SAPIO誌 平成14年5月22日号(小学館)
偽史 日本歴史のルーツを韓国に求める「捏造旧跡」が増えている

『地球の歩き方』も根拠のないまま「遺跡」として紹介 

 『日本書紀』(応神紀)には百済から「王仁」という学者が派遣され皇太子の師となったという記述がある。また『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)にも「和迩吉師」という百済の学者が『論語』10巻と『千字文』1巻を献上したという記述がある。日韓の学界では記紀の史料的性格や『千宇又』の成立時期からこの記述の信憑性については慎重な姿勢をとっている。ところが韓国にはあろうことか、この王仁の「遺跡」が存在し、観光名所になっているのである。「王仁」の遺跡は韓国の南西部である全羅南道霊巌郡に位置しており、正式名称は「王仁博士遺跡址」という。この「遺跡」には王仁博士の位牌と肖像画が奉安されている「王仁廟」や王仁博士の誕生・修学・渡日・学問伝授などの記録が保管されている展示館の他に、王仁の生家跡や王仁が飲んだ泉、王仁が修学し学堂、王仁が勉学に励んだ洞窟などがある。

 『日本書紀』『古事記』には「王仁の故郷は霊巌である」などという記述はないのであるがこれは一体どうしたことなのか。

 「王仁」の記録が韓国で初めて現われるのは韓致★(上:大/下:淵)(1765年〜1814年)の『海東繹史』である。『海東鐸史』の記述は『日本書紀』『古事記』の記述をふまえたものであるが、これは日本の『和漢三才図会』という史書の記述をそのまま書き写したためである。そこには「王仁が霊巌で生まれた」などという記録は一切ない。実はこうした「学説」が生まれたのは20世紀になってからなのである。

 王仁が霊巌で生まれたという記述が現われる史料は李秉延『朝鮮簑輿勝覧』(1922年〜37年)である。なぜ李秉延がいきなり霊巌を王仁の出生地としたのかは明らかではないが、1932年に全羅南道羅州・栄山浦にある本願寺の日本人・青木恵昇という住職が霊巌に王仁の鋼像を建てようという運動を行なっていたことが明らかになっている。事実、日本統治下の朝鮮において日韓併合を正当化するために『古事記』『日本書紀』の記述を朝鮮に無理やりこじつけようとする試みがあり、王仁の銅像建立もこのような意図のもとに行なわれたと思われる。

 青木恵昇の活動の後にも、日本人が何度も霊巌を訪問し「調査」を行なったとされる。

 さて、その後「王仁は霊巌で生まれた」とする主張は影をひそめた。再登場するのは霊巌郡によって刊行された『霊巌郡郷士誌』(1972年)からだ。

 特に地元の郷土史家であり「博士王仁研究所」所長の金昌洙氏の活動によって「王仁の出生地は霊巌である」という「学説」力広く流布され、1976年に「王仁遺跡趾」は全羅南道記念物20号に指定された。1985年からは自治体によって大々的な遺跡整備事業が行なわれ、今日に至っている。のみならず霊巌那はこの「遺跡」を村おこしや国際交流に利用しているのである。

 「遺跡」には1987年に日本の団体から贈られた「浄化記念碑」が建てられ、霊巌郡は毎年4月初めに「王仁博士春享大祭」なる祭りを行なっている。また、毎年11月3日には大阪の枚方市にある「王仁塚」(こちらは「王仁の墓」とされている)に交流団を派遣して「王仁博士墓前祭」に参加しているのである。

 日本人観光客も多く訪れている。また、ダイヤモンド社の発行する旅行ガイドプック『地球の歩き方』(2002〜2003年版)にまで「ここは百済の時代、応仁天皇に請われて日本に渡り、千字文と諭語を伝えた王仁博士が生まれたところ」と書かれているほどである。


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