「任那」について

終わりにまとめを述べる 

 終わりにまとめを述べる。「任那」はもと、nimna、「主の国」、ひいては「本家」の意であって、伽羅諸国の中の本家である。「高霊伽耶」(これは後世の称。もとは単に「伽耶」、あるいは「大伽耶」と呼ばれた)を指す名称であったが、次第に、そこから分れてできた伽耶諸国をもひっくるめて呼ぶ様になった。倭も天孫族と呼ばれる一族はその分れであり、したがって天孫が倭の政権を掌握する様になっても加羅を「任那」と呼ぶのは当然である。しかし、伽羅諸国をまとめて呼ぶのに、「高霊伽耶」を代表として「任那」という様にもなり、日本人の癖で、ニムナをミマナと誤って呼ぶ様になり、それが、ミマキの天皇よりの類推で、天皇のミヤケと思いこむ様になってしまった。朝鮮半島においても、新羅や百済から見た場合、伽羅諸国を一まとめにして呼ぶ時には、その主家たる「任那伽耶」の「任那」で呼んだ。ともかく「高霊伽那」は、伽羅諸国の中心であって、滅亡に際しても最後まで残ったのである。

 次に「日本府」であるが、四六〇年頃には「任那国司」の語があったり、「日本府行軍元帥」とあったり「任那日本県邑」とあったりするが、五四〇年ごろから「任那日本府」という名に定まってくる。これは資料の性格による違いということもあろうが、一貫して眺めれば始めは居留民団の様なものであったのが、次第に武力をもって護られる様になり、任那の外交にも口を入れる様になり、百済にも新羅にも恐れられていたが、結局五六二年任那の滅亡と共に撤去されたということである。ただし『三国史記』には、任那(大伽羅)滅亡に際して日本府がなにかの働きをなしたのか、あるいはその時にすでに撤去されていたものか、なんらしるすところは無い。

 『日本書紀』「欽明二十三年(五六二)」六月には、新羅が「我官家」を破って、人民を毒害したことを非難し、その仇を報ぜんという詔が出ている。そして同七月紀男麻呂を大将軍として「★(左:口/右:多)★(左:口/右:利)」(五一二年に百済が任那より併合した上★(左:口/右:多)★(左:口/右:利)・下★(左:口/右:多)★(左:口/右:利)の地があるから、当時は百済領であったか。)から、河辺瓊缶<にへ>を副将として「居曽山<こそむれ>」(全羅北道の東南端、「居斯勿県」か)から任那へ出陣させた。紀男麻呂は勝ったが、河辺瓊缶は得意になって進撃したため敗れ捕虜になり、ひどい悔辱を受けた。この戦いは『三国史記』新羅真興王二十三年(五六三)秋七月に、

    百済侵二掠辺戸一。王出レ帥拒レ之。殺獲一千余人。
とあるのに相当する。この時の倭軍はおそらく舟帥によって百済の西海岸へ上り、東進したものであろう。


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