第31回 2004 7.13 港区商工会館

「日本の国際協力におけるNGOの役割」
   ちょっといい話
         五月女 光弘氏、外務省参与・NGO担当大使

既に国連や、欧米社会では、社会の意見の代弁者としてNGOボランティア団体が公的機関と
対等の立場で話し合いの場を持って政策決定、およびその施行に協力関係を持っていること
は良く知られた事実です。

 長年NGOの育成、発展に寄与してこられた五月女大使をお迎えして、未来社会とって益々
重要な役割を果たすであろうNGOの役割と今後の発展ためにはどうあるべきか、皆様と
ともに検討しました。                            



「外交政策決定要因」5カ国国際会議
第十一章 日本の援助政策決定要因 要旨 PHP総合研究所 橋本光平
  我が国の援助政策の歴史的変遷
復興期−賠償と被援助国の時代(45年〜57年)
援助開始時期(58年〜64年)

初期の援助政策決定要因
 60年代から80年代全般にかけて、日本の援助政策は、常に外の圧力に敏感に反応した結果であるという見方が出来る。国連開発の10年構想に始まる西側先進諸国の援助体制の中に組み込まれた日本は、特にオイルショック以後の世界経済の構造的変化に対応すべく対応を迫られることになるが、具体的にどのような外的要因が存在したのは、以下に見ていくことにする。
 60年代は、先進国と開発途上国の経済格差是正問題、いわゆる南北問題が、米ソ冷戦構造を軸とする東西の対立と複雑に絡み合って展開していく。まず61年の国連総会で、アメリカのケネディ大統領の提案による「国連開発の10年」が開始されたのを皮切りに、64年には開発途上国の貿易や開発の諸問題を討議するための国連貿易開発会議(UNCTAD)がジュネーブに設置される。 64年のUNCTAD第1回総会では、後に非同盟中立運動を始めることになる開発途上国により「77ケ国グループ」が結成され、先進諸国に対する一種の圧力団体としての機能を果たすようになった。さらに68年の第2回総会では、世界的開発戦略の必要性が強調され、貿易問題とともに先進国の援助額をGNPの1%とすることが話合われた。つまり、南北の経済格差という名目のもと、先進工業国が経済援助を通じて開発途上国との関係強化を目指し、また開発途上国自体も先進諸国の経済支援を要求するという世界的風潮が出てきたのが60年代ということである。 これら南北問題の議論に対して、日本は第1回総会以降、援助の国民所得1%目標や途上国への特恵関税等に対して消極的な態度をとってきたが、戦後一貫して赤字を続けていた貿易収支が黒字に転じ、その後国際収支の黒字基調が定着する65年を境に、援助のGNPの1%を公言するなどの積極姿勢に転身。順調な経済を背景に経済協力を拡大していくことになる。
 60年代の前半に海外経済協力基金(OECF)と海外技術協力事業団(OTCA)を両輪とする経済技術協力の国内体制を確立した我が国は、63年にはOECDの先進国クラブである開発援助委員会(DAC)に加盟、65年には世界銀行の被援助国から卒業し、本格的に援助受け入れ国から援助供与国に転換していく。同年には日韓国交正常化の一環として、韓国に対し無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドル、計8億ドル以上の経済協力を手がけ、また同国に対する鉄道設備改良事業は、OECFの円借款事業第一号となった。つまり、南北問題解消のための経済協力という世界的風潮と、日本の経済成長という二つのファクターが60年代の日本の経済援助政策決定の要因となっており、日本の実質的な経済協力が始まったのが、日本の貿易収支が黒字に転じた65年からであるという事実が、それを物語っている。
さて、先進国クラブの仲間入りを果たし、当時その「会費」として位置づけられていた経済援助への積極的参加が外交上の使命となった日本はその後、先進諸国の支援システムに呼応するように内部のシステムの充実を図っていくようになる。67年、GATTケネディラウンドにおいて途上国の食糧不足緩和のための食糧援助規約が成立。いわゆるケネディー・ラウンド援助(KR援助)が、先進諸国による新規の支援メニューに上るが、日本も翌68年にKR援助を開始。76年には肥料、農機具、農薬等を供与する食糧増産援助(第2KR援助)を加え、無償資金協力を拡大していく。こうして、現在のODAの3本柱である有償資金協力(円借款)、技術協力、無償資金協力が出揃ったわけである。
さらに、多国間援助の分野では、66年、マニラに本部を置くアジア開発銀行(ADB)が設立されるが、日本はアメリカと並ぶ最大の拠出国としてその運営に積極的に協力していくこととなる。しかしこの様な我が国の東南アジア援助における積極姿勢も、当時ベトナム戦争への介入をエスカレートさせていたアメリカの肩代わりという要因があったということも見逃してはならない。その一方で、日本の対東南アジア援助は、賠償時と同様、「輸出振興」という裏の目的があったことも指摘しておかなければならない。ここで注目に値するのが、食糧増産援助が開始された76年、日本はフィリピンへの支払をもって賠償を終了していることである。つまり、KR援助及び食料増産援助を含む無償資金協力は、その初期において、明らかに賠償のシステムを踏襲しており、無償資金協力の実行機関も、実態は賠償に絡む諸団体が中心となっていたという点である。
ちなみに技術協力面で、機構の刷新が図られたのもこのころで、当時、海外貿易開発協会(通産省所管)や海外農業開発財団(農林省所管)を母体に独自の技術協力を進めようとしていた通産、農林両省と、ODAの重要な柱である技術協力の一元化を図ろうとする外務省との間で様々な折衝が重ねられていた。結果、74年、海外技術協力事業団と海外移住事業団が合併して国際協力事業団(JICA)が発足することになったわけだが、技術協力の一元化における過程においても、「海外輸出振興」の一形態としての賠償をサポートしたシステムが、かなりの程度残されたという点が、80年代の、主にマスコミによる避難の的として浮かび上がってくるわけである。60年代の日本の援助政策が、すべて外的圧力を反映したものに過ぎないとする見方は、ある意味で不十分な議論であろう。実際64年に発足した佐藤政権は、65年に台湾との間で経済協力協定を、同じく韓国との間で経済協力協定を締結し、経済協力を梃としたアジア外交を推進したわけであるが、全体から見ると、やはり我が国の初期の援助政策は、援助を基軸とする世界システムを構築するという理想論を掲げた周囲の流れに沿って決定されたものであることは確かだといえよう。

70年代の変革
 国際援助の舞台でわが国に対する需要が高まりだしたのが70年代である。70年に「第2次国連開発の10年」がスタートしたが、アメリカを始め西欧先進国の援助姿勢は軒並み後退しており、世界は黒字を貯め込む我が国に援助の増額を求め出した。これに応え、我が国は71年、ODAのGNP比率の引き上げ、援助のアンタイ化(ひもつき援助の削減)等からなる対策を総合的対外経済政策の中で打ち出した。つまり、60年代に引き続き、日本の経済援助政策は、黒字還流と円の切り上げを要求する外圧の中で決定されていったということが出来よう。
70年代は3度の「ショック」に代表される変革の次期であった。まず71年、アメリカの採った新経済政策(ニクソン・ショック)によってブレトン・ウッズ体制の一角が崩れ、金・ドル交換停止、フロー制への移行という新たな通貨体制が出現する。73年には第4次中東戦争時に石油輸出国機構(OPEC)によって行われた原油価格の4倍引き上げ政策、いわゆる第一次オイルショックによって先進国の経済が麻痺。さらには、79年に、イラン革命に端を発する第2次オイルショックが開発途上国間の格差を更に拡大し、いわゆる南南問題を拡大していった。
さらには、一次産品を生産する他の開発途上国も同様に輸出国カルテルを結成する動きが見られた一方で、オイルショックは経済的に最も弱い、非産油開発途上国をも直撃した。先進国は、石油危機により累積赤字を急増させていた非産油開発途上国を救済するため、債権者の非公式グループ(パリクラブ)により一連の債務繰り延べ措置を講じるなどの措置を行なうが、結局は焼け石に水で、石油などの資源を持つ国と持たない国といった分極化が南の開発途上国の間に生じ、南北問題の性格がさらに複雑化していくことになる。こうした2度にわたる石油危機により、先進諸国を初めとして世界経済全体が打撃を受けたなかで、日本は石油危機を克服し順調な経済運営を見せていた。こうした状況から、援助の面でも我が国に対するさらなる役割分担が期待されるようになる。そして、この様な外部の期待に応える形で、日本の援助額の大幅増額及び援助の質の向上が図られるようになっていった。77年に策定されたわが国初めてのODA中期計画には、3年間でODA実績を倍増する計画が盛り込まれ、以後第2次中期計画(81年−85年)、第3次中期計画(86年−92年)、さらに98年まで続く第5次中期目標のもとでも、ODA予算の増額が達成されたわけである。

冷戦後の援助政策
80年代の援助政策決定要因には、以前とは違った要因が見え隠れするようになる。第一に、世界のトップドナーとなった日本のODAに対し、その質の面での変革を要求する声が、国内外のマスコミ、NGOなどによって上がるようになったこと。第二に、特に湾岸戦争以後、日本の外交姿勢の欠如を指摘する声が国内から上がり、いわゆる援助の外交的側面をより明確にする必要性が出てきたことである。第一の、援助の質の問題に関して言えば、日本の援助政策に対する批判として80年代に出てきたものの一つが、日本のODAが商業主義的援助であり、開発途上国の発展という目的から逸脱した自己中心的なもというものであるという指摘であった。そして日本内外でのこうした批判が注目した点がいわゆる「ひも付き援助(タイド)援助」であった。日本政府は、これらに批判に応える形で、特に有償援助のアンタイ化を推し進め、80年代後半には「タイド」援助の割合は急激に縮小。現在では先進国最低水準にまで下がっている。93年の統計によると、今や日本の円借款のほとんど(96.9%)が「アンタイド」援助であり、しかも、そのほとんどが「一般アンタイド」と呼ばれる、調達先を全く特定しないオープンな援助形態である。無償援助を含めた全体で見ても83.9%がすでに「ひもなし」援助化されているのが現状である。日本の援助が商業主義的であるという批判の、もう一つの根拠が、日本のODAの「アンタイド」率がいくら高くても、実際の案件作成には日本の企業が深く絡んでいる場合が多く、結果として「アンタイド」率の高低に関係なく実際の受注には日本企業が有利に働く場合が多い。つまり、日本のアンタイド援助は、実質的な「ひもつき」援助であるというものである。実際、80年代半ばには、日本企業の受注率が70%近くもあり、「実質的なひもつき援助」という批判は、統計的には的を得たものだった。しかしながら、「援助の質の向上」に取り組む政府の努力の結果、日本企業の受注率も、93年には29%にまで低下しているのが実状である。 この様な急激な援助政策の変更を可能にした、もう一つの要因は、特にプラザ合意以降に顕著になる日本の「黒字減らし」に対する圧力であった。貿易不均衡に対する批判のなかで、輸出振興型の経済援助を推し進めて行くという選択肢は、とりたくてもとれないものとして事実上消滅しているのが現状である。さらには、80年代になると開発途上国への資金の流れの大部分は民間資本によるものとなり、ODAの比率は、PFを含めた資金フロー全体の4割に満たないという状況が出てくる。こうなると、有力な企業は、受注率の低い援助に期待するよりも、その時間を自社のプロジェクトに傾けた方が効率が上がるという観点から、援助に関係する部署の規模は縮小傾向に向かった。つまり、80年代後半から90年代にかけて、援助の目的は、「輸出振興策の一部」という従来の位置づけからかなり遠ざかっていることは確かである。ここで出てくるのが地球的規模の問題への取り組みと、援助の外交的側面の重視という2つの新しい課題であった。

地球的規模の問題への取り組み
90年代にはいると、日本の内外から寄せられるODA批判の大半は、日本の開発援助が、結果的に援助される側の環境の破壊につながるものであるという論旨が基調になってくる。なかには日本の援助イコール環境破壊援助であるというような、感情的な議論もあるが、実際、日本に限らず、先進国の開発援助が、得てして環境の破壊につながり、公害や自然破壊を巻き起こしてきた事実は無いとは言えない。これは、自然環境の分野のみならず、社会的、人的環境についてもいえることである。援助が、その政治的、経済的要因にのみに気を取られて、実際は現地の住民の利益にならない種類のものであるならば、そういった援助はする意味がないという意見は、主にNGO諸団体が、現地調査に基づいて行っているもので、そのレポートの質も、一時の感情論を超えてより正確なものになってきている。日本政府も、ODAによる環境破壊については非常に神経質になっており、1990年以降は、ODAの一部に1、000億円の「地球環境問題対策費」を盛り込んだことや、92年度から5年間で9千億から1兆円の環境関連ODAを実施することを決定したのも、この様な環境問題に対する意識の高まりととることが出来る。 現在では、援助の実行機関である国際協力事業団(JICA)及び海外経済協力基金(OECF)が、「環境配慮のためのガイドライン」を設定して独自の環境モニタリングを開始しているほか、世界銀行では、83年に「環境ガイドライン」が設定され、援助決定に至るまでの各段階で環境面のチェックが行われてきている。つまり、現時点では二国間援助及び多国間援助の両面で環境面に関するチェック機能が確立されている。
 この政策変更の要因には、世界的に高まる環境問題への関心という背景がある。環境問題が「地球的規模の問題」として認識されるようになってきたのは70年代に入ってからである。72年にローマクラブが出した提言書「成長の限界」で「地球の定員」が議論され、同年、スウェ−デンのストックホルムで開催された「国連人間環境会議」で、「宇宙船地球号」という概念が提起された頃から、地球規模の環境問題が、世界全体が取り組むべき課題として位置づけられてきたわけである。しかしこの時期、先進国では経済成長一辺倒から環境保全の重要性が徐々に認識され始めていた一方で、途上国ではまだまだ開発が至上命題で環境配慮は贅沢なものという認識と、地球環境の悪化に専ら責任があるのは先進国であるという意識があり、経済成長を犠牲にしてまで環境保全をというコンセンサスは得られなかった。
 しかし、80年にアメリカ政府特別調査報告「2000年の地球」が出された頃から、「地球全体の問題」としての環境問題に対する意識が高まり、地球環境を扱う国際会議が次々と開かれる様になった。日本政府も、84年のナイロビ国連環境特別委員会において、「環境と開発に関する世界委員会」を主導。その報告書「われら共通の未来」(87年)は、従来対立する概念としてとらえられていた成長と環境に対し、「持続可能な開発」という概念を示した。
 これらの流れを受けて、92年にブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連環境開発会議」(UNCED)では、21世紀に向けての環境に関する行動計画である「アジェンダ21」、「森林に関する原則声明」、「生物多様性条約」などへの署名がなされるなど一定の成果を上げたが、環境保全にかかる経費−地球を守るためのお金−を誰がどのようにして負担するかという問題を完全に解決することはできなかった。この点で、今後我が国の環境ODAに対する責任及び世界からの期待はますます大きくなっている。
こうした背景のもと、我が国は、89年から91年までの3年間に3、000億円を環境分野のODAに充当するとの国際公約を着実に達成すると共に、92年からは、向こう5年間で9、000億円から1兆円をめどに環境ODAを拡充するという計画を実行した。環境問題は、今や我が国ODAの最も重要な課題の一つとなっているといった感がある。
我が国の経済援助の重点が、いわゆる輸出振興型経済援助から、地球環境保全型の経済支援へ移動した背景には、よって次の要因が考えられる。一つは、国内外のNGOの活動が活発化し、我が国のODAに対する第三者の評価を下しはじめたことである。特に、ブラジル熱帯雨林の大カラジャス計画、インドのナルマダ峡谷ダム建設計画、インドネシアのクドゥン・オンボダム建設計画その他、日本のODA事業が、全く地域住民の役に立っていないとする強硬な反対意見の盛り上がりは、関係省庁に経済援助計画の見直しを迫った。その結果、90年代からはJICAの国別援助検討会などのように、地域の実態と援助の可否、より効果的な援助のための助言などを、民間の専門家がまとめるという機会が増加。また、すでに支援済みの案件が、実際現地に有益であったか否かを、民間の立場から評価する「第三者評価」という仕組みが出来上がったことは、「民間の意見を政策決定過程に加える」という新しい試みであり、これは、日本の援助政策に対する民間団体の影響力が増大した結果であるという見方が出来る。
第二に、貿易黒字の削減という使命が、80年代全般に、日本の外交問題として浮かび上がってきており、この状況のもとで「輸出振興型」の経済援助が存続する余地が無かったという点である。実際、70年代までの日本の経済援助は、受け入れ国のための経済支援という観点と、自国の産業保護という観点とが並立しており、後者は80年代に入ってからも、主に無償資金援助の分野において生き続けてきた。しかしながら、度重なる外圧のもと、あからさまに自国の産業を保護する政策は取れないというのが実状であった。簡単に言うと、賠償以来続いてきた過去のしがらみをどうやって穏便につないでいくかという課題が、80年代の政策決定に大きな影響を及ぼしていたわけであり、いわゆる「アンタイ化」の道のりは、こうした事情の下でやりくりせざるを得なかった日本政府の苦労の産物ともいえる。
第三の要因は、世界的な環境問題への関心の高まりである。特に80年代の環境問題に対する世界的盛り上がりは、92年のリオ・サミットで最高潮に達し、数々の宣言が出されたが、その実行をどうするかに関しては、世界的経済停滞のあおりをうけ、リーダーシップを取る国が少なく、結果、日本に対する期待が高まったわけである。この事が、貿易黒字の還元を至上命令とする日本政府の意図と合致したという展開である。

ODA大綱
90年代に入ると、別の意味で経済援助に対する期待が高まってくる。我が国の援助は、従来から開発途上国の貧困・飢饉などに対する人道的な配慮、および開発途上国の経済発展と安定が世界の平和と繁栄にとって不可欠であるとの相互依存の考え方にもとづき行われてきた。つまり、経済援助の問題は、その予算編成、プロジェクト施行の形態などからして、どちらかというと国内問題だったわけである。しかしながら、91年以来数年間世界最高拠出額を継続する日本の海外援助に、日本自らの哲学を示すことの重要性が叫ばれるようになってくる。そして、これは湾岸戦争勃発以来、抜きさしならない重要性をもつようになった。簡単に言うと、120億ドルも払ったのに、何の感謝もされないのなぜか、また、国民の税金でサダム・フセインという独裁者を育てる手助けをしたのはなぜかといった議論がマスコミの紙面をにぎわせるようになったのである。このことが、「日本はアメリカの金庫ではない」「ただ金を出すのではなく、援助理念を持て」「金を出すなら口も出せ」といった議論に結びついていったわけである。
これを受ける形で、国会でも援助基本法を策定する動きがあらわれ、それらの声に圧される形で出てきたのが92年6月のODA大綱の閣議決定であった。ここで重要な政策決定要因が二つある。一つが、先に述べたマスコミの圧力と、さらに重要なのが国会の動きである。国会主導で援助基本法を策定する動きが出てきたのが92年の初めであるが、ここで、行政府の「聖域」に立法府の手が入ることを嫌った外務省以下の官庁がまとめたのがODA大綱であるという見方も出来る。経済援助の分野は賠償時代以来、立法府の影響を一度も受けた事のない、完全行政府主導型の分野として、非常にユニークな存在だった。よって、関係官庁が、その「聖域」を死守するためには、国会で援助基本法が成立する前に、独自の援助方針を明確に打ち出す必要性があったわけである。さらに、イラクに対する支援が、侵略を招いたとする当時の状況に合わせて、最終指針には軍事という観点を盛り込む内容となった。結局、途上国援助の原則として掲げられた4つの条件のうちの二つが「援助の軍事的用途及び国際紛争助長への使用回避」と、「開発途上国の軍事支出、大量破壊兵器、ミサイルの開発・製造、武器輸出入等の動向への十分な注意」という軍事面への配慮が盛り込まれたことに、湾岸戦争後の国内の世論の反映が見て取れるわけである。
さらに、ODA大綱は、我が国が、我が国の外交の手段としてODAを使うことを明確に表明したという側面をもっており、これからはODAの動きが特定の国に対する我が国の政策を示す重要なシグナルとなるのみならず、ODA政策が、まさに日本の外交政策と直結するための、重要な土台を提供した事になるわけである。

まとめ
戦後の賠償に始まる日本の援助は50年代、賠償を仲立ちとした輸出促進政策に向けられ、またその時に構成された援助形態が、日本が本格的支援を開始する60年代にそのまま受け継がれていった。70年代には世界的な援助疲れが見え始め、「黒字減らし」を要求する先進諸国の圧力に応える形で日本の経済援助の予算額が急激に膨らんでいく。しかしながら、80年代にはマスコミ、NGOなどの独自の調査活動により援助の矛盾が指摘され、援助の質の問題が議題に上がるようになる。さらに、この時期日本の「貿易黒字還元」を訴える諸外国の声が更に高まり、その中で、従来型の「輸出産業支援型」の経済援助は影を潜め、援助の「ひも付き率」及び日本企業の受注率双方ともにダウン。また、マネー・フロー全体に占めるPFの割合が80年代に急速に伸び、経済援助の総額とは比較にならないほどの大きなパイを占めるという状況のもと、現在では日本のODAが日本の私企業にとってほとんど魅力の無いものになってきた。さらには、世界的な地球環境問題に対する関心の高まりとともに、日本の経済援助の方向性が修正されることになる。
日本の経済援助の歴史の中で、援助の外交的側面が表面化したのは、実は最近の事である。特に不発に終わった湾岸戦争に対する支援がマスコミの議論に火を付け、援助の理念を明確化すべきであるとする動きが活発化する。特に立法府の援助基本法制定の動きに「聖域」への介入の危機感を覚えた行政府は、ODA大綱の中で、日本の経済援助政策に対する指針を明示することになった。以下の章では、日本の経済援助の外交的側面が、実際に政策としてあらわれた実例を挙げ、それぞれの決定要因をより具体的に見ていくことにする。

平成14 年12 月18日    国際平和協力懇談会報告書の要旨 全文はこちら   

1.2002 年5 月、小泉総理大臣はシドニーにおける演説で、紛争に苦しむ国々に対して平和の定着や国づくりのための協力を強化し、日本の国際協力の柱とするための検討を行う旨述べた。これをうけて16 人の委員(参考)からなる国際平和協力懇談会が開催され、同年6 月から12 月まで審議を行い、報告書を取りまとめた。

〔国際平和協力の動向〕
2.報告書は、国家間の戦争を防止するだけでは、平和の探求として不十分であり、特に冷戦終了後は、国境の壁を超えて行われる大規模暴力や内戦、テロへの対処が必要となっていること、また脅威の伝播がきわめて迅速なため、自国の安全のためにも、世界的な活動が必要とされることを指摘している。
〔国際平和協力の活動の枠組み〕
3.このような国際社会の現状においては、国連を中心とする伝統的な平和維持活動だけでは世界の平和と安全の維持のためには十分でなく、脆弱な停戦をより持続的な平和に移行させ、また内戦によって荒廃した社会を安定したものに復活させることが必要になってきている。「平和の定着」とは、紛争が再発するのを防ぐための支援であり、和平プロセスを促進すること、人道・復旧支援を進めること、国内の安定や治安を確保することなどがそれに含まれる。また「国づくり」とは、そのような不安定な地域の政治的・経済的・社会的枠組みづくりを支援することである。これらの活動を総称して「平和構築」と呼ぶことができる。そうした活動は世界の紛争地域で益々多様化しており、迅速で柔軟な参加ぶりが要請されている。
〔我が国の国際平和協力の現状と課題〕
4.戦後、我が国には根強い平和主義が育っているが、それはともすると観念的・受動的なものになりがちであった。10 年前のカンボジアPKO 参加以来、我が国の国際平和協力分野での活動は徐々に拡大してきているが、他の先進諸国に比べてみると、その規模や展開能力に大きな落差があることは否定できない。それを縮めるべく一層の国民的な努力が望まれている。そのためには、国際社会との関わり方についての厚みのある国民的合意がどうしても形成されなければならない。

〔国際平和協力の改善・強化のための方策−提言−〕
5.我が国が、国際平和協力分野でより積極的な活動を行うに当たっては、制度上の制約がかなり多く、関係各機関の間の連携も十分といえない。いまや国際平和協力は国の行うべき基本業務の一つとして位置付けられるべきであり、そのための法制度の整備、意思決定組織の見直し、人材の訓練・研修体制の確立が求められている。このような観点から、政府は、国際平和協力に関する組織体制の整備・充実を図るべきである。
6.発展途上国へのODA は、平時を前提に貧困人口の削減と様々な格差の是正に重点をおいてきたが、今後は紛争の予防、紛争の早期終結、紛争後の緊急人道援助、復興支援などにより積極的に関わるべきである。難民/国内避難民支援、地雷除去、元兵士の社会復帰、選挙支援、基礎インフラ復旧や、行政、警察、司法分野などいわゆるガバナンス(統治)における支援、さらには教育を含む経済・社会インフラの整備などについてODA の積極的な活用が従来よりも求められる。
7.報告書は、紛争予防から、平和の定着と国づくり、本格的な復興開発支援にいたるまでの包括的かつ継ぎ目のないアプローチを提言し、そのため国際協力事業団(JICA)や、NGO、民間企業、学界などの一層の相互提携や協力を求めている。
8.また、文民専門家の役割が大きいことに鑑み、そのより積極的な派遣に向け、国際平和協力法による派遣の実現を強調している。他方多面的PKO の展開が増えており、その中での文民警察官の活動が一層拡大していることから、文民警察の行う国際平和協力については、それを警察庁の責務として法律上明確に根拠付けるとともに、そのために警察官隊を警察庁に附置することが必要である。
9.「PKO 参加5原則」については、今まで想定できなかった新しい国際情勢に鑑み、それを弾力的に解釈することとし、人道援助活動や選挙監視活動に参加する文民専門家は「5原則」の適用範囲から除外すべきである。人道救援活動に従事する文民専門家については、その早期派遣に向けて運用の見直しを図るべきであり、それとともに、国際緊急援助隊法の柔軟な適用による支援が要請される。
10.日本はまた、国連PKO の機動的展開を目指す国連待機制度に参加すべきであり、同時に、近年増えつつある国連決議に基づいて派遣される多国間の平和協力活動(いわゆる「多国籍軍」)への我が国の協力(例えば、医療・通信・運輸等の後方支援)について、一般的な法整備の検討の開始を提唱する。
11.政府と民間が一体となって国際平和協力の活動ができるようにするため、人材の養成・研修・採用・派遣を効率的・総合的に行えるよう、既存の機構を含む有機的なメカニズムの創設を提唱する。各種人材登録制度の活用やネットワーク化を促進すること、国際平和協力に関する理論的分析を推進すること、国際平和協力関係者に関し包括的なキャリア・プランをつくること、そのため、長期的な観点に立って国内外の人事交流や連携を強めることが必要である。
12.報告書は、日本人が求める「安全」の敷居が、国際的にみて過度に高いことを指摘しつつも、同時に国際協力に従事する要員の安全のため、より重層的な取組みを提唱する。安全確保のためのマニュアル整備、非常時の輸送手段の確保、情報収集と分析の強化、危機回避のための研修の充実などを挙げている。
13.また、NGO 活動が、最近活発になってきていることは歓迎すべきであるが、国際的に見てそれがまだ不十分なので、国連などでの我が国NGO のプレゼンスを強める道を探ることや、NGO 緊急人道支援無償等を通じた健康・安全のための支援などの充実を提唱する。平和構築に従事する者が事故にあった場合の補償の格差や、労災保険の適用がないNGO の要員の場合など、適切な補償が考えられるべきである。
14.21 世紀における世界の平和構築のため、一層の情報公開と国内外向けの発信機能の拡充を通じて、日本が果たすべき具体的な役割や、国際社会から寄せられる期待について、国民が活発な議論を行うようにし、それにより国民各層の理解を深め、より広範で積極的な参加ができるようにすることが急務である。
(参考) 国際平和協力の改善・強化のための方策−提言−
国際平和のために我が国がより積極的、包括的、弾力的な協力をすること(―平和の定着と国づくり―)は緊急の課題であり、国としての基本業務に位置付けるべきである。この方針を世界に向けて発信し、その実現のための制度の見直し及び具体的な施策の改善・充実を推進するために以下の提言を行う。

1. 国際平和協力の推進体制を整備・充実する。
(1) 国際平和協力は、紛争予防から「平和の定着と国づくり(平和構築)」、そして本格的な復興開発支援に至るまでの包括的なアプローチであり、これが機動的かつ間隙のない形で行われるよう、政府は、国際平和協力に関する組織体制の整備・充実を図る。
(2) 国際平和協力に関わる省庁は、上記(1)の国際平和協力の実施に当たって、国際協力事業団(JICA)やNGO、民間企業、学界などとの相互理解を深め、協力を強化する。

2.文民専門家・文民警察を積極的に派遣する。
(3) 内閣府国際平和協力本部は、文民専門家のより積極的な派遣実現に向け、緊急援助隊の経験・ノウハウを活用し、同事務局における派遣要員の人選(特に、人道救援専門家グループ(HUREX)制度の活用)、研修及び医療器材・物資調達等の運用面の体制を強化する。
(4) 文民警察が行う国際平和協力業務を警察庁の責務として法律上明確に根拠づけ、国際平和協力のため、支援機能を備えた警察官隊を警察庁に附置し、派遣することを目指す。警察官隊の設置に当たっては、その要員は志願制を前提とするとともに、犯罪の増加等厳しさを加える国内の治安情勢を考慮し、また、新たな業務の性格を踏まえ所要の措置を講じる必要がある。
(5) 我が国の警察官の実務能力を踏まえて、それに相応しい業務を行うことができるように国際平和協力法や警察法を改正して新たな業務を付加することを目指す。仮に、業務の付加が困難な場合には指導・助言・監視業務の範囲内での派遣の可能性について検討する。
(6) 内閣府及び警察庁等関係省庁が協力して、警察官を対象とした、語学力、現地事情、武器使用等の教育訓練の実施、装備資機材の整備・開発、生活必需品や宿舎、通信手段等の支援の充実、撤収に係る手続きの明確化及び手段の確保等を図る。なお、日本から派遣される文民警察官は、管理、能率、安全上の観点から、できるだけまとまった単位として編成されるように国連当局と調整する。

3. より柔軟な国際平和協力の実施に向けて早急に法整備を行う。
(7) いわゆるPKO参加5原則に関し、紛争当事者が消滅し、停戦合意や受け入れ同意がそもそも意味を有さない場合には、これらの要件がみたされなくとも、例えば、国連安保理の決議をもって参加を可能とする。
(8) 国際平和協力業務において、国際基準を踏まえ、「警護任務」及び「任務遂行を実力をもって妨げる試みに対する武器使用(いわゆるBタイプ)」を可能とする。
(9) 国際平和協力法第3条に規定する国際平和協力業務を、現行の限定列挙(ポジ・リスト)から、必要不可欠な禁止事項の列挙(ネガ・リスト)へ変更する。
(10) 国際平和協力法において、人道救援活動や選挙監視活動に参加する文民専門家については、いわゆるPKO参加5原則の適用範囲から除外する。
(11) 国際機関の要請に基づく紛争関連の選挙監視活動への派遣について、例えば、紛争後一定期間経過した後で行われる選挙への監視団の派遣や小規模な監視団の派遣等、一定の条件の下で外務省設置法に基づいて柔軟に派遣できるようにする。
(12) 国際平和協力法に基づく人道救援活動に対する文民専門家の早期派遣に向け、人道救援専門家グループ(HUREX)制度の実際の運用を早急に実現すべきである。その一方、紛争後に起こる災害であって、紛争と時間的・空間的に直接関係のないものについては、人員の安全の確保に留意しつつ、国際緊急援助隊法(JDR法)の柔軟な適用による支援の可能性を鋭意検討する。
(13) 国連PKOの機動的展開を目的とする国連待機制度に関し、少なくともレベル1(一定期間で派遣可能な部隊の種類、要員数、派遣期間等につき予め意図表明を行うもの)、できればレベル2(上記事項につきより詳細な計画資料を予め提出するもの)への参加を実現する。
(14) 自衛隊法を改正し、国際平和協力を自衛隊の本務として位置付けるとともに、適時適切な派遣を確保するため自衛隊の中に即応性の高い部隊を準備する。

4. より幅広い平和協力活動に取り組む。
(15) 国際的に経験の豊富な人材を特定の地域紛争を担当する政府代表に任命することや国際機関に推薦すること等を通じ、紛争の終結、和平の実現を目指す紛争当事者との調停や仲介などの努力を一層促進する。
(16) 国連決議に基づき派遣される多国間の平和活動(いわゆる「多国籍軍」)への我が国の協力(例えば、医療・通信・運輸等の後方支援)について一般的な法整備の検討を開始する。
(17) 平和の定着において信頼醸成、武装解除及び治安の維持等に軍事部門が大きな役割を果たすようになっているが、こうした活動に対し、我が国がより機動的に支援することが可能となるような予算の仕組み等につき検討する。
(18) 紛争後に残された兵器等の処理・処分を行う軍縮関連事業への支援について、新たな組織の立ち上げの可能性を含め、体制整備を行う。

5.国際平和協力分野においてODAを一層活用する。
(19) 紛争予防、平和構築、復興開発支援等の各段階において、国際平和協力活動を促進するためにODAを積極的に活用する。
(20) ODAの積極的な活用に当たっては、難民・国内避難民支援、対人地雷除去、DDR、選挙支援、基礎インフラの復旧といった「平和の定着」や、行政・警察・司法分野における支援、経済・社会インフラの整備、教育・メディアの支援といった「国づくり」に重点を置くものとする。
(21) 国際平和協力分野で,他の援助国や国際機関との対話を深め、互いの比較優位を生かした形で協調することにより、効果的な支援を実施する。
6.緊急人道支援から本格的復興支援までのギャップを埋める。
(22) 緊急人道支援から本格的復興支援までギャップのない支援を実施するため、人道機関や開発機関との間の議論等を踏まえつつ、緊急支援調査や日本NGO支援無償資金協力のスキームを一層活用する。
(23) 迅速かつ柔軟な支援を行うため、英国の紛争基金(Conflict Pools)の制度を参考としながら、より柔軟な予算制度について検討する。

専門的な人材の養成・研修・派遣体制を整備する。
(24) JICA又は非営利組織等の事業・スキームを活用し、海外の各種の訓練・研修施設や研究機関等とも協力して、国際平和協力分野での専門的な人材養成・研修及び人材のリクルート・派遣をより包括的かつ効果的に行うため、政府・民間が一体となった有機的なメカニズムを創設する。なお、国際平和協力分野での研修は、日本人のみならず,海外の多くの国々
からも積極的に研修生を受け入れ、国際社会の平和の構築の基盤になる人材育成に寄与する。
(25) 人材を迅速にリクルート・派遣するために、人材管理の中核となるシステムを確立し、人道救援専門家グループ  (HUREX)制度を始めとする各種人材登録制度の活用やネットワーク化を促進するとともに、派遣事前準備、事後の  フォローアップ体制の充実を図る。
(26) 国内の研究・研修機関に対し、海外の関係機関との連携を図りつつ、緊急性の高い国際平和協力に関する理論的・学術的分析を推進することを慫慂する。
(27) 国際平和協力分野における大学の機能の向上を図るため、大学教員の派遣を支援する体制を整備し、教員の海外での活動を適切に評価したり、大学自らのコンサルタント登録制度への参加を促進する。

8.国際平和協力関係者の包括的なキャリア・プランを確立する。

(28) 大学・大学院等での専攻分野、インターン制度や奨学金制度、現地ミッションを含む幅広い国際機関などの人材募集情報などキャリア・プラニングに関する情報提供やアドバイスの実施等の支援体制を強化する。
(29) 国際平和協力に意欲を持つ人々が国際平和協力分野の活動に参加しやすいように、出向・休職・ボランティア休暇などの制度の普及や弾力的運用の促進を図る。
(30) 国際機関、国際NGOや他のドナーとの連携による国内外の人事交流や連携プロジェクトによる共同チームの活動等を一層充実化することにより、国際平和協力分野で活動する要員のキャリア・アップを図る。また、日本での国際協力活動経験者の受け皿を広げることにより,これら人材の一層の活用を促進し、国際平和協力分野でキャリア・プランを確立する。
(31) 国際平和協力に意欲をつ人々が、実務研修を通じて現場の業務を体験できるよう、インターンシップ制度の充実を図るとともに、こうした経験が大学・大学院の単位として認められるような制度の普及を図る。
(32) 既存の各種研修機関リストを活用しつつ、より包括的な情報の把握に資する「国際平和協力関連研修ガイドブック」をウェッブ上で作成し、公開・維持する。

9.安全対策を確立し、補償制度を整備する。
(33) 国際平和協力を行う全ての組織は、現場における情報収集・分析機能の強化を図るため、安全問題の担当者を指名・配置し、また、安全確保のためのマニュアルの整備、通信や避難のための輸送手段の確保、衛生管理・医療など支援機能の確保、危機回避のための研修の充実を図る。
(34) 地方公務員である都道府県の警察官が、警察庁に附置された警察官隊の隊員として派遣され、事故にあった場合に支給される賞じゅつ金については、都道府県警察官として支給される賞じゅつ金との均衡を考慮した水準を確保するための措置を講じる。
(35) 日本NGO支援無償資金協力の支援形態の一つであるNGO緊急人道支援無償等を通じ、紛争・災害等の発生直後に活動するNGO関係者の健康・安全のための支援の充実を検討する。

10.NGOへの支援を促進する。
(36) 国際平和協力に従事するNGOに対し、運営の安定化、国内外での研修やアドバイザー・トレーナーの派遣・雇用などによる専門的な人材の養成、調査研究の充実等が図られるよう政府の各種支援を強化する。
(37) 国連や国際人道救援機関等における人道救援活動に関する決定において、日本のNGOのプレゼンスが確保されるよう、政府とNGOとの対話と連携を一層推進する等、可能な方策を講じる。

11.国民の理解を深め、参加を促進する。
(38) 我が国の果たすべき役割と責務、国際社会から寄せられる期待等について、シンポジウムや各種のメディアによる広報を通じて国民が活発な議論を行うようにし、それにより国民各層の理解を深め、より広範で積極的な参加ができるようにする。
(39) 国際平和協力分野の活動についての情報公開を一層深め、その成果と問題点を国民にわかりやすい形で伝えることにより、国民の理解と参加を促進する。
(40) 人道援助や平和活動、安全保障等につき、我が国が国際社会の中で果たす役割について、海外向けのメディアや国際社会の場等を通じて明確なメッセージを活発に発信する。


参考) 「国際平和協力懇談会」 委員名簿 (座長) 明石康元国連事務次長
海老沢勝二日本放送協会会長 草野厚慶応大学総合政策学部教授  小島明日本経済新聞社常務取締役論説主幹
小林陽太郎富士ゼロックス株式会社代表取締役会長 嶌信彦ジャーナリスト 志村尚子津田塾大学学長
田中明彦東京大学東洋文化研究所教授 千野境子産経新聞社大阪本社編集局特別記者兼論説委員
西元徹也元防衛庁統合幕僚会議議長 新田勇元大阪府警察本部長
星野昌子特定非営利活動法人日本NPOセンター代表理事 山崎正和東亜大学学長
山中Y子国連大学・北海道大学大学院国際広報メディア研究科客員教授  弓削昭子国連開発計画(UNDP)駐日代表
横田洋三中央大学法学部教授