今日の高霊地方を昔は「高天原」と称したとする科学的証拠

今日の高霊地方を昔は「高天原」と称したとする科学的証拠 

 「高天原」とは日本で一番古い歴史の本である「古事記」と「日本書紀」に現はれている単語です。これ等の書籍前編を開けば日本で初めで政権を立てた王様は「瓊瓊杵尊」であります。彼は高天原の皇孫であり、高天原から船に乗ってこちらを離れる時・彼の祖母である天照大神が銅鏡1個、翡翠曲玉1個、鉄剣1本を授けながら「韋原の千五百秋の瑞穂(みっほ)の国は、是(これ)吾が子孫の王たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)就(い)でまして治せ(しら)。行突(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめっち)と窮り無けむ」との、みことんりをたまいました。

 そして私が見たい時には何時でも銅鏡を見なさい。と話し数十名の武士と共に今日の日本に派遣した。と記されています。彼等は船に乗って無事に今日の日本九州の西南部の沿岸にそって、九州南端にある「吾田長屋」の沙場に着きました。

 何故彼等は加羅国と近い北九州に降りないで遠い南九州へ下りて行った理由は北九州には当時既に「卑弥呼」と称する女王が邪馬台国を立てていましたので「無主空山の地方」を探かしで南九州迄下りて行ったと解釈されます。

 瓊瓊杵尊は船から吾田長屋の沙場へ飛び降りながら叫んだ第一声は
(1)ここは加羅国と向い合っている処。
(2)ここは朝日が直射し夕日が最後迄照る広い処、良い処。と喝破しました。

 日本国立大学である筑波大学の名誉教授である馬渕和夫博士は“九州南端にある吾田長屋から加羅国は絶対に見えないのであるが、その一行が加羅国の彼止場を出発して最初上陸した処が吾田長屋でしたから瓦に向い会っている地であると思ったからであるとし、2番目の朝日が直射し夕日が最後迄照らすとおっしゃったのは、広い平野をあこがれていた、盆地の人達の願望であったから感嘆辞として放した言葉であると、馬渕博士は解釈しました。従って皇孫瓊瓊杵尊は加羅国の何処かの山奥の盆地に住んでいた人であったと断定したのであります。もう一つの事は銅鏡と翡翠曲玉と鉄剣各各1個づつ、所謂三種の神器を天照大神が瓊瓊杵尊に授けましたからそれ等は高霊地方の加耶古墳を堀れば依例的に出土する物でありますので馬渕博士は今日の高霊の地が大昔は「高天原Jであったに間違が無いと主張しました。

 私は1999年6月に馬渕和夫博士と相談して本大学の敷地の中で「高天原故地」の石碑を立てました。その後毎歳日本人観光客が4〜500人づつ訪れて来ますが、最近馬渕和夫博士は小生に“高天原の故地は今日の高霊に間違が無いとする、もう一つの科学的証拠を得ましたと書いた手紙を送ってくれました。

 古事記或いは日本書紀に、素戔鳴尊は性質が暴悪で、或る日天照大神が機織機に座って織布をしている処へ仔馬の生皮を天照大神に向けて投げましたので、天照大神は驚いて落ちて怪我をなさいました。天照大神は大いに怒って弟、素戔鳴尊を二度と見たくないと決心して岩の洞屈に身を隠しましたので天下が急に暗くなりました。高天原の人達は大勢岩の洞屈の前に集って天照大神に“早く外に出て下さい。天下が暗くてとても生きられません”と願った結果、天照大神も怒りが解けて外に出るや天下が再び明るくなった。と記されています。

 日本の科学的な思考の歴史学者はこの事に関しこ古くから丁度日食であったであろう。と判断しでおりましたところ、最近日本の天文学者である渡邊敏夫博士の研究日本,韓国,中国の日蝕月食宝典」に依れば西紀146年8月25日韓国高霊地方は完全日蝕地帯であった。と発表しています。この研究に依りますと皇孫瓊瓊杵尊が日本に渡った時期は凡そ西紀170〜180年代ではなかったかと推測されます。天照大神が石屈から出た後高天原の人人が会議を開いで素戔鳴尊に「千座置戸」の罰を与へたので、彼は止むなく高天原から一晩中歩く距離である「牛頭山」の麓に行って一時暮したのであるが其処は気に入らぬので息子五十猛神と一生に船を造って東の海を渡って島根の出雲に渡ったと記されています。

 その後天照大神は息子「天忍穂耳尊」を日本九州の南部の「無主空山」に派遣しようと計劃しましたが其処には熊蘇族がさわいでいましたのでそれを平げようとして将軍を何回も派遣しましたが意の通り行かぬので凡そ2〜30年間を要し遅ました。その間、瓊瓊杵尊が生長しましたので息子の代りに孫子を派遣することになりました。その為計劃りより凡そ数十年遅れたようです。

 私は日本の学者達がこれ程大昔の出来事迄研究なさった事に深く感謝しております。

 高霊の地が大昔「高天原」であったことはこれが科学的証拠であります。高霊地方のもつと古い時代の名称は「弥烏邪馬台」であったと

中国の三国誌に記録されています。西紀1〜2世紀に北九州にあった「卑弥呼」の邪馬台国は全くその名称が同一であり、「大和」と書いて「ヤマト」と同一な名呼ぶ理由も弥烏邪馬台の「ヤマト政府」或いは「ヤマト民族」と称したのではないでしょうか?

 「任那(ニンナ)」は韓国語です。その意味は「お母さんの国」である。と云ことうです。即ち高霊地方の加羅国の一部の王族が日本に渡って政府を立てて彼等が加羅を指す時には「お母さんの国」と称した事であります。「ヤマト民族」の一言を見ても今日の日本を築いた日本民族は殆んどが韓半島の加羅国から渡った人達の子孫であると判断されます。

おわり。


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