1921年12月18日東京生まれ。「七平」は神の安息日(日曜)生まれから命名される。 青山学院卒。ルソン島で終戦を迎える。マニラの捕虜収容所に移送される。聖書学を専門とする出版社、山本書店を創業。 イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売。 大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループ議長。 中曽根内閣の諮問機関「臨時教育審議会」専門委員。

主な著書:
存亡の条件 比較文化論の試み  日本人と原子力 核兵器から核の平和利用まで 対論: 「空気」の研究 日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか 勤勉の哲学 日本人を動かす原理   対談 日本型リーダーの条件 講談社
日本人とは何か。神話の世界から近代まで、
山本七平 山本書店・店主
 
現代キリスト教と日本」(抜粋)   山本七平

             【 目 次 】
ユダヤ人の諸解釈:「中心の軸は変えないで解釈を変えていく」
日本人の発想:「一神論・汎神論と日本人社会の“枠”」
時間的発想(ユダヤ人)と空間的発想(日本人)
仏教には時間の概念が無い
時間的・歴史的思考法を日本に導入するための手法」


     仏教には時間の概念が無い


 この様にユダヤ人は自分達の過去を処理して来たのですが、我々日本人にはこ
うした事は一度もない。ですから、何時も空間化してしまうわけです。外部から
の刺激が無くなると途端に停滞してしまう。我々の発想は、一つの目標を目指し
て何かをためすというようなものでは決してありません。飢渇感エネルギーと言
いますが「足らない」という発想だけが私達のエネルギーなわけです。

 例えば今から10年前、週間現代に石垣純二氏が有名人の献立指標を書いてい
らっしゃいますが、今読むと大変おもしろい。「まだ脂肪の摂り方が足りません、
まだビタミンが足りません」とアメリカ人と比べて何が如何程足らないと。これ
が当時の発想なのです。紙の消費量が、車の一人当たりの台数がまだ足らない。
「足らない」という発想がひどくなって、教育問題をどう解決するかということ
になると「学校が足らないからである」量的に不足しているからよくないという
論理は、明治以来、一貫していますが大体戦後も同じ発想です。

 「足らない」という発想だけが我々のエネルギーでして、充足感がある時にはこ
のエネルギーは無くなってしまうのです。今、一番困る問題は「何かが足らない」
と言えなくなったことです。皆が大体満足して言うことがなくなった。車も脂肪
も「まだ足らない」と言えば、今は大変なことになるわけです。「何かが足らな
い」と言えなくなった時に我々は何も言えなくなってします。ですからこういう
発想は時間的発想ではないのです。終末意識を先において自己規定をしているの
ではなく、現時点において「何が足りないか」というのは反時間的発想である。
足らない時だけ経済成長でも他のものでも非常なエネルギーが出てきているわけ
です。只、この先に何かを置いて自己規制することが出来ない。出来ないという
ことはその意識がないということです。

 これがおもしろく現れて来ますのが「未来というものをどう扱ってよいかわか
らないのです。我々は本当に分らないのです。未来はこうなるに決まっていると
いうシナリオ、例えばマルキシズムというシナリオを書く。本当にその通り演ず
るなら演ずれば良いと私は思うのです。演ずる気がないならシナリオを口にして
も仕様がない。ところが、「では未来はどうなるのだ」というふうに問われます
から、「非常に簡単なことで聖書を読めばよい。未来は神の御手にあると書いて
ある」と言うのです。不思議そうにしていますので「人間の手の中には無いとい
うことです。未来は人間の手で触ることは出来ない。だからあなたが未来を手で
触れるなら神だ。」未来は人間が手を触れることは出来ないという意識は、その
前提として未来という意識がなくては出てこないのですが、そうした未来意識と
いうものは日本人には無いのですから、

 現在はマルキシズムというシナリオを読み、或いは映画を観ているに過ぎない。
ですから自分の未来を規定すべき筈のシナリオを現在に還元して劇場の俳優の演
技と対応するような形で対しているに過ぎないのです。これが今まで、我々にとっ
ては進歩という意識であったわけですが、実は進歩でもなければ変革しようとい
う意思すらない。本当に未来というものを把握しようと思ったら、先ず手で触れ
ることが出来ないという意識が最初に出てくるはずです。これはもう人間の手中
にはないという認識です。次には、未来は言葉でしか規定出来ないという認識で
す。未来というのは、これだけなのです、ところが言葉というのは実際、何一つ
動かせない。しかし、未来を規定するといえば言葉しかないわけです。それを意
識していれば、未来というのは分らない。触れることが出来ないから全ては仮設
である。というとそれならば仮設を立てそれに対応する方策を沢山つくっておけ
ばよろしいというので、皆は自分の意志でそれをやろうとする。それが空間的な
のですが、「学校を落ちたら然々しよう」等は仮説に対する方策なのですが、就
職等にしても現代の若者は山のように仮説を立てている。全てに対応策を立てて
いる事には私も感心しますが、では歴史的未来に対し対応策をもって処すかとい
うと一切しない。歴史的未来等というものは実感として湧いてこないということ
なのですね。

 我々は明治以来そうして来たので、現代に全て還元されている。これが将来どう
なるのかということなのですが、今迄の我々なら大体これで良かった。「先進国
模倣時代」というのは、何でも現在に還元出来たわけです。未来は触れ得ないと
言いましたけれども、未来の日本は「これであろう」とアメリカに行けば、我々
は少しは触れることが出来た。しかし、それは或る意味に於いては現在です。そ
れを自分の未来と規定してその通り為して来たということです。それで済んで来
たのですが、これは未来の規定ではなく空間の移動のようなものですから、為す
意志さえあれば非常に簡単に出来る。

 後進国というのは無能なのではなくて、為す意志がないと私は観ているのです。
ですから我々には意思があって為し得たけれども、実はこれは空間の移動にすぎ
ない。それから先の未来は、或いはそれをどう規定するかといったような事は実
際誰も考えていなかった。これは非常に広く言いますと仏教の世界だろうと考え
ています。仏教には時間の概念がなく、空間だけなのです。

 おもしろいことに、用語索引は仏典には在り得ません。そうしても出来ないそう
なのです。「仏典とは何か」と問いましたら「仏と成るハウ・ツー(how to)で
ある」と言われまして、読まなくて成仏できたら一番良いのだそうです。では、
「御言(みことば)に仕える意識はあるのか」と言いますと「ない。」その言葉
のために自分が死ぬということは有り得るかと問えば、「有り得ない。そういう
ことをしたら成仏できない。」本末転倒も甚だしいというわけです。

このような正典意識のない世界は、簡単に言いますと絶対事物を時間的に歴史的
に読めない。これが我々の伝統であるわけですが、これでは空間的にしか処理出
来ない。時間的に処理出来たと思っても、実は或るものの空間の移動にしかすぎ
ない。我々は先祖伝来こういう方法でやって来ましたが、少なくとも石油の終末
論ぐらい頭に入れて現在を規制するという意識が出てこないと非常に困る。本当
の進歩という概念が出てこないとこれからは困る。これは不思議なくらい無いの
です。こういう訓練というのは、今の我々の年代では難しいのではないか。これ
からの人たちをその方向で教育する以外ないのではないかと思います。




「時間的・歴史的思考法を日本に導入するための手法」


 印刷術は宗教改革を可能にしたが、現代の映像技術による未来の論証は可能か?

 映像的伝達というものは時間という感覚がなくなることなのです。「現在」だけ
しか伝達しない。これに一番大きな問題は、未来を論証するのは言葉だけですか
ら、映像化すれば現在です。ですから、ますますこういう状態はひどくなるので
はないか。こうなりますとどうなるのだろうという事になりますが、過去から未来
までを言葉で体系化できるというのはやはり聖書なわけです。ですから、聖書
教育というのはそういう面から必要なのではないかと考えるのです。

 先だって今井隆吉先生に会いまして原発問題のことを聞いたのですが、原子力
発電所というのはこれだけ安全なものだと住民を集めて3時間論証した、と。と
ころが完全に論証しきっても、「こんな危険な事があります。」と反対派が写真
1枚を見せたら、もうだめだと言われましたが、確かにそれでもう終わりなのです
ね。3時間の論証も一つの映像にはかなわない。

 今はそういう時代であって、人は映像にしか反応しなくなったのです。どう対処
すればよいかということで話し合ったのですが、一番人相の悪い人にテレビに出
てもらって「原子力というのは悪いものだ」と言ってもらえばよい、と。「こん
なに人相の悪い奴が言うのなら、良いものだろう」ということになると決まってい
る。それ以外に判断の方法がなくなるのではないか、と申しましたら「フランス
でもそういう意見がある」と笑っていらっしゃいました。

 日本はこうした傾向が一番ひどくなるのではないか。感性的判断だけになって
くるというわけです。この感性的判断というのは「映っている通りだから正しい」
という妙な錯覚があるのですが、これは逆でして、映像とか書物に人間は反応す
る時に感性が先に立つわけです。好みというのは理屈でないのですから、これに
対し反応することは避けられない。言葉というのはそれが無くて抽象化している
が故に、対象が具体的に読める。映像というのは具体的であるが故に、それに反
応してしまう対象が正確に読めない。これは自明の理ですが、人は逆に思う。

 一つには新聞が悪いのでして、あの文章は甚だテレビ型になってきまして論証が
出来ない。これもテレビの影響なのでしょう。我々自信をもってなかなか言えない
のですが、「論証が本当であって、写真は偽物である」これは本当にそうなので
すが、こうした訓練が我々には伝統的に一番ないと思うのです。言語能力は最近
頓に落ちまして、文芸春秋でも入社試験に作文を書かせるのですが、最近10年
間のものを観ていきますと、どんどん質が落ちて、現在は最低基準で小学校6年
程度であるそうです。こういうふうに言語による伝達が徐々にできなくなると
「新文盲時代」が来る。そういう人が映像にだけ反応しますと、自分の反応を外
部に発散出来ませんから、突然乱打暴行するのは当然のようになると思います。

 こういう現象はだんだんひどくなると思わなくてはならない。但し、そういうことは
悪いのだと映像で示すと途端に止めてしまうだろう。非常に困った時代が来る
わけですね。将来どういうふうになるか分らない。

 明治期、プロテスタンティズムが入って来ました際、聖書を通して時間的歴史的
思考法を日本に導入できたら良かったのですが、しかし日本人はいつも教理を骨
抜きにして伝統的生き方を守っている。非常に悲観的な言い方になりますが、我
々はやはり聖書の民ではありません。以後こうした問題をどうするかというのは
非常に大きな問題であろう。次の世代にそういう問題意識が出て来てくれれば良
いと思うのです。そうしない限り、人間は自分の未来を規定し得ないし、本当は
仮設が立てられないのだと。それだけが何処か意識に出てくれれば、それで良い
のではないかと思います。先生方の、次の世代の若者への教育に期待致しまして、
これで終わらせて頂きます。

 1976年10月27日 水曜会にて
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