「任那」について

その他に「任那」の名称の見られるのは 

 その他に「任那」の名称の見られるのは『日本書紀(8)』およびその中に引用する百済の史書である。以下逐一その用例を検討してみよう。

 一番古くは『崇神紀』「六十五年七月」に、

    任那国遣二蘇那曷叱知一、令二朝貢一也。任那者去二筑紫国一、二千余里北阻海、以在二鶏林之西南一。
とある。この「蘇那曷叱知」については『垂仁紀』「二年是歳」の注に載せる「都怒我阿羅斯等」「于斯岐阿利叱智干岐」と関連があると思われ、今当面の問題とは外れるので、別稿「『阿羅斯等』について(9)」にゆずる。

 右の「二千余里」は『魏志倭人伝』の記事と対照すれば「三千余里」でないと具合悪い。

 ついで『垂仁紀』「二年是歳」に、

    任那人蘇那曷叱智請之、欲レ帰二于国一。蓋先皇之世来朝未レ還歟。故敦賞二蘇那曷叱智一。仍齎二赤絹一百匹一、賜二任那王一。然新羅人遮二之於道一而奪焉。其二国之怨、始起二於是時一也。
とあって、それに長文の「都怒我阿羅斯等」についての記事が注の文として附いているが、これは前掲論文「『阿羅斯等』について」で詳述したのでここではとり上げない。右の本文で注意されるのは、任那王に対する日本からのみやげ物が、途中で奪われたという事件である。もしこの任那が金海の様に南海岸に接したところであったならば、そういうことは起きないはすである。ということは、「任那」へ行く途中に新羅の妨害に遭うとすれば途中に新羅の領土を通らないにしてもその近辺を通るという地理を考えねばならぬということであって、高霊の地はその条件には合うとしてよいであろう。倭と任那との通交は『日本書紀』によればその記事が初めであるが、より古くからあったと考える方が自然であろう。

 『神功紀』「四十九年三月」に、倭と百済とか協力して新羅を破ったことがあり、

    平二定比自★(左:火/右:本)・南加羅・★(左:口/右:碌のつくり)国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国一。
とある。この中の「加羅」とだけあるのは高霊伽耶のこととされており、それは「加羅」とだけいえば「高霊伽耶」のことを指すという当時の慣習にかなうことである。

 『神功紀』「六十二年」に引用する「百済記」に、「沙至比跪」(「葛城襲津彦」のことかというが不詳)なる日本の将軍が新羅を撃つために遣されたのに、かえって「加羅国」を伐ったとあるが、その「加羅国」は前記と同じであろう。

 『応神紀』「七年九月」に、

  高麗人・百済人・任那人・新羅人・並来朝。

とあるが、これだけではその「任那」はどこかわからないが、高麗・百済・新羅と並べられているところをみると、一つの国としての「任那」を考えているわけで、諸伽耶の代表としての高霊伽耶の呼称が、それらが合わさった一つの国の呼称になったものであろう。

 『応神紀』「十四年是歳」に、

    弓月君自二百済一来帰。因以奏之曰、臣領二己国之人夫百廿県一而帰化。然因二新羅人之拒一、皆留二加羅国一。爰遣二葛城襲津彦一。而召二弓月之人夫於加羅一。然経二三年一、而襲津彦不レ来焉。
とある。この問題は『応神紀』「十六年八月」に.「平群木菟宿禰」「的戸田宿祢」を「加羅」へ派遣して武力で解決したが、天皇の詔に、

    汝等急往之撃二新羅一、披二其道路一。於レ是、木蒐宿祢等進二精兵一、莅二于新羅之境一。
とあるところをみると、百済から、倭へ渡ろうとする港に至るまでの間新羅の国境に近い処があり、そこから新羅の妨害か行われたと考えられる。当時の百済はまだ漢江流域を中心とする地方の国であり、倭への行路は伽羅の地を通らざるを得なかった,したがってこの「加羅」は『垂仁紀』にあった「蘇那葛叱智」の場合と似た様なケイスで、「高霊伽耶」とするとうまく説明できる。新羅が妨害に出るのは密陽あたりからではないかと想像されるのである。

 ともかく、「任那」と「伽羅」とは、『紀』の用例からすると、地域的には「伽羅」、政冶的に一国を指す時は「高霊伽耶」を代表させて「任那」を用いたらしく思われる。百済では「任那」の意味は正確に理解していたであろう。『応神紀』「二十五年」の注に引く「百済記」に、百済において権勢をほしいままにしている「木満致」について、

    木満致者、是木羅斤資、討二新羅一時、娶二其国婦一、而所レ生也。以二其父功一、専二於任那一。来入二我国一、往二還貴国一、承二制天朝一、執二我国政一.権重当レ世。然天朝聞二其暴一召レ之。
とある。父の功により、「任那」で専横の振舞いがあり、百済の政治をも左右した、というのである。そういうことがどうして行われ得たか。木満知とは何国の者なのか。おそらく任那の国の者なのであろうが、それがどうして百済の国の政治をも左右する程の力があったのか。しかもそれを日本朝廷が召喚することがどうしてできたのか。結局、当時倭をも含めて国家体制がそれほど確立していなくて、大きな武力を持つ集団があると、それがあちらこちらで幅をきかしていたということがあったのであろう。これは中世までの日本の歴史、近現代の世界各国の歴史を顧みてもよく理解できることである。この場合の「任那」は、百済に出入できるところ、新羅・百済・倭とならび立つ一国でなければならないと考えられるから、伽羅諸国をまとめて一国とし、しかもその代表として高霊伽耶を指していると考えられ、田中氏の説(10)がよいと思う。


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