「任那」について

「任那伽羅」の最古の用例は 

 「任那伽羅」の最古の用例は、周知のごとく高句麗広開土王碑(四一四年)に見えるものである。この碑はあまりにも有名なものであるからこの碑を巡る議論は今措いて、任那に関するものだけを挙げれば次の様なことである。永楽十年(四〇〇)、高句麗広開土王は歩騎五万を遣して新羅を救わせ、男居城より新羅城に至った。そこには倭が満ちていたが、官兵、つまり高句麗軍が到着するや倭賊は退いた。その下入字欠損でついで「来背息」という意不詳の三字があって、

  追至任那加羅、従抜城、城即帰服。安羅人戌兵、抜新羅城。

以下また意不詳の文があり、その下長文の欠損がある。意不詳の部分が多いが、高句麗軍が倭軍を追って「任那加羅」に至り、城はすぐに高句麗軍に帰服した。(そのすきに)安羅人の守備兵が新羅城を占拠した、というのであろうと思う。安羅は安羅伽耶で、この時も、倭と伽羅の連合軍中に参加していたものであろう。後世は安羅に日本府があったが、この時代のことは不明である。この「任那加羅」がどこであるかについて田中俊明氏(5)は「金官国」であると解され、鮎貝房之進氏、李永植(6)氏は「高霊加耶」であるとされる。また、「任那」と「伽羅」を分ける説もあるが、それではこの部分の文意が不明となり、うまく説明できない。倭が高句麗軍に敗けて逃げるのに、その南には安羅戌兵がまだ健在なのであるから、さらにその南の金海まで逃げて行き高句麗軍がそこまで追っていった、とは考えにくく、倭軍の根拠地のあった西方の山地の高霊へ逃げたのであろうと思う。要するに四〇〇年頃には「任那加羅」で加羅諸国の主家、高霊伽耶を指すことが高句麗にまでよく知られていたということである。

 次に朝鮮資料で「任那」の出てくるのは『真鏡大師宝月凌空塔碑』であるが、これは九二四年の作であり、その一節に「大師は…俗姓は新金氏、その先祖は任那王族」とあるものである。「新金氏」というのは新羅に降った金海の金氏のことであるから、その先祖の「任那」は金海のことだと鮎貝氏はじめ一般に解されているが、それならば「新金氏」だけで十一分のはずである。つまりその姓が出身を示すわけであるから、「姓は新金氏」とだけで、金海の出身であることはわかるのである。それにあえて「先祖は任那の王族」というのは、「もっと先祖を訪ねれば任那、すなわち伽耶総本家の任那の王族なのだ」とも解せよう。あるいは漠然と伽耶諸国をひっくるめた一国としての「任那」を指しているかもしれないが、決してこの「任那」がすなわち金海だとはいえないのである。

 もう一つ「任那」の語は『三国史記』巻第四六の「強首」の伝に見える。

  臣本任那加良人

とあるのみで、これだけではこれ以上のことはわからないが、これも「任那加良」を一語とする証とはなろう。


HOME