神話時代からの日韓交流史(2)

「高天原故地」の峯から歴史を展望する

韓族が七世紀までに築いた領土は満州からシベリア沿海州にもわたり 

韓国・加耶大学客員教授 崔 基鏑


アジアの大国だった高句麗、百済、高麗が消滅したことによって、朝鮮半島は暗闇によって閉ざされた。統一新羅と李朝は、文化的なジェノサイドを行なった。


 韓族が七世紀までに築いた領土は満州からシベリア沿海州にもわたり、文化と芸術においても独特の色彩を発揮して、中国の大帝国であった、隋、唐と拮抗する力を発揮していた。

 隋は漢帝国の崩壊後に約四百年ぶりに、五八一年に中国を再び統一して、首都として長安を築き、威勢を振った。高句麗は隋に対する大小の戦闘を加えると、三十三回も戦ったことが記録されているが、そのつど勝利を収めた。

 隋の初代の皇帝の文帝は高句麗を征服しようとして、三十万人の大軍を送ったが、完敗した。隋朝の二代目の暢帝広は、『三国史記』と『隋記煬帝・上之下』によれば、二回にわたってそれぞれ二百万人と百十万人の大軍を送ったが、高麗軍の手によってやはり壊滅した。隋朝の崩壊は高句麗への遠征に、国力を傾けたのにもかかわらず失敗したことが、もっとも大きな原因となった。

 煬帝は六一八年に親衛隊によって試され、同じ年に唐の高祖となった李淵が、唐朝を創建した。李淵の第二子の世民が玄武門の乱によって兄と弟を殺して、皇位を継いだ。

 太宗世民は六四五年に大軍を親しく率いて、隋時代からの念願であった高句麗への侵略軍を発進させたが、高句麗軍に遼東半島の英城子の山城であった安市城の攻略戦で敗れた。その後、高句麗への侵攻を三回続けて試みて、失敗したことが、唐の各地において内乱を招く原因となった。高句麗の乙支文徳、淵蓋蘇分の名将が、隋軍と唐軍に対してそのつどよく戦って、撃破したのだった。

 七世紀前半までのアジアは、高句麗と百済の全盛時代に当たった。

 韓族の悲哀は二回にもわたって、内部の敵によって、国が滅ぼされたことである。せっかく築いた広大な国土と民衆を放棄し、“韓国・朝鮮病”を胚胎させた歴史を招いた。


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