神話時代からの日韓交流史(1)

夢の「高天原故地」から韓国と日本を眺望する

当時の朝鮮半島は、どのような状況にあったのだろうか? 

 当時の朝鮮半島は、どのような状況にあったのだろうか? 百済(紀元前四二年から紀元六六〇年)は古代世界において、他に類例をみないほど高い文北水準を保っていた。日本では四世紀末期の応神天皇治世に、百済王が学者であった阿直岐<あちき>を派遣して馬二頭を天皇に貢上した。阿直岐は経典に通じていたが、皇太子であった菟道稚郎子<うじのわきいらつこ>の師となった。阿直岐が王仁を自分より優れているといって推挙したために、百済から王仁が来朝した。この時に、王仁は『論語』(十巻)と『千字文』(一巻)を伝えた。王仁は冶工、醸造人、呉服師をつれて来朝したが、“文<ふみ>の首<おびと>”と仰がれ、日本に文字が普及するきっかけをつくった。

 『日本書紀』によれぱ、当時の大和朝廷では百済語というと、韓国語が話されていた。これは帝政ロシアの宮廷において、フランス語が用いられていたようなものだったろう。

 今日でこそ、日本において韓国は「近くて遠い国」と呼ばれているが、王仁の時代には朝鮮半島と日本はほとんど一体といってよい関係によって、密接に結ばれていた。

 王仁の子孫は代々にわたって河内に居住して、朝廷に文筆と記録を編纂することによって仕え、日本文化の発展に貢献した。王仁はその名を『古事記』のなかでは「和<わ>迩<に>吉<き>師<し>」、『日本書紀』では「王仁」と書かれている。王仁は百済の近仇首王代の学者であって、全羅南道の霊岩の月出山の麓にある基洞が生誕の地とされており、毎年、記念行事が催されている。

 ところが、最近になって王仁が漢の高祖の子孫であるとか、後漢の霊帝の後裔であると称するようになったのは、史実を歪めているものである。

 加耶文化研究所の学術会議が開かれた日は、空が晴れあがって爽やかだった。六月のこのあたりは萌えたつような緑が眩しく、もっとも快い季節である。私はかつての伽耶の都のあたりを散策しながら、韓日関係と、新羅、百済、高句麗による三国時代以後の韓国の悲しい歴史について思いを巡らせた。

 韓国は三つの国に分かれていたが、その時代までは、国際的に高貴な「紳士の国」として知られていた。「紳士」は日本では明治以後に英語の「ジェントルマン」の訳語として定着するようになったが、もっと古い言葉である。「紳」は貴入が衣冠束帯の時に用いる大帯であって、ここに笏<しゃく>をはさむことから、高い人格と教養をもった男子を意味した。

 三国時代の韓国は、中国古代の地理書である『山海経<せんがいきょう>』や、中国の前漢の文学者である東方朔(生没不明)による書物や、『三国志魏志東夷伝』などに現われるが、「仁と義」、「礼、勇、寛大」、「博愛と禁欲的な廉潔」、「自尊、武勇、快活」さに溢れているとして描かれている。このために孔子も、韓族が住む国について「君子居之(君子が住むところ)」と述べて憧れ、当時の中国が腐敗しきって無道であることを嘆いて、義憤のあまり韓のいずれかの国に帰化しようと考えたほどであった。当時の韓族は近隣から、尊敬の的とされていた。

 朝鮮半島からやってきた、これらの夥しい数の帰化人が、徳性が高い社会を築くのに大きく貢献した。

 私はその後の韓国が孔子も羨んだほどの高貴な国から、どうして病んで、退廃した国になってしまったのだろうか、と案じた。その答を求めるためには、歴史に分け入らねばならない。


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