第4回學術講演曾

第4回高天原祭 歓迎辞 日本語版 

加耶大学校 総長 李慶煕

 日本東京を始めとして、名古屋・大阪・九州大分県等の遠い処から第4回高天原祭に参席なさるためにはるばるおいでました日本人お客さん皆様とSeoulを始めとして全国各地から集まって下さいました国内の来賓皆様公私多忙にも拘らず御参席なさいまして誠に有難うございます。私は両手を挙げて歓迎致します。

 日本東京にある筑波大学の名誉教授である馬渕和夫博士を始めとする多くの学者達が日本の歴史書籍の中で一番古い書籍は古事記と日本書紀であります。そこには天照大神と弟素戔鳴尊は父母と共に高天原と称する地方に住みながら農業と布織をしながら暮らしていましたが素戔鳴尊は幼い時から悪い事ばかりをしていました。齲とへば山に火をつけて火災を起したり特に姉さんである天照大神に対して悪いことを沢山したために高天原の人人が皆集まって会議をした結果、素戔鳴尊に千座置戸の罰を授けて高天原からは追出しましたので彼は止おなく息子五十猛神を連れて新羅国の西部にあるソシノモリ(牛頭山)の麓へ移住して一時暮らしたのであるがその地は気に入らなかったので船を造ってその子と共に日本の島根に渡ってそこで暮らしてそこで亡くなった。と記されています。

 一方天照大神はその孫子瓊瓊杵尊に銅鏡、翡翠曲玉、鉄剣各各1個づつを渡しながら葦原の千五百秋の瑞穂の国は是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫(いましすめみま)就(い)でまして治(さら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまっひっぎ)の隆(さか)えまさむこと、劣(まさ)に天壌(あめつち)と窮り無けむと勅(みことのり)給ひで彼を船に乗せで数十名の武士と共に日本に派遣した。と記録されています。

 皇孫子瓊瓊杵尊は祖母天照大神と離別して日本九州の南端にある吾田長屋の沙場の邊に着いて船から飛び隆りながら第一声が“此処は加羅国と向い合っている処。朝日が直射し、夕日が最後まで照っている広い処、良い処。”と喝破したのであります。

 日本九州南端の海邊から加羅国(韓半島)は見えません。しかし瓊瓊杵尊が突然“加羅国と向い合っている処”だとおっしゃった理由は加羅国から船に乗って東海を渡って着いた処が吾田長屋でしたから加羅国と向い合っていると喝破したと解釈できます。馬渕和夫博士はその次の句節である、“朝日が直射し夕日が最後まで照る広い処、良い処”と話した理由は広い平野であるとの意義でありますのでこれは韓半島の何処かの山奥或いは盆地に暮していた人達が話した感想であるのに問違いない。と解釈しました。

 即ち盆地は朝日は東の山に隠れて日に中天に昇らねば見えめぬし、夕日は西山に早く落ちてしまうからです。

 馬渕和夫博士は今から7、8年前慶北大学校の李淙喚、洪思満、呉鍾烈教授現在は高麗大学校に勤めでいる李賢起教授等が彼の弟子でありますので彼等が共に恩師馬渕和夫博士を韓国に招請して陜川海印寺の観光をさせるために乗用車か高霊邑の手前にある錦山峠に到達した時、博士は突然車を止めて下さいと話して、車から隆りて高霊邑一帯を見しさなから“此処だ、此処だ”と叫びました。弟子達は“先生何事ですか?”“此処が高天原ですよ。私の胸に打たれることがあります。此処が私十数年間探がして来た、高天原です。”と主張なさいました。

 そればかりでなく馬渕博士は、天照大神が孫子瓊瓊杵尊に手渡した、三種の神器、即ち銅鏡、翡翠曲玉、銅剣各各1個づつは此処高霊地方の古墳を発掘すれば依例的に出土されるもっであるからこの事も証拠の一つであると主張しました。

 一方私は高霊附近の歴史地理を研究して見た結果高霊邑から約30余離れている処に居昌郡加祚面があり其処は昔から牛頭山と称されています。

 日本書紀に高天原と牛頭山の距離は一晩の道程であったと記されています。

 加羅国の皇孫瓊瓊杵尊は日本九州南端の吾田長屋に到着して日向地方に進んでその地方を統治しながら暮らした、と記されています。又素戔鳴尊はその子五十猛神(イタケルノミコト)と一緒に船を造ってそれに乗って東の海を渡って日本の島根に着いて暮らしたを記録があります。今日の高霊邑高衙洞には大加耶時代の造船所の跡があります。

 今から11年前大分県教育委員会は日向地方のやよい時代(西紀23世紀)の遺蹟地を発掘しだ結果任那加羅で造った漢鏡の模倣品、即小さな倣製鏡4枚を発見したと発表しています。それを大分県教育委員会では今も保管しているようです。

 任那加羅の倣製鏡は国立大邱博物館に4個、国立慶州博物館に13個保管されています。それ等と日向で出土された物とは同一な型で造られたものであると韓国文化財庁で発表しました。

 大邱市内にある吾が加耶博物館にも任那加羅時代に造った倣製鏡が2枚あります。

 そればかりでなく高霊の地が大昔は高天原であったと信ぜられる有力な証拠が最近もう一つ現はれました。

 それは日本の天文学者渡邊敏夫博士の日本、韓国、中国の日蝕宝典に載つている論文に“日本書紀に天照大神が布織機上に座っていたところに素戔鳴尊が血だらけの仔馬の生皮を天照大神に投げた結果天照大神は布織機から落ちて怪我をしましたので天照大神は非常に怒って弟を二度と見たくないと決心して岩の洞屈に入って身を陰くしました結果、世の中が突然真暗になりましたので大勢の高天原の人達が岩の洞屈の前に集まって天照大神に早く外へ出てくるようにと頼んだので、数時間後に天照大神が洞屈から出るや再び世の中が明るくなった”と記されています。この事に関して歴史を科学的に考察する多くの日本の歴史学者達は、多分その時日蝕の時期であったたろうと推測して来ましたが今度の渡邊博士の研究には西紀146年8月25日に韓国高霊地方は完全日蝕であったと発表してあります(雄山閣1994)

 従って本大学の加耶文化研究所では歴史に載っている人物である、蒙占地方から南下しで来た元は遊牧民族であった天神夷★(左:田/右:比)訶と此処の土着民の一人であった加耶山神正見母主とが結婚して朱日と云う、後日大加耶の初代王伊珍阿鼓王と又高天原居住神の系譜に載っている天照大神とその弟素戔鳴尊以上五位に対して崇神の念で歳一回を祭りを亨祀してあります。今年は第4回目でございます。

 お舞りが終ればこの場で神舞を踊りそれから農楽それが済めばテントの下で弁当昼食を済まし午後2時からは本大学校の図書館の地下講堂で朴昌憲先生(日本横浜飛鳥学園理事長)とマト語源辞典の著者歴史学者朴炳植先生の講演会がございますから皆さん良く聴講なさって上古時代の韓日文化交流を深く考えて下さるようお願い申し上げます。

 有難うございました。おわり。


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