神話時代からの日韓交流史(1)

夢の「高天原故地」から韓国と日本を眺望する

『続日本紀』は、「元正天皇霊亀二年、駿河、甲斐、相模 

 『続日本紀』は、「元正天皇霊亀二(注・七一六)年、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ケ国在住の高麗(高句麗)人一千七百九十九人を武蔵国に遷し、高麗郡を置く」と記録している。

 埼玉県日高市にある高麗神社が昭和五十四年に発行した『高麗神社と高麗郷』は、次のように述べている。これは昭和六年に刊行されたものを、復刻したものである。

     「武蔵国の高麗郡及び新羅郡、甲斐の巨摩郡、摂津の百済郡、其の他諸国に於て、朝鮮古代の国名を以って、都邑の名、山川の名、原野の名となすもの少からざる事を思へぱ、日韓の歴史的関係及び日韓融和共栄の上より見て、一種無限の思慕感懐の念が油然として起るを禁ずる事能はざるなり。(略)

     天智天皇の御世に当り、朝鮮古代の高句麗・百済の二国の亡ぶるや、之の国の上下の人の我が国に移住帰化して、ついに王臣となり、日本国民となり、長く王室を護り、国事に尽力した者は多い。(略)

     当時、武蔵国は古代日本の帝都所在の地を去る事数十百里、王化未だ洽<あまねし>からず、所謂辺陬<しゅ>の地方にして、帝都所在の畿内地方に比して、地は広漢、人は稀薄。現時の如き繁栄ならず。

     分けゆけど花の千草のはてもなし

       秋をかぎりの武蔵野の原

     出づるにも入るにも同じ武蔵野の

       尾花を分くる秋の世の月

     の歌によりて、以て王朝時代の武蔵野の広漢無極の如き状態を想見すべし。斯の如き処に多数の高麗人が既に今より一千二百余年前に、其の開墾拓殖に従事して、以て現代繁栄の基を建て、源を発せし事は、武蔵野・東京府、埼玉県等を云々する者の必ず注意もし、思念もすぺき事なり。」

 この『高麗神社と高麗郷』は、高麗神社の祭神である高句麗王であった若光王について、詳しく記している。若光王がどうして遠くかけ離れた東海の日本まで、追われて移ったのか思うと、国の興亡の歴史について、後世に生きている私としては、心から涙をそそぐほかない。


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