第4回學術講演曾

韓神(からかみ)祭の祭神の正体 

歴史評論家 朴炳植


 西暦927年(醍醐天皇の延長5年)に編纂された延喜式は、其の当時畿内の神社で祭られていた総計3132柱の神神にランクをつけ、其の高低にしたがって、貢ぎ物の種類や祭主の官位を明記した記録である。

 それによると、天皇が居住する宮中には、30柱の神が祭られていたが、韓神かみからと坪ばれる3柱の神だけは、特に擇ばれて宮内城に祀られ、太政官だじょうかんを從えて、天皇みずからの手のよって祭が行なわれるように規定されていた。

 其の韓神からかみは皆、文字通り韓國から渡って來た神様だが、其の名前は、次の通りである。


 園神そのかみ:大物主命おおものぬしのみこみ

注:大物主命は大國主命おおくにぬしのみことの別名のひとつであるが、園神そのかみとは、始租の神と言う意味である。

 韓神:大己貴紳おおなむちと小名毘古那神すくなひこなのかみ

注:大己貴紳おおなむちも大國主命おくにぬしのみことめ別名のひとつで、大國主命は、皆あわせて七つの名前を持っている。


 そこで問題になるのは、小名毘古那神すくなひこなのかみにある。神代記が傳えるところによると、小名毘古那神すくなひこなのかみは、"大國主命が出雲の美穂の岬日本書記には稻佐の浜と記されているに出ている時に、海の向うから船に乗ってきた神である。

不思議なことに、産神うぶすのかみは、大國主命に次のように言い渡したという。小名毘古那神すくなひこなのかみは自らが産っだ子であるが、指の間から漏れなくかっていたが今歸って來たのだ。大國主命よお前は小名毘古那神と兄弟になって、國造りをせよ


そのお言葉に従って二人は國造り勵っだが、しぱらくして、小名毘古那神は常世國に渡ってしまった。すると大國主命は小名毘古那神がいなくなった今、私獨りでどように國造りが出來というにかと言って嘆いた言う。


ここで謎になるのは。次の三点である。

o海の向うから歸ってきた小名毘古那神は、どうして大國主命の國造りに重要な役割を擔うだけの能力、つまり國を統治する方法を知っていたのか

o國造りが完成する前に常世國に渡ってまった小名毘古那神をなぜ皇室はもっとも貴い神として崇め奉るのか

o韓神祭は、毎年の春秋の二度行なわれる。特に春には、毎年月日に行なうが、その日は、日本の建國記念日となっているから、謎は深まるばかりである。


その謎を解く鍵は、韓國の三國史記三國遺事に隱されている。


まず小名毘古那神は出雲國の海の向うから歸ってきたという。


當時、出雲國の海の向うにあったのは新羅である。

では、彼は新羅で何をしていたのだろう

それに対する正解は、國造りを共にしなさいと大國主命に教えた記紀の記録が示してくれる。

つまり、小名毘古那神とは、新羅の王座にいた昔氏王族だったのである。


三國史記と三國遺事には、次のような傳承が記されている。新羅國第四代の王、昔脱解すくたるへは、倭國の東北千里の所に生れたが、船に乗って新羅に渡ってきた人である。

古代の倭國は今の博多から始まっていた。そこから倭國の東北千里の所は、古代出雲の國である。(韓國の千里は日本の百里、すなわち、400に相當する)。

昔脱解に始まった昔氏王権は、計8代に渡って172年間続いたが、西暦355年、金奈勿王によって王座から追われた。西暦356年以降の新羅史上には二度と昔氏の王は現れない。


これによって明らかになるのは、小名毘古那神が出雲國に歸ったのは恐らく王座を追われた西暦年か年頃であろうと言うことである。

その波が韓神として皇室に祀られるばかりでなく、その祭日が建國記念日になっているのは、小名毘古那神が、いわゆる神武東征を可能たらしめた謎の人物、武内宿であったからである。

時間の制約があるので、そのことについては、小著、とくにヤマト渡來王朝の秘密をご参照たまわりたい。


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