韓民族征服説

■ 韓 神 祭 ■ 

 「高天原韓国説」の根拠として、「園韓神祭」というのがある。韓国の歴史評論家、朴炳植氏の解説に従うと、
「天皇が居住する宮中には、30柱の神が祭られていたが、韓神と呼ばれる3柱の神だけは、特に撰ばれて宮内城に祀られ、太政官を従えて、天皇自らの手によって祭りが行われるように規定されていた」と言い、「園神」は大物主命・「韓神」は大己貴神と少名毘古那神というのである。そして、「園神」とは始祖の神という意味がある。と解釈している。<有職故実大辞典>では「園韓神祭」を呼安京宮内省内に鎮座していた園神・韓神の例祭。『儀式』によれば、式日は2月春日祭の後の丑の日と、11月新嘗祭の前の丑の日とであった。
 園韓神社は『延喜式』神名帳に「宮内省坐神三座(並名神大、月次新嘗)」とみえ、『拾芥抄』宮城指図などの古図にもみえる。祭神について、『大倭神杜註進状』は園神を大物主神に、韓神二座を大己貴命・少彦名命にあて、『古事記伝』は『古事記』にみえる「曾富理神を園神もしくは韓神のうちの一座にあてる説を掲げるが定かではない。
 同杜は平安遷都以前よりその地に鎮座する古社で、所伝では、養老年中(717-24)、藤原氏の創建にかかり、平安遷都の折に他所へ遷そうとしたところ、「猶(なお)此の地に坐して、帝王を護り奉らむ」との託宣があったため、宮内省に鎮座することになったといい(『古事談』など)、『新抄格勅符抄』にも、讃岐国の園神20戸・韓神10戸の神封が天平神護元年(765)に充てられたことがみえる。
 さて、祭儀の次第は『儀式』などにくわしいが、当日早朝より神祇官人によって神院の準備が行われ、春は戌一刻、冬は酉三刻に至って内侍が着座して開始される。
 神部二人が庭中に賢木を立て庭火をたき、大臣は召使いをして歌人・神馬・鬘木綿などを召す。次に御巫が微声で祝詞(のりと)を述べ、笛琴を奏し、歌舞を行う。次に御神子が庭火をめぐって、湯立舞を行い、神部8人もともに舞った。
 この儀が南の園神、北の韓神の順に行われ、再び南で倭舞を行い、饗罎あって大臣以下退出の後、神祇官によって、両神殿前で神楽(かぐら)が行われる、というのがその概略であった。
 平安時代以降、同祭は次第に衰微し、応永26年(1419)2月5日には大風で同杜は転倒(『康富記』同月14日条)、やがて応仁・文明の乱を経て退転したと思われる。」
 と、説明している。つまり、現在「園韓神」というのは、確かに延喜式の中に書かれているが、「園神」「韓神」ともに、「何の神様なのか」は不明である。もし「園神」である大物主命(大国主命の別名)を「始祖の神」というのなら、天皇陛下の始祖は「大国主命」となってしまう訳で、「記紀」の記載と大きく異なってしまう。また、朴柄植氏が述べる3つの疑問の一つ「韓神祭とは、毎年の春秋の二度行われる。特に春には、毎年月日に行なうが、その日は、日本の建国記念日となっているから謎は深まるばかりである。」という問いに対しては、日本の祭祀は何も自国の神だけを崇め奉るものではない。これは非常に特殊な思想であろうが、菅原道真は謀略により哀れな最後を遂げたが、死後、崇りを起したので「天神」として祭られた。また、源平合戦・南北朝時代・元冠・日露戦争でも、日本は常に敵方の霊魂を慰撫し、慰めてきた。これが「韓神」という名の通り、韓国の神であったとしても、それをとりだてて騒ぐものではない。何故なら・大和朝廷成立において、韓国からの渡来人が非常に活躍したのは誰もが認める所であるからだ。そう考えれば、歴代の皇室が「園韓神祭」を祭祀したといって、特に大騒ぎするに値しないと考える。日本の歴史・文化にとってこの様な事は枚挙にイトマがない事は言うまでもあるまい。それは、大和地方に多い「新羅神社」「高麗神社」「百済神社」にも同じことがいえる訳で、それを祭っているから大和地方は韓国人が支配した、とは断じえない。日本は占領中、「マッカーサー神杜」なるものを建立しようとした国民である。渡来人が日本の為に尽力してくれる事を感謝して「新羅神杜」などを建立したという事を否定できるであろうか。韓国の国名がついているから、その地方は全て韓国人である、と断じる事はできないであろう。


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