても、地域や年齢を指したものではない。士禍の「士」は、士大夫を指している。

 このような党派抗争は、相手を陥れるために、わざと非生産的な反対意見を掲げて攻撃した。そして、本宗家である中国のつまらない例が規準になったり、法にもなった。反対意見をもつ他党の党人を苛めて、一族全員を皆殺し<ジェノサイド>にして、玩<もてあそ>んだ。一族は六族までを含んだから、六等親にまで及んだ。

 党争は勝者が勝利の甘い果実を独り占めしたので、権力が一極集中した。ザ・ウィンナー・テイクス・オール――勝者がすべてを攫って、独り占めする――ということは、北朝鮮においてもっとも顕著な形をとって現われ、韓国においてもかなりのところまで当たっている。

 李朝七代目の世祖王は、王位を強奪した野心家であったが、そのもとで勲旧派と士林派に分かれて、愚味な王に対する露骨的な忠誠競争が行なわれた。そういう場合には利己主義を、忠誠心や、儒教の教義の解釈によって飾って、包み隠した.

 たとえば、一六八八年に十六代の王の仁祖の王妃である趙大姫が死んだ後に、西人派と南人派が服喪の期間を一年にするか三年にするかということをめぐって、意見を対立させた。その時の王によって、一年にきまれぱ、南人が追い出され、数十年後に次の王が三年を支持したら、今度は逆転して西人派が追放され、ジェノサイドの運命を甘受した。これは理由のない刑死だった。

 士大夫や、両班たちは党派を結成して中央に集中して世襲によって、反対党を打倒することが努めであると錯覚していた。

 『経国大典<キョンククテジョン>』のなかに、裁判制度が規定されていたものの、有名無実だったから、王族といっても安心できなかった。李朝が続いた間、十六人の王子と、数十人の王族がつまらない投書によって処刑された。

 『経国大典』は、李朝の七代目の王である世祖の命によって編まれた基本法典である。現代なら憲法、民法、刑法を合わせたものに当たる。

 このように凄惨な党派争いの様相は、中国の唐、宋、明代の党争を見習ったものだった。王が幼少であれば、ことの終始もわきまえないで、喝采した。宦官を交えて、些細なことで対立派の党人を投獄したり、島流しにしたり、処刑し、その家族を奴隷である奴碑<ヌヒ>の身分に落した。両班であっても、党争に敗れれぱ、奴碑に転落した。奴碑は宦奴<クワンノ>と私奴<サノ>とに分かれたが、勝った側の自由なお手盛りに委せた。


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