日頃何かアドバイスを頂いてる海野和三郎先生より、樋口和博著『峠の落とし文』M少年の
ことの記事のコピーを頂いた。

大変重みのある文章で友人が打ち込んでくれた。弁護士の石川元也氏が更にいくつかネット
で紹介されているのにも偶然であった。

昨年末ご講演をいただいた中條高徳氏も上記の3人と同じく松本高校出身である。小松校長
と言う1人の教育者の教育熱の息吹が多くの人々に感化の波動を広げたといえよう。

樋口氏の2番目の随筆集「蓑虫の声」の最初にある「賀状」という樋口さんが裁判長として
死刑を言い渡した被告からの年賀状に関わる話が書かれていますが、NHKの「ETV」特
集2010年5月30日放映予定。この被告は、担当検事、弁護人と文通をしていたということで、
それらを取り上げながら、「裁判員裁判一年目を契機に、人を裁くことの意味について考
える」番組を制作中。  J.O


随 想 随 感 峠の落し文(18)
         M少年のこと
         樋口和博

 MさんはK市で飲食店を営み、この地域の保護司や民生委員をやり、その街の非行少年の相手
になったり、恵まれない人達の面倒を見たりして、社会事業に情熱を傾けている有力者である。
あれはもう、随分前のことであった。髪の毛が逆立ち、反抗心のかたまりのように見えるM少
年が、家庭裁判所の審判廷に現れた。裁判官の前で両手をポケットに突っ込み、着席すると同
時に「ふーん」と顔をそむけた。

暴行傷害事件などで、家庭裁判所の調べを受けたことが数回あり、その後、保護観察処分になっ
たが失敗し、非行少年の収容施設の補導委託先を二度も逃げては事件を起こし、今度も補導委
託中に逃出して傷害事件をやり、家庭裁判所の審判に廻された身柄付の少年である。

調査官の取調べの段階で、今度こそ少年院送致決定になることは、本人も充分覚悟していると
見える。本人の取調べを終えて決定の言い渡しをしようとすると、「ちょっとお願いがあるの
ですが」といかにも自信のなさそうな声で言い出した。「今度、少年院に送られることは覚悟
していますが、その前に一度だけ母親に合わせて欲しいのです。今日の審判には母親を呼んで
もらったというのに出て来ていません。度重なる犯罪で、今度こそもう私のことなどすっかり
諦めているだろうと思われますが、世界中でただ一人きりの母親にだけはまだ見捨てられたく
ないんです。私が立直って出て来るのを待っていてくれると約束してから少年院に行きたい。
今度一晩だけ母親と一緒に過ごして来たいのです。

一晩だけでいいから母親の処に帰して貰えませんか」と言って先程の猛々しさとは反対に、誠
にしおらしい態度で懇願する。「こんなに多くの前歴があり、このような態度の悪い少年を帰
宅させたら帰ってきませんよ」と言うのが、調査官の先生はじめ、関係者の強い反対意見であっ
た。私もこの少年を一時帰宅させることの危険性を承知していたが、彼を立直らせる為には、
この機会に、だまされてもいいから、一度本人の言分を聞いてやってみようと考えたあげく、
一晩帰宅させることにした。

帰宅を許してやると言われた彼は「先生、本当に帰してくれるんですか、大丈夫ですか」と何
遍も念を押す。「大丈夫ですか、とは一体何のことか」と聞くと、「先生の言葉が信じられな
い。私が逃げて帰って来ないという心配をしないですか」と言う。

「大丈夫、私が君を信用して太鼓判を押して帰宅を許す以上、安心して行って来なさい。そし
て明朝九時までに必ず判事室に出頭するように。そしてお母さんともじっくり話して来なさい」
と言って帰してやった。

思いきって帰宅を許したものの、彼の前歴からみて、果たして約束通り帰ってくれるかどうか、
不安のために、私はその日、なかなか眠れない一夜を過ごした。

翌朝早々に登庁してみると、驚いたことに、M君はもう既に裁判所に来て、私を待受けていた。
9時10分ほど前である。お袋さんから貰ってきたという大きな荷物を両腕に抱えていた。私の
顔を見ると、彼はにっこり笑った。

彼は約束を守ったのである。

着席すると同時にM君は、こんなことを言い出した。「私は物心がついてから今日まで誰から
も信用されたことがありませんでした。学校の先生からも、警察は勿論のこと、保護司の先生
からも、補導委託先の先生達も、ただ一人のお母さんさえも、一度も私のことを本当に信用し
てくれたことがなかったんです」と言い、ちょっと間をおいて、「私がグレだしたのも、あれ
は中学二年の頃、学校で盗難事件があり、当時から私が反抗心の強い生徒だったことから、全
く身に覚えのないのに疑いをかけられ、それからというもの、何か事件があると、あれはMの
奴がやったんだと疑われるようになりました。私はそんなことから、ひとの言うことは絶対に
聞くまいと決心したんです」と言ってちょっとしゅんとした。「今度、私は裁判官の先生に一
日の帰宅をお願いしたときも、これだけ前歴があり、態度の悪い私の帰宅を許してくれるなど
夢にも考えておりませんでした。どうせ私の言うことなど信用してくれないし、許可してくれ
ないことは決まっているから、少年院に送られる途中で、私を連れてゆく裁判所の職員を突き
飛ばして逃げてやるつもりでいたんです。

ところが全く意外にも先生は帰宅を許してくれました。私の言うことを信用してくれたのです。
私は内心飛び上がるほどびっくりしました。そして、これは困ったことになったなぁと考えま
した。先生から信用されたことで、どうしていいか解らなくなりました。はじめて私を信用し
てくれた先生を騙すわけにはゆかないと考えはじめたわけです。

私は帰宅して母に会いました。こわめしを作ってくれました。寒くなるからというので、手縫
いの衣類も沢山持たせてくれました。そして母親に今度こそ立直ります、と約束してきたので
す。本当に有難うございました」と言って、涙を流している。あのふてくされた少年とは見違
えるような、しおらしさと明るさに、私は胸が熱くなった。中等少年院送致決定を受けて深々
と頭を下げ、「ありがとうございました。元気で行って来ます」と言って明るい顔で出てゆく
M少年の後姿を、私は晴々とした気持ちで見送った。この少年こそが冒頭に述べたK市における
屈指の社会事業家として働いているMさんの若き日の姿であった。

この頃の所謂つっぱり少年達の中には、最初から疑いの目で見られ、家庭に対し、世間に対し
不信感でかたまったような少年も多い。私達は、あるときには騙されることを恐れずに、これ
を信じてかかることがあってもよいのではないだろうか。(弁護士・元裁判官)

昭和58(1983)年4月記  「宇宙」 春季号 平成22年4月5日発行



叱られる権利 随筆「峠の落し文」樋口和博から (平成17年10月)

 師走の街を歩いていた。行き交う人達からあわただしさが伝わるたそがれどきである。私の
後ろから、突然一台の自転車がベルも鳴らさずに肩すれすれに走り抜け、すぐ前を歩いている
老婦人を突き飛ばすと同時に自転車も横に傾いて止まった。中学生らしい、身体の大きなその
自転車の少年は、起き上がろうとしている老婦人に向かい大声で、「何をぼやぼやしてるんだ、
危ねえじゃねえか、気をつけろ、ばかやろう」と捨てぜりふを残して立ち去ろうとした。

 私はその少年の乱暴な言葉づかい、ことに「ばかやろう」という聞き捨てならぬ言葉に我慢
がならず、急いで走って行き、少年の自転車のハンドルをつかまえた。「ベルを鳴らさずに歩
道を突っ走って人を倒しながら謝りもせず、ばかやろうとは何事だ。このお婆さんに謝りたま
え。君が謝らない限り絶対にこの自転車のハンドルを放さないぞ」と言って少年をにらみつけ
た。彼は黙ったまましばらく私の顔を見ていたが、そのうちに自分の過ちを悟ったのか、老婦
人に近づき「お婆さん、どうもすみませんでした」と丁寧に頭を下げて自転車に戻ってきた。
聞いてみると彼は中学三年生であり、塾通いの途中であること、両親は共稼ぎで一人っ子であ
ることなど、色々とその身の上話をしてくれた。道路の上では長く立話もできないので、「こ
れからは気をつけて走ってくれよ。それから、おとしよりを大事にしてやってくれよね」と言
うと、彼は明るい顔で「うん」と言った。私が黙ってその子の手を握ると、思いがけなく私か
ら手をさし出された驚きと、悦びの交錯するような顔つきで私の手を握り返した。そして「ど
うもすみませんでした。これからは気をつけます」と言って自転車を走らせて行った。彼の態
度や言葉づかいなどからして、その顔には、自分の行動に対する反省の態度を読みとることが
出来た。あんなに乱暴な無法者とも見えた少年も実は純情な可愛らしい少年だったのである。

 ところが、その歩道のすぐ前には八百屋さんがあり、屈強な中年の男が腕組みをして立って
いた。そして事の成り行きを終始見ていながら、私達に手助けしようともしなかったのに、少
年が立ち去ったあとで、「どうもこの頃の子供は始末におえませんな、困ったもんですね」と
話しかけて来た。私はこの中年の傍観者の態度に憤りさえ覚え、彼の言葉には返事もせず、幸
いにして怪我もなかった老婦人をいたわりながらそこを立ち去った。

 私がかつて、家庭裁判所で少年事件の審理に関与していたとき、そこに出てくる多くの少年
諸君に共通するものに、彼らが幼い頃から甘やかされ、放任されて育ち、他人に迷惑をかけて
はならないという基本的な躾を受けていないと思われるケースが多かった。

 事情があって幼少時から母親一人の手で甘やかされて育ったある少年が、再三の犯罪を繰り
返した揚句、審判により特別少年院送致の決定を受けるにさいして、その少年の言い残した言
葉がいつまでも私の頭にこびりついていて離れない。それは、「この俺をこんな人間にしたの
は、お袋や学校が悪いんだ。俺が小さいときから悪いことを繰り返しても、お袋は厳しく叱っ
てくれなかったし、学校の先生達は俺に不良という札を貼ってほったらかすだけで、親身になっ
て叱ってくれたこともなかった、その頃にもっと厳しく叱られていたら、こんな人間にはなら
なかった。俺はお袋と学校の先生達を怨む」と言って泣いていた。

 彼の言い分はまことに身勝手な、自己中心的なものであり、自分の行動を正当化する理由に
ならないことは勿論である。だが私達は彼のこの言葉を一人の少年のたわごととして一笑に付
して済ませられるものであろうか。彼のこのような身勝手な言葉の中にも、我々すべての大人
達が、この頃、われわれの身近に起る、目に余るような少年達の不躾けな行動に対して、八百
屋の前の中年男のように、他人事として見て見ぬふりをしてきたことについて、大いに反省を
求められているものがあるかもしれない。このような大人の傍観者的態度が、数多くの少年非
行の原因の一つになっていることも見逃がすことができない。そして、この時代においてこそ、
かつて賀川豊彦先生が、「子供達には叱られる権利がある」と言われた言葉の持つ意味をもう
一度、深く考え直すべきであろう。

 このたびの自転車暴走少年のように、およそ日常生活における社会的ルールの大事なことを、
誰からも厳しく躾けられずに育ってきたであろう、この一少年が、見知らぬ老人の厳しいいま
しめの言葉に、何かを感じとったのであろうか、素直に詫びて立ち去ったその少年の、別れの
言葉に何となく温かいものと感じ取ったことである。
                         昭和六十年一月「法曹同志会誌」
    

特攻精神のゆくえ  (「峠の落し文」から)

 色の白い円い顔、濃い眉毛に厚い唇、澄んだまなざし、ぼろぼろの服装の中にもどことなく
気品をそなえた紅顔の美少年である。その彼が土蔵破りの犯人として裁きを受けようとしてい
る。さきに闇米を運んだという罪で懲役刑の執行猶予判決を二度も受けて間もなく、今度の事
件でつかまり、公判に廻されたのである。

型通りの調べが終わり、検事の厳しい論告があり、実刑判決の言い渡しをした。言い渡しを終
えて席を立とうとすると、突然、彼が、「裁判長! お願いがあります。聞いて貰えますか」と
言いながら、まことに深刻な表情で訴えるように喋りだした。

 「自分は、今度の事件で刑務所に行かなくてはならないことはよく承知しております。この
裁判についてはまったく不服もありません。ただ一つだけ裁判長に聴いて頂きたいことがある
のです。― 私の父は陸軍大尉でした。私はその長男に生まれ、姉一人妹一人に両親を交えて
非常に幸せな幼少時を過ごしました。父は世渡りの下手な軍人で、同僚がどんどん出世して連
隊長、旅団長などに栄進していく中を、文字通り万年大尉で終わった人であります。

 今度の戦争の末期に三度目の戦地派遣の命令を受けたとき、父は私達母子四人を集めて申し
ました。『戦争は極めて重大な段階に来ている。自分が今度南方へ行つたら生きて帰ることは
ないと思うから、これが最後と思つて聞いて貰いたい。お父さんはお前達も知っているように、
上官にはまことに受けが悪く、甲斐性のない貧乏暮らしをしてお前達にも随分苦労をかけてす
まなかつた。だがただ一つだけ、お父さんがお前達に自慢の出来ること、そして喜んで貰える
ことは、この父は日本人の誰にも負けないだけ天皇陛下に忠誠を尽くして来たということであ
る。陛下に尽くす真心だけは、誰にも負けない自信がある。このたびも自分は死地に赴くこと
を命ぜられたようなものだが、陛下の命令とあらば喜んで行くのだ。自分の家は代々軍人の家
である。長男であり一人息子であるお前も、どうか自分の後について来て欲しい。お母さんや
女の子達は最後まで陛下の国土を立派に護り通して欲しい。これだけがお父さんの最後の願い
である』と言つて元気に出発して行きました。

 私は当時、府立第○中学に在学し、成績はいつもクラスの中の二、三番でしたが、その途中
から父の後を継いで特攻隊を志願しました。そして私の入隊中に、父はその言葉通り白木の箱
に入って帰って来ました。私達家族は、涙一つこぼさずに父の遺骨を迎え、その霊前で父の立
派な戦死をたたえ、私達もいずれ父の後を追ってお国のために殉ずることを誓いました。私は
一日も早く特攻隊員として出動する日を楽しみにしていました。父の後を追って死ぬ日を心待
ちにしていたのです。

 ところが、意外にも終戦で生きたまま帰されることになりました。私はかねてから上官に対
してどうか死なせて下さい、飛ばせて下さい、と何遍となく頼みましたが、許して貰えません
でした。私はよれよれの軍服とよごれた軍靴で東京に帰って来ました。母や姉妹と会って、こ
れから先のことを相談しようと考え、そこに淡い希望を抱いて帰って来たのです。

 しかし、帰京してみると、家は焼けて灰になっていました。母も姉も妹も焼け死んでいまし
た。隣り組の人や町内の知り合いの人達の私に対する態度は冷淡そのものでした。その人達は、
『あんたのところのお母さんやご姉妹達は自殺したようなもんです。この町内会の者はみんな
安全地帯へ逃げて誰一人として死人も怪我人も出なかったのに、お宅の人達だけが家と一緒に
心中したようなものです。逃げようと思えばいくらでも逃げられたのに、近所の人達の言うこ
ともきかず、バケツで水をかけて消火しようとしているうちに、火に包まれてしまったのです。
大体バケツの水であんな物凄い火を消せると思うこと自体、馬鹿げた話ですよ』と言って、冷
たく批判しておりました。

 私は母や姉妹の死が近所の人達の笑いものになっていることを知りました。それでも母達が
火に包まれて死んでいった気持は私にはよく解りました。戦争の末期になって、どうしても死
にたかった私の気持とまったく同じことです。父が最後に残した『国土を最後まで護れ』との
言葉を忠実に護って死んで行ったことがよく解るのです。それだけに世間の人達の冷笑が本当
に憎らしいと思いました。

 私は東北地方に住む叔父や親戚を頼って行きましたが、ただでさえ食糧事情の厳しいときに、
私のようなものに目をかけてくれる親戚もありませんでした。東京で学校に復帰する資力など
勿論ありません。私は知人を頼りに東京で会社員になりました。その会社は闇物資を取り扱う
インチキ会社でした。闇会社なんかで働けるものかと憤然と飛び出して、他に転じました。そ
こもやはり、まともな会社ではありませんで、また辞めてしまいました。よごれた軍服を着て
銀座を歩いているとき、幼友達のろくでなしの男がりゅうとした服装でさっそうと闊歩してい
るのを見ました。そして、その幼友達から闇米の輸送で儲ける話を聞き、それからというもの,
私は面目も正義感もあっさり捨て、夢中で闇米の輸送をやりました。

 何遍か検挙されました。罰金も何遍かとられました。どの罰金も闇米を二、三回運搬すれば
直ぐ納まりました。また検挙され、懲役と罰金を一遍に科せられ、懲役刑は二度とも執行猶予
になりました。そのうちに闇米の取締りがいよいよ厳しくなり、農家ではなかなか米を売らな
くなりました。

 ある日のこと、一日中、米を購い求めて歩きましたが、どこの家でも売ってくれません。た
またま扉の開いている土蔵に無断で入り込み、米を持ち出そうとしたが見当たらず、二階のタ
ンスの中から衣類を盗み出し、夜明けの駅の待合室で逮捕されたのです。

 裁判長! お願いです。私は一体どうしたらよいのか、それを教えていただきたいのです。
私は先程も申し上げたように軍人の家に生まれました。父親からは天皇陛下に忠義を尽くせと
言いきかされて来ました。母も、私の小さいときから、お前は天皇陛下の赤子だ、立派な軍人
になってくれと申しておりました。小学校や中学校の先生達も、親しい友人先輩の誰も彼もが
天皇陛下に忠義を尽くすことこそ最高の道徳だ、男子の務めだと教えてくれました。そして、
私はそれを信じて来たのです。ところが、戦争に負けて還って来ると、世の中は変わっており
ました。国土を護りぬく覚悟で死んだ母や姉妹は、世問から嘲笑されています。父の死も犬死
になりました。軍隊から還った私達は、何か悪いことをした人間のように白眼視されています。
そして、闇取引などで儲けた人間がうようよと威張り散らしています。私は何も信ずることが
出来なくなりました。私は自分の罪の償いとして、甘んじて刑務所に行きます。だが,刑務所
を出てからの私は一体何を目標に生きて行ったらのでしょうか。どうかそれを教えて下さい。
裁判長! お願い致します」

 こう叫びながら、彼はその両頬からポロポロと落ちる涙を拭おうともせずに立ちつくしていた。

 閉廷を宣して自室に戻った私は、彼を部屋に導き入れ、黙ったまま彼の手を握った。彼は両
手で私の手にしがみつきながら、おんおんと声を立てて泣いた。私は、「君の人生はまだ長い。
これからじっくりと静かに自分が生きてゆく道を自分で考えてくれたまえ」と答えることが精
一杯であった。私も涙の湧いてくるのをどうすることも出来なかった。(昭和二十五年四月)
(平成17年8月) 法の厳しさ 樋口和博 筆「峠の落し文」から

 「獄窓の歌人」と呼ばれていた島秋人さんが処刑された。昭和四十二年十一月である。

 彼は昭和九年に生まれ、その幼少時を満州で過ごし、戦後引き揚げてからは病弱と貧困のど
ん底の中で育てられ、疲労のつもった母に死別してまったくの孤独となり、周囲の人達からさ
げすまれ、学校では劣等児として差別待遇を受け、級友からいじめられるなどして次第に不良
化し、少年院に入ったり、いろいろな犯罪を繰り返したりした末、昭和三十四年郷里に近いN
県のO市で強盗殺人を犯して検挙され、昭和三十七年六月に死刑判決が確定していたものであっ
た。

 彼には、これまで何一つ楽しい想い出もなかったが、中学生の頃に唯一度だけほめてもらっ
たことのある図画の先生のことがなつかしく思い出され、獄中からその先生に手紙を出したと
ころ、その奥さんのK子さんも学校の先生であり、短歌をやる人で、短歌を通じて文通がはじ
まり、爾來八年間、師弟の美しい交渉がつづいたのであった。

  わが死にてつぐない得るや被害者の
  みたまに詫びぬ確定の日に

これは彼の死刑判決確定の日の歌である。そして死刑執行の予害を受けた執行前夜には、

  土ちかき部屋に移され処刑待つ
  ひととき温(ぬく)きいのち愛しむ

  この澄めるこころ在るとは識らず来て
  刑死の明日に迫る夜温(ぬく)し

の歌を作り、「人間として極めて愚かな一生が、明日の朝にはお詫びとして終わるので、もの
悲しい筈なのに、夜気が温かいと感じ得る心となっていてうれしいと思う。死刑判決確定後五
年間の生かされて得た生命を感謝し、安らかに明日に迫った処刑を受けたい心です。僕が生か
されて得た心でしみじみ思うことは、人の心の暖かさに触れて素直に知った生命の尊さです」
と処刑を受ける心境を語っている。そして彼に初めて歌心を与えてくれたK子さんに宛てた手
紙の中で、「教師はすべての生徒を平等に愛して欲しいものです。一人だけを暖かくしても、
一人だけを冷たくしてもこまります。目立たない少年少女も等しく愛される権利があります。
むしろ目立った成績の優れた生徒よりも、目立たなくて覚えていなかったような生徒の中にこ
そ、いつまでも教えられたことの優しさを忘れないでいる者が多いと思います。忘れられてい
た子供の心の中には、一つだけでもほめられたというそのことが一生涯繰り返して思い出され、
なつかしいもの、楽しいものとして、いつまでも残っているものです。私がそうです」と書き
送り、図画の先生のほかは、学校で級友や先生達からいつも劣等児として冷たい差別待遇を受
けて、不幸の一生を終わろうとする自分と同じような道を、一人でも歩かせたくないという深
い思いやりの情をこめている。

 さらに処刑の日に、被害者の夫Sさんに宛てた手紙で、「長い間お詫びも申し上げずに過ご
していました。申し訳ありません。本日処刑を受けることになり、深くお詫びします。最後ま
で犯した罪を悔いていました。亡き奥様に御報告して下さい。私は詫びても詫びても詫びが足
らず,ひたすら悔を深めるだけでございます。私の死によって、いくらかでもお心の癒やされ
ますことをお願い申し上げます。申し訳ないことでありました。ここに記してお詫びの事に代
えます。皆様の御幸福をお祈り申し上げます」と書きつづり、刑に服する心境として、「僕は
気の弱い人間でしかない者だったと思う。でも生きることがとても尊いことだけは解ります。
僕の犯した罪に対しては、『死刑だから仕方なしに受ける』というのではなくて、『死刑を賜っ
た』と思って刑に服したいと思います。罪は罪、生きたい思いとは又別なことだと思わなけれ
ばならない」と深刻な反省を述べている。

 島秋人さんの「遺愛集」(KK東京美術発行)を読んで、その一部を引用させて頂いたよう
に、その中に流動するこのような死刑囚の心境に触れて、私は厳粛なものに打たれた。これほ
どまでに自己の罪の深さを懺悔し、人間の生命の尊さを自覚反省した人が、処刑されなくては
ならないということには、実にやりきれないものを感ずる。

 彼こそは神の御手によつて許され得たであろうのに、人間が作る「法の厳しさ」からは許さ
れ得なかったのであろうか。 (昭和四十四年一月)

     
  言葉の重さ     随筆「峠の落し文」から

 田舎から出てきた親戚の婦人が駅前からタクシーを拾った。行き先を告げても、道順を話し
ても一向に答えてくれない。とうとう恐ろしくなり、途中で車を降りて歩いてきた。彼女が車
を降りるとき、その運転手さんは、ただ一言「一〇〇〇円!」と言ったとのことである。

 満員電車の中で若い女性に足を踏まれた。「何をぼやぼやしているんだ!」と言わんばかり
の顔で睨みつけられた。「すみません」という言葉がなぜ出ないのだろうか、と考えながら、
不愉快な気持で帰宅した。購い入れたばかりの靴のくぼみを撫でながら、言葉のない世界の情
けなさをしみじみと感じた。と同時に、この頃の人達の心のゆがみが、この靴のくぼみに象徴
されているようにも思われてならなかった。

 地方で医者を開業している友人が、生まれて初めて刑事裁判の法廷に証人として呼ぴ出され
た。当日は手術の予定があり、期日の変更を申し出ようと考えたが、何分にも、正当な理由な
く出頭しないときは、勾引、罰金、拘留などと言つた制裁文言が書かれているだけに、初めて
証人の呼び出し状を受け取つた彼としては、何とも薄気味悪く感じた。そこで奥さんや、看護
婦さん達に頼んでことわりの電話をして貰おうとしたが、誰も引き受けてくれない。裁判所に
対する拒否反応は婦人の方が一段と強いようなので、仕方なしに自ら受話器をとった。すると、
まず交換台からやさしい応答があり、内線の係官に取りついでくれた。用件を申し出ると、応
対に出た職員が、これまた親切に不参届けの手続きなどこまごまと教えてくれた。その予期に
反した応対ぶりに、まず驚き、やがて感謝し、その電話の成り行きを見守っていた奥さんや看
護婦さんに「裁判所でさえ、こんなに親切な応対をしてくれるのだから、うちの病院でも患者
さんに対する言葉づかいにもっと気をつけるように」と言って、患者さんへの言葉づかいのい
ましめにしたということである。爾来、彼のところでは裁判所への認識を改め、親近感を持つ
ようになったと述懐していた。

 窓口の応対に出た職員の、ちょっとした親切を言葉づかいが、とかく敬遠されがちな裁判所
のイメージをすっかり変えてしまったことに大きな驚きを感じた。

 この頃の世相は到る所、とげとげしいものに満ち溢れている。とくに非情都市とも呼ばれる
大都会において、その感が深い。それは、言葉のない世界であり、とげとげしさに溢れた世界
であり、人の心や言葉の噛み合わない世界でもある。自然の荒廃により、われわれの肉体が蝕
まれてゆくように、人の心の荒廃によって、われわれの人間性がかき消されて、いよいよ住み
にくく、味気ない世の中になってゆくように思われてならない。

 ひとり息子を自動車事故で失った父親が、原告本人となり、自動車会社を相手に損害賠償請
求事件を起こした。その法廷で、期日の続行を求めた相手方会社の代理人の申し入れを受けた
裁判長が、「この事件は非常におもしろい事件だから、よく研究してみましょう」と言って、
期日の続行を許可した。これを聞いた原告本人は、「私はひとり息子が自動車にひき殺されて
訴訟を起こしているのに、この父親の悲しい気持も解らずに、おもしろいとは一体何事である
か」と食ってかかり、ついに裁判長の忌避申立や弾劾裁判所に訴追を要求した事件があったと
聞いている。おもしろい事件とは、法律上いろいろの問題を含む事件という意味であることは
裁判所の常識である。しかしながら、悲しい思いで、亡き息子の写真をふところに秘めて法廷
に臨んでいる父親にしてみれば、この”おもしろい事件”という言葉が、どんなにか冷酷非情
なものとして受けとめられたことであろう。

 私は長いこと裁判官生活をしている間に、数多くの死刑事件に関与した。生と死の極限に立
たされて、裁きを受ける被告人の心情には、十分な注意を払いながら審理を進めてきたつもり
である。ところが、過日、私の関与したT被告人の強盗殺人事件で、死刑判決を言い渡し、上
訴審で死刑が確定した既済記録を取り寄せて調査する機会を得た。その記録を調べてゆくと、
その最後のぺージに、その被告人の最高裁に対する判決訂正の申立書が添付してあった。その
中に、「私は強盗殺人などの大罪を犯して死刑になりました。これはやむを得ないことです。
私の事件について長い時問をかけて審理して頂いたことに感謝していますが、裁判所は果たし
て慎重のうえにも慎重を重ねてやってくれたかということには疑問を感ずることがあるのです。
それは、第一審の裁判所で、求刑公判直前の公判廷で、裁判長が、『この事件を来年に持ち越
すこともなんですから、どうでしょう、今年一杯に片付けるように御協力頂きましょうか』と
言ったことがあります。被告人の私にしてみれば、まことにいやな感じを受けました。その言
葉はいったい何を『片付けてしまいましょう』、ということなのか気になって仕方がなかった
のです。それを聞いている私としては何ともやりきれない気持でした。そして、思っていた通
り、死刑判決で片付けられてしまいました。裁判所が死刑の運用について慎重でなければなら
ないと言つていることなんか、表面上のお飾りごとに過ぎないものと、そのときから考えるよ
うになったのであります。こんなことを申し上げておりますが、どうぞ御安心下さい。私は落
ち着いて心静かに裁判の執行を受けるつもりであります。ただ最後にあたり、裁判長のこの言
葉が与えたやりきれない気持を申し上げたくて上申した次第であります」というのであつた。
私はこの判決訂正申立書を読んで胸をしめつけられる思いがした。私には、当時、そのような
発言をしたかどうか記憶がない。T被告人がそのように記憶しているとしたら、問違いないこ
とであろう。もしそうだとしたら、何と不用意な心ない発言をしたものであろう。死刑判決を
受けるかも知れない法廷に立たされた被告人の心の動きに深い洞察を加えることもなく、その
ようなことを言ったのかと反省され、冷汗を覚えたものである。

 T被告人も、上訴審で熱心に弁護されたK弁護人に宛て「さようなら、ほんとうに長い問お
世話になりました。私はここに来て、先生はじめ、皆さんのお陰で、はじめて、人間らしいも
のにたちもどることが出来ました。心から感謝しています。これが最後の便りになります。私
の運命を告げるように、深夜の貨物列車の音が遠くに消えてゆきました。もう一度さようなら」
との簡単な葉書を残して、この世を去って行った。

 人を裁く道は厳しい。それは裁判官に負わされた宿命の道なのかも知れない。一つの言葉に
も、一つの動作にも、当事者、関係者の厳しい感応があり、まなざしがある。何気なく発した
言葉づかいや態度が、多くの人達の心に、あるときは、ほっとした心の安らぎを感じさせたり、
またあるときは計り知れない重圧を与えることもあるであろう。

 このT被告人の判決訂正の申立書は、「死」をもって「言葉の重さ」を訴えているものと、
私は感じとったことである。

 (本稿は、さきに雑誌『法曹』その他に掲載された随想の一部であり、これをもとにしたシ
ナリオ作家、海原卓氏の脚本「裁かれしもの」が日本テレビのゴールデンシナリオ賞最優秀賞
受賞作品となり、昭和六十年四月二十五日夜、日本テレビで「裁かれしもの」〈主演小林桂樹〉
として放映された)



 肩書   随筆「峠の落し文」から

 肩書ばかりがものを言う世の中で、私の友人Kさんは、前科十六犯という前歴があり、少年
時代から約四十年間を刑務所で過ごし、最後に網走刑務所から出所したという肩書の持ち主で
ある。

 私がそのKさんと親しく交際するようになったのは昭和三十二年頃、松本に在勤中、親しい
友人池田雄一郎さんが一人の老人を案内して私のところを訪ねて来たことにはじまる。

 池田さんは信州大学の学長であった。池田さんの紹介するところによると、Kさんは日本ア
ルプス登山のため信州に来て、塩尻駅で列車を待つ問、ベンチに腰かけてうとうとしていたが、
列車が着いたので急いで荷物を持って乗車すると、その荷物が他人のものであった。自分の荷
物でないことに気付いたときは、すでにお巡りさんが駆けつけて交番に連行された。置き引き
犯罪の嫌疑である。指紋照合の結果、なんと彼が窃盗強盗など十六犯の前科持ちのしたたか者
であることが判明し、その肩書の故に本人がうっかりして間違えたことをいかに弁解しても一
切聞き入れてもらえず、そのまま拘置されて厳重な取調べを受けた。

 彼は自分が働いている寺に迷惑の掛かることを恐れて、最初から住所を隠していたが、しぶ
しぶながら、静岡県三島市の竜沢寺の寺男であるとの申し立てをした。同寺に確かめてみると、
まさにその寺に何年も働いており、犯罪者から立派に立ち直った真面目な老人で、このたびも
日本アルプスに登山中の筈である、との回答であった。急遽、同寺の山本玄峰老師、中川宋渕
師などから池田学長先生に連絡があり、池田さん自ら警察に貰い下げに出かけた。ところが、
この老人は警察の留置場の中で、「自分がたとえ間違えたとはいえ、他人様の荷物を持ち込ん
だことには違いないのだから処罰を受けたい。私をここまでに叩きなおしてくださった玄峰老
師に会わせる顔がないから、どうぞ刑務所に送って下さい」と言って、警察の人達が何と言お
うともこれを聞き入れず、がんとして断食と坐禅を続けて動かなかった。そこで池田さんが身
柄引受人となり、警察官や先生の説得でようやく出所し、先生が貰い下げての帰り道、私のと
ころに立ち寄ったのであった。というのは、池田さんは旧制静岡高校から東大在学中にかけて
竜沢寺の玄峰老師の下で修行し、宋渕師とも親交深い間柄であり、同人らから連絡を受けた先
生がその老人の世話をするようになった、とのことであった。

 私がはじめてこの老人に会ったとき、彼は身体の小さい、腰の曲がった、人の好さそうなお
だやかな風貌で、とても前科十数犯の者とは考えられなかった。断食のためか、その目は落ち
くぼんでいたが澄みきっていたし、前科者によくあるようなおどおどしたところは少しもなく、
またふてぶてしさもない。何日もの間、警察に留置されていた人間とは思われない静かな人柄
がうかがわれた。

 それから間もなく、私は東京の裁判所に転勤になった。ところが、或る日、そのK老人から
一通の葉書が届いた。それには、あのときお目にかかって以来、どうしてもお会いしてお話を
したくなったからお宅にお邪魔したい、とあった。それにしても、少し前にちょっとだけ会っ
たことのある前科の多い老人が裁判官の私を訪ねて来るというので、一種の戸惑いを感じた。
ところが私から返事を出さないうちに、その翌日の夕刻には、近くの駅からとぼとぼ歩いて私
の家を訪ねて来た。今晩泊めてくれというのである。驚いたのは家内と子供達である。四十数
年間、刑務所で過ごしたという前科者が泊まるということに対する不安があった。ふろしき包
みに自分の身にっけるもの一切を包んで肩に背負っている。どう見ても一介の浮浪者のいでた
ちであった。

 私宅では彼を招じ入れて、お風呂に入ってもらい、夕食を共にした。食事が終ると彼は長い
苦難の生涯をぽつりぽつりと語り出した。

 K老人の語るところによると、彼は静岡県の、さる田舎のわさび畑の所有者である中流家庭
のひとり息子に生まれた。生まれるとすぐ母は病死し、その顔も知らない。父は相場に失敗し、
借金した金貸しに家屋敷もわさび畑も取られてしまった上彼が小学校二年のとき病死し、祖母
も彼が小学校四年のとき、卒然と死去した。一人の身寄りも無くなり、かつて自分の家の作男
をしていた者のところに厄介になっていたが、あるとき学校で彼を馬鹿にした学友とけんかし
て怪我をさせたことから学校では厄介者扱いをされるようになった。爾来、学校では事あるご
とに白い眼で見られ、学校へ行くのがいやになり、今日でいうところの登校拒否を重ね、とう
とう作男の家を飛び出して上京した。あちこちうろうろと泥棒の手先などさせられているうち
に窃盗で刑務所に入り、それからというもの、つめたい郷里の学校やそこの土地の人達に対す
る恨みから、自分のいた小学校に泥棒に入り、教員室を荒らして入獄した。その後も刑を重ね
ること十六犯、最後は強盗傷人の罪で網走刑務所に送られ、終戦後間もなく同刑務所を仮出獄
したあと、山本玄峰老師という高僧にひろわれて寺男となり今日に至っている事情など、こま
ごまと語ってくれた。

 「あの寺で玄峰老師による御世話を受けて、はじめていくらか人間らしくなりました」とい
うのが、彼の結論であった。七十歳を越えた彼には、修行に励んだ老僧にも似た姿がうかがわ
れ、食事をするときの態度、彼の懺悔の話しぶり、今日では誰一人憎むことも恨むこともなく、
ひたすらに仏に仕える彼をそこに見たのである。私は彼の話を聞いているうちに、あるときは
手を合わせて拝みたいような気持にさえなることもあった。そこには前科者という肩書も裁判
官という肩書もなかった。夜を徹して話したあと彼を寝室に案内した。

 ところがその翌朝である。夜明けと同時に彼の部屋に行ってみると、その姿はどこにもない。
ベッドは昨夜敷いたままになっている。彼が穿いてきた草履もない。さては夜半にこっそりと
どこかに逃げたものかと思い、ビクトル・ユーゴーの小説がちらっと脳裡をかすめたものであ
る。それでもどこかにおらんかと思い、裏の戸を開けてみると、庭の方でゴソゴソと音がする。
見ると庭の隅で草取りをしている彼の姿が見えた。寺で習慣となっている早朝の作務に励んで
いたのであろう。無心に草を取っている彼の姿は、まことに美しいものであった。一瞬にしろ、
彼を疑ったことがなんとも恥しくなった。

 彼は私の家に二泊して、寺に帰って行った。爾来、彼は自分の楽しみを、拙宅への訪問と、
毎年の日本アルプス登山と、俳句に託していたもののようである。俳句は飯田蛇笏先生の「雲
母」に属していて、毎月のように句作を添えて便りをくれた。

 その後、私が時折り竜沢寺に玄峰老師や宋渕師を訪ね、Kさんのことが話題になると、彼が
実に立派な人に立ち直り、寺の内外の掃除から禅堂に出入りする外人の世話にいたるまで、他
の人では出来ないような捨て身の仕事振りであることを聞かされた。そして私と彼との間には
世俗的立場や肩書きを抜きにして、裸かのつき合いがつづき、お互いに良き友人として、また
隣人として長い聞の交際をつづけてきた。

 彼は最後には八十歳を越え、老齢のため、何より好きな日本アルプス登山も出来なくなり、
私の家に来たときも、もはや早朝の作務も出来ないほど衰えていた。私達はお互いに別れの近
いことを感じた。いつも泊まる部屋には私が大事にしていた木彫りの無我童子があり、それを
拝むのを何よりの楽しみにしていることを知っていた私は、彼が最後に私の家を去ってゆくと
き、記念にその木彫りを差し上けた。彼は涙を流して喜び、「本当にうれしいことです、大事
にして拝んでゆきます」と言って抱きかかえて行った。私は心の中で密かに彼との別れを惜し
みながら、背を丸めて去って行くその後姿を見送った。

 その後、寺男としての仕事も無理となり、友人の家に世話になり、生活保護を受けながら、
無我童子と共に静かにその生涯を閉じたのである。


   樋口和博氏について 石田元也 

樋口さんは、明治42年(1909年)12月1日、長野県辰野町生まれ。松本第2中学校、
旧制松本高校、京都帝国大学法学部卒。昭和11年司法官試補、以後、大阪、青森、高松、長
野、東京の各地裁で約38年間裁判官生活。昭和49年定年退官。昭和50年1月、弁護士登
録(東京弁護士会)。法曹生活70年に近く、現在、満96歳である。

 樋口さんの随筆集は3冊ある。昭和25年5月刊行の「蛙目」(がいろめ)、2度目が「蓑
虫の声、裁判官生活三十年余」、3冊目が昭和62年5月の「峠の落し文」で、その再刊が平
成14年6月である。

 この3冊の随筆集に,すべて収録されているのが、「小松先生の想い出」である。中学生そ
して高校生になっても、小松校長の身体を張っての無言の教育というものが、樋口さんの人間
形成の骨格となっていることは間違い。

 樋口さんの人間形成に大きな要因となったと思われるもう一つの出来事が、滝川事件である。
京大3回生の、昭和8年5月、滝川事件がおこる。滝川幸辰教授の学説や著書の内容がマルク
ス主義的として時の文相鳩山一郎より休職処分とされ、大学の自治・学問の自由の侵害と抗議
して法学部教授全員が辞表を提出したのである。熱血漢の樋口さんは、こんな大学で学ぶこと
はないと退学届を提出して郷里に帰った。松本の小学校で代用教員をすること10ヶ月。大学
からは、退学届けは受理していない、戻れとの連絡で復学、司法官試験に合格。

 50年後の1988年から、東京を中心に,京大滝川事件記念会が発足し、樋口さんが代表
となる。今年も5月26日、神田の学士会館での記念会には、園部逸夫元最高裁判事、井田邦
弘・内田剛弘弁護士ら35人ほどに囲まれて、楽しい1日を送ったという。しかも、同じ会場
で、樋口さんが永く名誉会長をしている松高剣友会の会合もあり、なおさらご満悦であった。
  この4月お伺いした折りは、裁判員制度が陪審裁判に道を開いてくれるか、大きな期待を
示されていた。残念ながら、私には、このところの動きから、真の司法改革への道が真っすぐ
進んでいるようには見えないとの懸念を述べざるを得なかったが、超高齢の樋口さんの未来志
向には感銘を受けてかえったものである。