『人が育つよろこび』  鈴木博雄著 目 次 まえがき 1 教育のヒント  目標を持つと子どもは目覚める /わたしとあなたは、わたしたち /教育は交わりである /魂を磨く教育 /忘れられた指導者教育 /地域の中で人は育つ /自然は偉大な教師 /親子サマーキャンプ 2 母として、父として  母のまなざしと父の権威 /幼児には手を、少年には目を /褒めること、叱ること /子どもは心に「母」を宿して育つ /心が響き合っているか /いじめに母の慈愛と教師の勇気を /絆は努力して強まる /虎の子育てに学んだこと /父親はどこにいるのか? /父の最大の遺産 3 人間の原点  天草のキリシタン /一粒の麦の尊さ /良寛と貞心尼 /頭の上がらない人をもつ幸せ /盧溝橋に立ちつくして /霊の交わりは愛の交わり /世界ハート展を見て 4 人生を豊かに  聡明な女性は家庭でつくられる /愛する者のために尽くす「愛」 /美しく老いる /感謝といたわり―夫婦の愛の形 /きれいな言葉が美しい心をつくる /旅は人を自由にする /私の健康法―自分なりのリズムを大切に 5 希望を見いだす  心を癒す宮沢賢治の世界 /二〇〇〇年のスタート /「児童の世紀」の実現を /「人間のため」に生きられるか /女子留学生の弁論に感銘 (鈴木博雄(すずき・ひろお) 1929年(昭和4)大阪生まれ。58年東京教育大学大学院教育学研究科博士課程修了、横浜大学に勤務。67年東京教育大学講師。76年筑波大学教授。82年より同大学付属小学校長を兼任。常磐大学教授。筑波大学名誉教授。専門は教育史、教育学。2001年3月10日発行定価 500円著者 鈴木博雄発行所 ノートルモンド社 〒153-0044 東京都目黒区大橋1-7-4 久保ビル502号TEL03-3477-6929 FAX03-3477-6934 主な著書: 親が知りたい子どもの心と思考の育て方 』著 頭脳集団ぱるす出版 『高校生になった息子・娘へ 今、話しておきたい』 ぱるす出版 『近世藩校に関する研究』振学出版 『日本教育史研究 』 第一法規出版 『人間の生き方の探究 近代から現代へ 鈴木博雄/編著 図書文化社 1991年5月 2,136 『日本近代教育史の研究 』振学出版 1990年10月 9,709 『我々はいかに生きるか 現代道徳教育の課題 』遠藤昭彦/ 鈴木博雄/共編 振学出版 『父親は息子に何を伝えられるか。 偉人たちの手紙 』PHP研究所 『最新教育原理要説』振学出版 『桐の小箱 中学生への贈り物 』向学社 『附属の門 筑波大学附属小学校の教育』向学社 『育つ親なら子も伸びる お母さんが読んで得する』サクラクレパス出版部 『伸びる学習の秘訣 いま、家庭でこれだけは 』振学出版 『原典・解説 日本教育史』日本図書文化協会 『東京教育大学百年史』日本図書文化協会 『桐の小箱 』創隆社   1 教育のヒント  目標を持つと子どもは目覚める  一九九六年の夏、産経新聞の夕刊で、大阪府寝屋川市に「学力やいじめで登校拒否の末に落ちこぼれていく子を一人でも救いたい」という趣旨で開校された単位制高校のルポが掲載され、社会の注目を集めた。この趣旨に賛同した私は、学校長の依頼で生徒のために『高校生になった息子・娘へ』という本を著し、二日間にわたって授業をした。  当日、教壇に立った私はあっと驚いた。茶髪、ひっつめ髪、モヒカン刈り、濃いルージュにアイシャドーなど、髪の色や形、服装のどれをとっても高校生離れしている生徒ばかり。私が挨拶しても、無視しておしゃべりをやめないグループ。遅刻しても帽子を被ったまま教室に入ってきて、私の方をちらっと一瞥しただけで机にうつぶせになり、居眠りスタイルを決めこむ生徒など……。  「よし、生徒がそうなら、私のほうも奇襲戦法だ」と決めて、開口一番「諸君の中で親の援助を受けずに、自力で生活している者がいたら手を挙げて」と言った。生徒たちは、一瞬、驚いた様子で私の顔を見、それから周りを見回した。五十人ほどのクラスだったが、墨のほうで一人だけ遠慮がちに手が挙がった。早速、私は彼に向かって「君はたいしたもんだ! 頑張ってるんだね。学校で勉強するのも、結局は親の世話にならないで、自力で生きていける力をつけるためなんだから」としっかり褒めた。それは彼らの受験勉強拒否鐘を一掃し、勉強は受験のためにやるのではないことを強調したかったからである。 続けて、私は「では、アルバイトなどをして親から小遣いを貰わないでやっている者は?」と尋ねた。今度はバラバラと三分の一ほどの生徒が誇らしげに手を挙げた。その中には、茶髪や濃いアイシャドーもいる。私は「ほう、君たち、よくやってるんだなあ。大学生の中にも、小遣いまで全部親から送ってもらっているのもいるよ」と褒めてやると、すかさず「時給千円、ラーメン屋の皿洗い」としたり顔の解説。すぐに、「うっそ〜、八百円だろ」とまぜかえす声。「私もバイトはしたよ。ニコヨンだけどね」と言うと、「ニコヨン? 何それ?」と聞き耳を立てる。このあたりから生徒の構えていた気持ちがほぐれてきた。最後の私は「今でも、朝起きると、親に起こしてもらうことがある人は?」と尋ねた。四、五人が恥ずかしそうに手を挙げた。  これでウオーミングアップが出来たので、その日のテーマである「高校生になって」の話を始めた。話の内容は、一つは幕末の志士、橋本佐内が十五歳のとき、「稚心を去る」と日記に書いて自立の決意を固めた話、もう一つはグスタフ・フォス神父(栄光学園理事長)が、ギムナジウム(大学進学者が進むドイツの中高等学校で、小学五年から入学する)に入ったとき、親から「これからは自力でやるんだ!」と言い渡され、行動のすべてに自分で責任を持つよう扱われたという話である。 授業後、生徒の感想文を読んだ。しっかりと論旨をまとめているもの、小学生並にたどたどしく書いたもの、三、四行しか書いてないものなどいろいろだが、皆が一生懸命書いてくれた気持ちは行間からもよく汲みとれた。以下は、その二、三の例である。 「目標をしっかり持って努力すれば、きっとやれるんだという自信がつきました。僕はサッカーでJリーグの選手になりたいので、リフティングを三十回以上出来るように目標を立てて頑張る」「今まで大人ぶって、煙草を吸ったり、バイクを乗り回したりしてきて、親に迷惑かけたけど、まだ生活は親に甘えていました。でも来年で実社会に立つから、子どものように親に頼っていた気持ちは捨てようと思います」「私は三十歳で死んでも、六十歳まで何となく長く生きた人より精一杯生きたので満足だと言った吉田松陰の話が心に残った。私はこの十七年間、毎日『生きている』という実感すら持たないで、『流されて』生きてきた。今日の話はこれまで聞いたどの話よりも心に残りました」等々。 挫折して、目標を失っていた生徒たちが、今やっと真剣に生きることに目覚めたのである。これだから、青少年の教育は楽しい。(一九九七年三月号)  わたしとあなたは、わたしたち  私はある時期、恩師と国語教科書の歴史を研究したことがある。それは国語教科書が単に国語を教える教材という以上に、その国の文化が凝縮したものだからである。とりわけ、第一巻の最初に開いた頁の印象は誰もがよく覚えている。希望に胸を膨らませて入学した子どもが、一番最初に学ぶ文字だからである。  日本で最初の国定国語読本は、明治三十六年に使用実施されたもので、「イ・エ・シ・ス」という単語で始まる。当時は封建時代の名残で各地の方言がひどく、標準的な日本語を普及させるのが重要な教育政策であった。中でも、「イとエ」「スとシ」の発音が一番まぎらわしかった。近代国家として統一した国語を持とうという努力がうかがわれる。  私の母が学んだ明治の国語読本は「ハタ・タコ・コマ」のしりとり形式で始まるものだった。最初の「ハタ」の挿し絵は「日の丸」の国旗で、学校に入った最初の授業から祖国のシンボルを学んだわけである。なお、この読本には「旅順開城 約なりて、敵の将軍ステッセル、乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営」という歌で有名な「水師営の会見」がある。私はこの歌を母の背で子守歌のように聴いて育った。明治四十二年から使用された教科書であるから、日露戦争直後の新興日本の意気盛んな息吹がよく伝わってくる。  次は、私の姉が学んだ大正期の国語読本で「ハナ・ハト・マメ・マス」という子どもに親しみのある花やお宮の鳩で始まる。幼い日、姉がこの教材を大きな声で練習していたのをそばで聴いていたのが懐かしい。明治期の国家主義から一転して、当時の児童中心主義の傾向がうかがわれる。編纂されたのが第一次世界大戦後で、平和を願う時流を背景にしたものだった。  私の学んだ国語読本は「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる通称「サクラ読本」で、昭和八年から使用されたサクラ色の最初の色刷り教科書である。一年生たちは、先生が読むのに続けて、一斉に大声で元気よく読んだ。その軽快なリズムが気に入り、登下校の道すがらにも口ずさんだものだった。しかし、その次の頁には「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」とあって、軍国主義が顔を見せていた。  このあと、戦時中の国語読本で夜明けに空にあかい朝日が昇る挿し絵がある「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」が続く。これは当時流行した「見よ東海の空明けて」という勇ましい国民歌謡を思い出させるもので、今では誰もがほろ苦い思いがする。  戦後、平和になった日本の最初の国語読本は「おはなをかざる みんな いいこ」で始まる。新入生たちは、これを先生の弾くピアノに合わせて歌いながら行進して入学してくるのだ。私には外国製の甘いソフトクリームのような味がして、それまでの国語読本とはずいぶん感じが違ったものだった。  このように、国語読本はその時代の本質をよく映し出している。そこで、私は続いて、世界の国語教科書を調べてみた。中華人民共和国が成立して間もない中国の国語読本は「農民 工人」という二つの語句で始まっている。農民と労働者が最初に教材となっているのは、いかにも共産主義国の教科書だなと思った。  世界の国語教科書研究の旅で衝撃を受けたのは、西ドイツのシュタイナー教育である。ここでは教科書を使用せず、代りにノートに文字を書くことから始めていた。生徒は入学した最初の授業で、「わたし」という文字をノートいっぱいに大きく書く。数日後には、「わたしとあなた」と書く。そして、次には「わたしとあなたは、わたしたちです」と書く。つまり、学校教育の最初に人間の社会的存在の基本形を教えているのである。  これは入学したばかりの子どもには、とても強いメッセージだと思う。恐らくこれを学んだ子どもたちは、この言葉と、この人間形成の基本形を一生忘れないであろう。私は欧米の良質な個人主義社会の原点をみた思いがした。これこそ、今日の日本の子どもたちが見失っているものではないだろうか。(一九九八年八月号)  教育は交わりである  一九九八年の末から九九年にかけて、宅配便の青酸カリで女性の自殺者が出た事件や、伝言サービスで十数人の女性を誘い、睡眠薬強盗をしていた事件が発生して世間に衝撃を与えた。二つの事件に共通しているのは、他人同士がインターネットや携帯電話を通して知り合い、それが犯罪の手段に利用されたことである。これは単に犯人が情報システムを悪用したというだけでなく、犯罪の背景に、情報ネットワーク社会の中における、新しい人間関係の危うさをうかがわせるものがある。  今までなら女性は、見ず知らずの人から声をかけられ、誘われたら、一応警戒するのが普通であったが、今回の事件では、いずれも顔も知らず、住所や職業も知らない人と危険な交渉に応じている。これを、誘いに応じた女性の「不注意」「軽率」と個人的責任に帰するのは容易だが、それだけではすまないものがあるように思う。  なぜなら、そこには情報化の進展を先取りしている若い世代が、情報ネットワークの利便性を評価するあまり、それを介しての見知らぬ人からのアクセスに驚くほど無警戒に対応し、あるいは進んで新しい人間関係を結んでいる現実があるからである。  それに反比例して、若い世代の現実の人間関係は、ある調査によると「一人で過ごす」が「仲間と過ごす」より増え、「ふだん家族とよく話をする」が最低になっている。現実の人間関係が希薄になったから、情報ネットワークによる新しい人間関係づくりが進んだのか、それともその利便性が現実の人間関係を希薄にしたのかは、にわかに断定しがたいところだが、とにかく若い世代の行動を、これまでの道徳的規範だけで一方的に裁くことができなくなっていることだけは確かである。  最近、不就学児との話し合いや非行歴のある生徒との接触の経験から、私自身、この情報ネットワークによる新しい人間関係づくりが、今や子どもたちの世界でも急激に進行していることを痛感させられている。ひと昔前、子どもの社会認識の形成に影響を与える新たな問題として、テレビが作り出すバーチャル・リアリティーが注目されたが、情報ネットワークによる人間関係づくりにも同じような問題がある。それは、人間臭さのない透明な人間同士の結びつきのもつ危うさ、ということでもある。 「透明な人間」、これは神戸事件の中学生が新聞社に送った声明文にあった「透明な存在」と同じニュアンスの言葉である。今の子どもたちは、親子の深い愛情、友達との心のこもった友情、あふれるほどの師弟愛、感動的な自然の美しさ、あるいは社会で生きることの厳しさなど、テレビの知識としては知っていても、直接体験として味わったことは少ない。そのため、親の言うことや学校の教えも、テレビと同じ建前の知識として受け取っていて、自分の人生に直接かかわってくるものとは感じていないのである。  彼らの実感できる世界は、自分だけの閉じた世界か、少数の仲間でつくり上げた小さな世界であって、それ以外の家庭、学校、社会などは「関係ない」外的存在として捉えられている。だから、道徳的規範や社会の法律も、彼ら自身が納得して受け入れているわけではなく、社会生活をする上での必要悪というぐらいの感じで受け取っているのである。  この「透明な人間」たちに生命を吹き込むには、何か感動的な体験をさせるしかないのではないか。そこにおける生身の人間との触れ合い、できれば人間愛の情熱を持った人との「交わり」があればなおいい。  自由学園を創立した羽仁もと子は、「教育は交わりである。よく交わるものは最もよく教育される。大人が子どもを教えるのではなく、共に交わりつつ相互いに教育される。人間のよき交わりは、相互いに心をこめたよき生活の中にある。人の地上の生活は、造られたるものの造物主(つくりぬし)を慕う真情が、導かれつつ育ちつつ、それに向かって高まっていくものである」と語っている。このような時代だからこそ、今一度かみしめたい言葉である。(一九九九年三月号)  魂を磨く教育  論語の「学而篇」に、「十有五にして、学に志す」とある。ここでいう「学に志す」とは、人間としての生きる道を学ぶということである。十五歳という年は、日本では元服(おとなになる)の年齢であるように、人生の重要な節目と考えられてきた。幕末の志士、橋本左内も十五歳のとき、「啓発録」という日記のなかに「去稚心」と書いて、子ども時代の稚い自分への訣別を宣言した。  教育史が専門の私が関心を持ち続けているのは、各時代に青少年が自分の生き方を求めて、いかなる魂の遍歴をたどったかである。十代には性の目覚めがあり、それが心理的に親から離れたいという気持ちを強くする。そこから、「どうすれば親から独立できるか?」、「自分には異性に好まれる資格があるのか?」などと考え出し、自立に向けて次々に疑問が湧いてくる。  自分で自分のことがはっきり分からないというのは気がかりなもので、真面目な人ほど思い詰める。しかも進路を考えるには、家族や社会、国の将来も考慮しなければならない。それまでの夢見る世界にいたのとは違い複雑な難問題ばかりで、思い詰めればノイローゼにもなる。「人生は不可解なり」の一語を残して自殺する学生もいるのが思春期の煩悶であり、「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤の時代)」とも呼ばれている。  人間は魂の彷徨を経て、初めて成人としての精神的土台が形成される。成人後は社会人として生きていく上で苦労が絶えず、自己の魂を汚すことはあっても、青年の時のように、無心に魂を磨く機会に出合うことは稀である。それ故にこそ、汚れのない純真な青少年の時期に、魂を磨く教育が重視されるのである。聖書が「汝の若き日に、汝の造り主を覚えよ」と教えているのも、この意味からである。  人間は生まれつきのままでは感覚や欲望に支配されがちな動物的存在である。内在する魂を覚醒させ、無知からくる欲望の束縛から精神を解放し、永遠の価値である真・善・美・聖の体現を目指すことで、真に自由な人間となれる。この魂の覚醒を目指す営みを「自由教育」と呼び、十代の後半は、まさにこの教育にとって最良の時期なのである。  ところが日本では、大切な十代後半の教育を担う高校が混乱している。「生徒の興味を重視し」「自主性を尊重する」のが自由教育だと思っているらしい。しかし、その結果を見ると、生徒を好き勝手にさせているのではないかと思われるほど、高校は荒れている。 ここ半世紀近くの間に高校の社会的あり方が大きく変わってきたのに、政府は制度改革を怠っていた。生徒の能力や個性、進路の多様さ、教科の広がりや深まりを考えても、これを法規で画一的に規定すること自体、無理なのである。しかも、一定の教育成果を期待するには、三年間ではどうやっても時間が足りない。  また、自由教育の理念を風化させたまま過ごしてきた教育界の責任も大きい。最近、進学校と言われている高校を数校訪問する機会があったが、どの高校でも大学受験への指導意識は鮮明に感じられたものの、魂の遍歴が高校生にとって必要不可欠な過程であることに気づいている教師には出会わなかった。  大学でも教養部は六〇年代後半に消滅したし、一般教育の理念は、今ではそれを担当している教師も知らないほど風化している。最近では、文学部不要論さえ現れてきた。この背景には、戦後の日本社会における人文的教養の嘆かわしい衰退がある。しかも、この傾向は、大なり小なり現代文明の病弊でもある。  物理学出身のイギリスの文学者C・P・スノウは、すでに二十年前に科学技術革命の時代が人文的教養と科学的教養との両極分離を促進している点を指摘し、「人間が人間らしく在ることの理念が見失われつつある」と警告を発している。この人文的教養と科学的教養とを再統合し、「人間としての教養」を復権するのは二十一世紀に課せられた大きな使命であろう。(一九九九年五月号)  忘れられた指導者教育  昭和の初めに日本で暮らしたあるイギリス外交官夫人は、その頃の日本人の印象をこう書いている。「日本人には私たちにない落ち着きがあります。人生が彼らの中やかたわらを流れていきます。彼らはあせって人生を迎え入れたり、人生の舵を取るようなことはしません。流れが運んでくるものを受け取るだけです。流れてくるものが富や高い地位であっても、驚いたことに彼らは何気なく利用するだけです。その後も依然として地味な生活を好みますし、他の国民のように気取ることもないので、たとえ運が傾いたとしても私たちのようにショックを受けることはありません。高官や金持ちの質素な暮らしと、身分の低い者の暮らしは大して違いません。どちらも優雅で無欲です」  たしかに、あの頃はすべてがゆったりとしていた。あくせくと忙しげに歩く人はいなかったし、松の内から店を開くような商いもしなかった。働く時には身を粉にして働くが、楽しむ時は皆でゆっくり楽しんだ。人々の生活にけじめがあり、めりはりがあった。 「悪貨は良貨を駆逐する」というが、世の風俗も放任すれば、悪いほうが良いほうを追い払う。文化や芸術も同様に絶えず引き上げる努力がなければ堕落する。そうならないために努めているのが教育の働きである。教育とはまだ悪に染まっていない子どもに善悪の区別を教え、ともすれば易きにつきやすい人間の弱さを道徳的な鍛錬によって乗り越え、道徳的に強い心を育てることである。この道徳的に強い心を育てる教育は家庭においてその基盤がつくられるが、「汝の若き日に、汝の造り主を覚えよ」とあるように、自覚的に道徳的価値観を形成する青少年期の教育が決定的な意味をもっている。そして、この青少年期の教育がその国の国民の品位にかかわっているのである。  この意味で、羨ましく思うのは、イギリスのパブリック・スクールの教育である。パブリック・スクールは、その名に反して伝統的な私立の中等学校で、イートン、ハロー、イースなど三十数校がある。私立の小学校であるプレバレー・スクールに続き、そこを卒業すると、多くはオックスフォード大学かケンブリッジ大学、または陸軍士官学校や海軍兵学校に進む。  その生活は全寮制で大学での生活が自由で豊かなのに比し、物質的にも質素で(とりわけ寮の食事は粗食で、しかも夜食がない)、時間も彼らの自由にはならない。一日の生活は、まず朝食が終わると、八時から午後一時まで学科の授業があり、その間の四十五分の休憩には徒手体操をする。午後は教師も一緒に全員運動着に着替え、くたくたになるまでクリケットやテニスなどをする。続いてお茶の時間。学友との楽しい語らいの一刻である。夜の礼拝が終わると、大講堂に参集して自習する。この時間には教師の監督もなく、生徒の自由に任されているが、私語一つない静粛な雰囲気の中で彼らは思い思いに復習や宿題などをする。八時半に寮に帰り、点呼、寮長の注意があって就寝となる。この時、少しばかりのくつろぎの時間を過ごすが、自習は許されない。皆がくつろいでいる時に勉強するのはよしとされないのである。こうした教育を支えているのは、道徳的に自由な「イギリス紳士」を育成するには、精神と肉体の鍛錬を目的とした厳格な修業が欠かせないという信念である。  日本にも、かつては「日本の紳士」の育成を目指した学校がいくつか存在した。春の一日、私は鎌倉の東慶寺を訪れた。寺には、鈴木大拙、安倍能成、岩波茂雄らそうそうたる文化人が静かに眠っている。その奥に、旧制一高生の寮生活を偲ぶ「向陵塚」の碑がある。「ありし日の良き寮生活に育まれた知恵と正義と友情の絆をいとおしみ、永く我等の魂とともどもに止めんとした」と記されていた。  一国の文化を高め、品位を保持するのは、その国の指導者層の教養である。しかし、今日の日本には、そのための教育の大切さに関心を払われることが皆無に近い。私にはそれが残念でならない。(一九九九年四月号)  地域の中で人は育つ  秋の好日、「長崎くんち」を堪能させてもらった。“くんち”というのは、旧暦の九月九日(くんち)の重陽の節句に行う秋祭りのことで、長崎くんちは諏訪大社の大祭のことをいう。祭りの見ものは長崎の七十七町より一年に十一町が順番で受け持つ奉納の踊りである。七年に一度しか巡ってこない晴れの舞台に備えて、老いも若きも一緒になって準備に町中が熱中する。  祭りの当日は、飾り立てた町ごとの神輿が、鮮やかな衣装を着た若い衆に担がれて、神社正面の石段を威勢よく駆け登る。その姿は勇壮、かつ華麗である。両脇に詰めかけた観衆が「もってこーい、もってこーい」と叫ぶと、神輿は引き戻され、踊りの再演をする。  神輿の上では、晴れ着を着た少年少女が鉦や太鼓を叩いている。中には少年が全体の音頭をとっている姿も見られる。町ごとに作られる豪華な傘鉾には、自分の町の特徴を表す飾りの趣向がこらされている。竜踊(じゃおどり)や御朱印船、鯨の潮吹きなど歴史の町長崎ならではの独特な踊りが次々に繰り出されてくる。  狭い参道をアンコールに応えて所狭しと踊りまくるのであるから、危険でもあり、エネルギーも大量に消費する。担ぎ手には、かなりの疲労の色もうかがえるが、それにもめげず、きりりとした緊張感のみなぎる若い衆の表情は実に清々しい。  私は奉納の踊りの素晴らしさに感動を覚えながら、ここに日本文化の原点があると痛感した。最近の祭りは商業主義が露骨に出ていて、祭りの邪道だと嘆く人もいるが、私はそれでも祭りを続けてくれることを切望する。祭りをここまで盛り上げてくるためには、町ぐるみで奉仕の日々が続いたことであろうし、舞台での担ぎ手と観衆との息の合った一体感は一朝一夕にできるものではない。祭りにかかわる人々が手弁当で参加し、奉納の踊りを見事に演じ切った時に、皆とともに喜びあう一瞬こそ、祭りに主体的に参加した者の至福の時である。  今ごろの若者には、皆とともに一つの目標に向かって取り組むチャンスがあまりにも少なすぎる。車中で彼らの会話を聞くともなく聞いていると、バイトの賃金はどこが高いとか、テレビ番組の主人公がどうとかというようなことばかり。大学の面接で将来の志望を聞くと、「わからない」「何でもいい」という頼りない返事。「どうして大学に進学したのか?」の問いにも、「親や先生が決めたから」と人任せの態度が目立つ。  しかし、こんな何の変哲もない、おとなしい生徒が突如として刃物を振り回して、見知らぬ他人に襲いかかることがしばしば起きているのが今日の日本の世相である。  奉納の踊りに全力を投入している若者も、刃物を振り回した若者もそんなに違っているわけではない。前者が地域の一体感の中に生きているのに対して、後者には彼らに一体感を感じさせる地域や学校などがなかっただけである。恐らく刃物を振り回した若者も故郷の祭りに参加できたら、きっと爽やかな表情で神輿を担いでいるに違いない。  私も地元の盆踊りや隠し芸大会などに参加するようになって、ボランティアで支える地域の活動の大切さと難しさが身にしみてわかってきた。地域に対する自主的な奉仕がボランティアの精神であるが、そのボランティアの活動が自分の世界を広げ、自分を囲む人々とのつながりを強めることになるのである。つまり、他への奉仕がそのまま自己を高め、広げることになって還ってくる。  地域の人々との一体感は、さらに広がって国民との一体感となり、その先には同じ人類の一員として、国際社会や地球社会へとつながっている。  学校教育の中で、ボランティア活動を体験させることを進めている。その場合、すぐに病院の患者や老人の介護などを考えがちであるが、まず、ボランティアの心を身につけるために、子どもたちを地域の祭りや行事に参加させて、地域の人々との一体感を育てることから始めることをお勧めしたい。(一九九九年十二月号)  自然は偉大な教師  茨城県南部を流れる小貝川の両岸周辺には豊かな自然林が残っていて、夏になると、今でもオオムラサキという美しい蝶が飛び交うのを見ることができる。オオムラサキは七月頃、さなぎから蝶に羽化する。羽の内側半分が淡い紫色で、その周縁に白や黄色の大小の斑点がある。昔は日本のどこにも見られたことから、「国蝶」と言われていた。  オオムラサキを見ていると、いつの間にか私の心は、網を手に蝶やトンボを追って野原を駆け回っていた少年の頃に戻って行く。それは、どんな時にも私を和ませてくれる、心の原風景である。  しかし、現実にはオオムラサキも年々減少し、九一年には絶滅のおそれのある動植物のリストに登録されるほどになってしまった。そこで、小貝川流域の自然を愛する有志が立ち上がり、オオムラサキの保護に努めた結果、最近になって、ようやくオオムラサキの群舞を見ることができるまでに回復したという。今年の夏休みには、美しいオオムラサキを見て、子どもたちが歓声をあげる姿が目に浮かぶようだ。  万葉の昔から、山紫水明とうたわれた日本の自然は、人々の心に深い感動を与え、優しい心を育ててきた。四季折々に移り変わる自然の相は、日本人の人間形成や社会形成に大きな影響を与え、独自の歴史をつくってきた。  自然が果たす教育上の意義を重視したルソーは、「自然は子どもの身体を鍛え、子どもを成長させるために、種々独特の方法を持っている。何人もこれに逆らってはならない」と述べ、さらに「諸君が自然に代わって教育に手を出す前に、長い間自然に仕事をさせておくがいい」(『エミール』)とも忠告している。  幼児には見るもの、聞くものすべてが好奇心の対象で、「これ何っていうの?」「あれ何しているの?」と間断なく問いを発し、時には手に触れるものを口に持って行くこともある。それは、まだ自然の状態に近い幼児の心が、自然の中にある不思議な力に揺り動かされているからであろう。つまり、自然が子どもに働きかけて関心を起こさせ、子どもが「なぜ?」と問いかける形で学習が成立しているのである。  学習というのは、このような対象への素朴な疑問を抱くことから始まる。『昆虫記』を書いたファーブルは、草原のアリ地獄を見つけて、「なぜ?」を発したことから研究を始めた。著名な自然科学者の中には、同様な経験から研究の道に進んだ人が少なくない。  ところが、近年の日本では、この旺盛な好奇心が、小学校から中学、高校へと進むにつれて影をひそめ、勉強は受験のために仕方なくするものになっている。そのため、勉強への動機は次第に弱くなり、受験競争が問題にされる割には勉強しておらず、生徒の学力は年々低下して、大学に入ってそれが露見するという結果を招いている。  そうなってしまった原因の一つに、自然から離れてしまった生活があるのではないか。今の子どもたちは、生の自然よりも、映像化された自然環境の中で育つ部分が多い。しかし、映像化された自然と生の自然とでは、子どもに与えるインパクトがまるで違う。映像は手で触れたり、匂いをかいでみたりすることができず、向こう側の都合ですぐに消えてしまう。そこには学習に発展するような自然との交流は生まれにくいのである。  情報化の進展は私たちの生活に大きな利便をもたらす反面、自然から人間を遠ざけてしまう問題があることを知っておく必要があるだろう。  夏休みは、子どもたちに生の自然を体験させるよい機会である。例えば野外キャンプなどで、自然の中で自力で生活する体験は、子どもたちに生涯忘れることのできないような思い出を与えてくれる。また、年齢の違った子どもたちや他の家族と一緒にキャンプをすれば、普段の学校や家庭では味わえない交流と出会いがある。親たちも子どもと一緒に参加し、自然を再発見してみてはどうだろう。自然の力で童心に帰ることができれば、子ども以上に大きな恩恵を受けるかもしれない。(一九九九年八月号) 親子サマーキャンプ 「子どもには無限の可能性がある」とか「子どもの自ら学ぶ力を伸ばす」という言葉は、戦後の教育界の金言として叫ばれ続けてきた。教師なら誰でも知っている教育の基本的な考えである。しかし、この言葉の意味を身をもって体得している教師は、そう多くはいない。まして、子どもの可能性や自ら学ぶ力を育てる指導力を持った教師は、さらに少ない。それを体得するには多年にわたって真剣に子どもと取り組んだ体験が必要だし、そうした指導技術は一朝一夕には身につかないからである。  一九九九年八月初旬、私は八ケ岳山麓の清里高原で実施された、本会会員たちの二泊三日親子サマーキャンプに参加する機会があった。三、四歳の幼児から高校生までの子どもとその母親たち総勢三十五人は、互いに見ず知らずの混成グループである。最初は何をするにも各人が勝手に行動し、集団としてのまとまりが全くなかったので、キャンプでの集団生活がどうなることやら思いやられた。  そこで私たちは、幼児五人を除いて異年齢の子どもたちを三つの班に組織し、三人の中高生を班長に指名した。これが大成功であった。班長はリーダーシップを発揮して班内をまとめ、高学年生は低学年生の世話をよく見てくれた。これでやっとキャンプでの集団生活にメドがついた。バラバラに見えた子どもの集団は組織化されることによって、たちまち生き生きとした集団に生まれ変わったのである。  班長になった子どもは、日々の行動予定やイベントの計画をよく聞きに来た。班長という責任感が芽生え、キャンプに主体的に取り組み始めたからである。ハイキングやキャンプファイアーなどの目的と実行プラン、実施上の注意事項を詳細に伝えておくと、彼らなりに準備をし、実施に際して指示がよく徹底した。子どもが主体的に動くためには、明確な目的設定と実施上の手順を分かり易く示すという、きめ細かい指導が不可欠である。  その効果は、さっそく初日の夜、野外でのカレーライス作りで現れた。班ごとにカレーライスを作ることにしたところ、子どもたちは競ってそれに参加した。大人の指示を待つのでなく、それぞれが自主的に野菜を洗い、薪を拾うなどの作業を分担してやり遂げたのである。幼児たちも小さな手で薪を拾って来ては、かまどのそばに積んだ。そこには誰一人として傍観者はいなかった。大人も顔負けの見事な協力ぶりを見せたのは、班長のリーダーシップによるところもあるが、それ以上に、夜の野外で自分たちの手で食事を作るという新鮮な体験が子どもたちを動かしたのである。  翌日は近くの森へのハイキングと四十数個のフィールドアスレチックに挑戦した。そこで私の目を驚かせたのは、幼児たちの学習意欲の旺盛さと、予想以上の学習能力の高さである。大人たちが顎を出しながらやっと登った展望台への急な坂を、幼児たちは身軽にすいすいと登って行った。フィールドアスレチックでも、三歳児には到底無理だと思われた三メートルもある高所への登はんに成功した。縄で結んだ網目に手と足をかけて徐々に登るという、的確なリーダーの指示があったからである。一度、高いハードルを越えた幼児たちは、それに続くハードルを苦もなく越えて行った。一つの問題解決が、次の問題解決を容易にしたのである。そのときの幼児の必死な表情と、成し遂げた後のはじけるような笑顔から、私は学習が成立する最も重要な鍵を教えられたような気がした。 「子どもの無限の可能性」も「自ら学ぶ力」も、子どもたちをそのまま放置しておいたのでは、現実のものとはならない。熟達した教師の熱心な指導があって、初めて無限の可能性は現実のものとなり、子どもは自ら学ぶ力を身につけるのである。また、大自然の中という環境で、異なった年齢の子どもたちが互いに協力しながら一つのことに取り組むという普段にはない体験が、子どもたちの潜在力を開放させたことも大きい。親子サマーキャンプは、子どもたち、そして母親たちにとっても、大切なことを学ぶ機会となった。もちろん、私自身にも。(一九九九年十月号)以下略 2 母として、父として  母のまなざしと父の権威  今から二十年ほど前、私がスイスのチューリッヒの街角で、近代教育の父と言われるペスタロッチの銅像に接したときの感激は、今でもはっきりと覚えている。若い教育学徒として心酔するペスタロッチの故国、スイスにぜひ行ってみたいという念願がかない、チューリッヒに着いた。さっそく街に出て、道行く二、三の若い市民に、ペスタロッチの記念館はどこにあるのか尋ねたが、誰もが「ペスタロッチ?」と言って首をかしげる。私はスイスの若い人々が、自国の誇りであるはずの世界的に偉大な教育者ペスタロッチを忘れていることに、少なからず驚いた。 しかたなく街中をうろついていると、賑やかな通りから一筋外れた裏通りで、子どもたちを慈愛のまなざしで見つめているペスタロッチの銅像に行き当たった。すぐに銅像を背景に記念の写真を撮ったが、その時の嬉しさは筆舌に尽くしがたい。  ペスタロッチの教育学説と教育実践が日本に知られるようになったのは、明治の初め、アメリカのニューヨーク州立師範学校に留学し、帰国して東京師範学校長を務めた伊沢修二、高峰秀夫の両人の力によるところが大きい。やがて、ペスタロッチは日本の教育者の理想像として全国の教師に知られるようになり、その教育学説の中心をなす「心性の開発」は、知識の詰め込みが当たり前であった日本の教育の常識を一変させた。その教育学説を平易に説いた『改正教授術』(明治十六年)には、「活発ハ児童ノ天性ナリ 動作ニ慣レシメヨ 手ヲ練習セシメヨ」と説いている。これは今日でも通用する教えである。  ペスタロッチは、スイスとフランスとの戦争で家を焼かれ、家族を失った孤児たちを集め、シュタンツで孤児院を開いた。彼は孤児たちについて、「苦悶に満ちた眼をして、邪推と心配でしわくちゃになった額をしているものも多かったし、大胆でひどく破廉恥で、乞食をしたり、偽善の振る舞いをしたり、どんな詐欺にも慣れている。また邪推深く愛情がなく、また臆病であった」と書いている。  彼はそうした孤児たちと生活を共にした。「私は彼らと共に泣き、彼らと共に笑った。彼らは世界も忘れ、シュタンツも忘れて、私と共におり、私は彼らと共におった。彼らの食べ物は私の食べ物であり、彼らの飲み物は私の飲み物であった。私は何ものも持たなかった。私は私の周囲に家庭も持たず、友もなく、召使もなく、ただ彼らだけを持っていた」とのその様子を伝えている。日本の教育者の理想像となったペスタロッチとは、孤児を微塵も差別せず、平等に扱うことに努めた無私の人であった。  ペスタロッチは、この孤児院での教育経験を通じて「よき人間教育は、居間におる母の目が毎日毎時、その子の精神状態のあらゆる変化を、確実に彼の眼と口と額から読むことを要求する。善き人間教育は、教育者の力が、純粋な、そして家庭生活全般にわたって一般的に活気を有する父の力であることを根本的に要求する」と結論している。  父のたくましい力は家族の生活を支える力であるとともに、家族に生活の規範を守らせる権威の源泉でもある。子どもはその父の力に尊敬と信頼を抱いている。ペスタロッチは、教育の両極である母性原理と父性原理がこうした緊張関係にあることが、教育的に望ましいというわけである。今日、日本の学校はいじめをはじめ登校拒否、性的非行、暴力行為など多くの問題を抱えているが、それはこの両原理の望ましい緊張関係が崩れて一方に偏しているからではないだろうか?  今年はペスタロッチ生誕二百五十年の記念の年に当たる。明治以来、ペスタロッチの精神は日本の教育精神であった。そして、これからもそうあり続けるために、日本の教師よ、いま一度ペスタロッチの墓碑銘に刻まれた最後の言葉に耳を傾けようではないか!  「すべてを他のために、己のためには何ものも」(一九九六年五月号)  幼児には手を、少年には目を 人生は、行けども行けども果てのない未知の旅のようなものだと思う。私は二人の子供を育て、一生を教育学の研究に捧げ、六年間も小学校長の経験をした。子育てや家庭教育に関する本も書いた。にもかかわらず、最近の子供の教育にかかわる出来事には理解に苦しむことが多く、改めて人間という存在の奥の深さに途方にくれるこの頃である。  先日も、文部省の九六年度調査によると、小学校で不登校(三十日以上欠席)の子供は、調査を始めた九一年度以来、最多の八万二千人になったらしい。これを全体に占める比率でいうと、小学校では五百人に一人、中学校では七十人に一人の割合に当たる。また五十日以上欠席の児童・生徒数は、三十年前の調査との比較で、全体の児童・生徒数が減少しているにもかかわらず、小学校で二・九倍、中学校で四・四倍になっている。  この不登校の原因は、いじめを含む学校生活に起因するものが約四割、不安や緊張など本人の心理的な問題が約三割、家庭に関する問題が約二割という分析が添えられているが、これは表面に現れた現象の分析であって、もっと奥深いところで学校、家庭、社会の諸要因が複雑に絡み合っているのだろう。  このほか、高校生の`理由なき反抗aも増加の一途にある。かつては、家出といえば学業不振、友人関係のもつれ、家庭の事情などそれなりに理由があったが、最近の家出の特徴は、はっきりとした原因もなく、軽い気持ちから二、三日から四、五日、家を出て外泊し、親が警察に捜索願いを出すかどうか迷っていると、ひょっこり帰宅するという形らしい。とくに九月は夏休みについた放浪癖や怠け癖の延長からか、この種の家出が多い。  私はこれまでも時々の教育の曲がり角には警告もし、改革のプランを提示してきたつもりではあったが、まさかこんなに急に日本の教育システムが破綻するとは考えてもみなかった。私の実感でいえば、ちょうどバブル景気の頃、いつも「こんなに浮ついていていいのか?」と自問自答しているうちに、バブル経済が崩壊して、一気に日本経済が奈落の底に転げ落ちた時の感じとよく似ている。つまり、破局は目に見えないところで静かに進行していて、見えるようになった時には、もう手遅れというわけである。歴史を学べば、こうした時代の流れは理解できるのだが、現実の社会の動きを的確に捉えるのは非常に難しい。  一人の子供の教育問題についても全く同じである。子供の心の中で永い時間をかけて徐々にストレスの種がふくらんでいるのだが、目に見えるまで周りの大人は気づかない。そして、目に見える形で問題が起きた時は、もう手遅れなのである。ここで指摘できるのは、現代人は見聞によって人の心の動きを知ることはできても、未然にそれを感じ取ることが下手だということである。親や教師が今日の子供のストレスを解消させてやれない原因もこのへんにあるのではなかろうか? 現代の子供が日々受けるストレスは想像を絶するほど大きい。そして、それは日々の親しい人々との愛の交流によらなければ癒されないのである。  人の子の親であれば、子供の心の動きは目で見て知るより先に心で感じ取れるはずである。幼児には、子供の身の周りをいつも清潔にし、授乳の時にはしっかりと抱き締めてやり、母と子が手をつないで眠る日々の生活が子供の心を感じ取らせる。中学生になったわが子には、口でやかましく叱るよりも、いつも慈愛の目を注いでいることが彼らとの対話になるのである。  フランスの小学校の道徳教科書に「お母さんの目」という詩が載っている。「お母さんの目は、いつも私を見ています。私がいい子でいると、お母さんの目は、やさしくほめてくれます。でも私がわがままをすると、お母さんの目は、悲しそうになります。だから、私もわがままをしないようにします」。日本の親子もこうありたいものである。お母さん、「幼児には手をかけよう、少年には目をかけよう」。(一九九七年十一月号)  褒めること、叱ること  最近、子どもの自殺が頻々と報じられている。未来のある子どもがささいなことで死を選んだと聞くと、まことに胸が痛む。そんな折に、「文藝春秋」の一九九六年四月号で佐々淳行氏の連合赤軍浅間山荘事件の回顧録を読んだ。  この事件では連合赤軍の激しい銃撃を受けて警察官二名が殉職したが、このことで本庁では、犠牲者を出さぬという方針が守られなかったとして、現場の指揮官である佐々氏の責任が問題になっている、という話が現地にまで聞こえてきた。  現場の厳しい事情を知らない本庁の無責任な声に反発した同氏は、辞職を覚悟して浅間山荘から帰郷した。警察庁に報告にも行かずに自宅に帰ると、夫人に「辞めるぞ」と言うなり、倒れ込むように寝込んだ。しばらくして、「後藤田長官から電話ですよ」という婦人の声に起こされ電話に出てみると、長官は「よくやってくれた。お礼を言います。いろいろ言う奴がいるが、気にしないでゆっくり休んでください」と言った。佐々氏は「このひと言でそれまでの苦労がすっかり消えた」と書いている。  私はこの一文を読みながら、子どもの自殺防止も同じだと思った。自殺まで思い詰めている子でも、その気持ちを親身になって分かってくれる人が一人でもいたなら、自殺はしないであろう。要は子どもと周りの人たちとの心のつながりが決め手なのである。  大の大人でも、自分の気持ちを理解してくれない周囲の声に負けると死にたくなるのだから、感情の起伏の烈しい思春期の子どもが、周囲の嫌がらせやいじめなどを苦にして自殺したいと思ったりしても不思議ではない。  ただ、幸いにも多くの子どもたちの場合は、そのこの苦しみを周りの誰かがよく理解してやっているから、かろうじて支えられている。自殺した子どもの場合は、彼なりに散々悩んだ末、周りの人たちに対してSOSを発信していたが、それを受信した大人たちと子どもとの間に、緊急度の理解に温度差があったのだ。それを敏感にキャッチした子どもは、絶望的な気持ちになってしまった。このちょっとした理解のズレが取り返しのつかない事態を招くのである。  一般的に自殺の原因のうち、引き金となる直接的な原因は別として、自殺したい心境にまで追い詰める間接的な原因には共通点がある。それは、@現実からの逃避、A自己に対する攻撃性、B忍耐力の弱さ、である。この三つはいずれも関連していて、ここから一つのタイプの子ども像が浮かび上がってくる。  まず、現実に直面する困難から逃避しがちの子どもたちである。過保護のために自我が確立されていない子どもが人格的危機にさらされたときには、自我防衛のために現実から逃避する。思春期の青少年の家出も、これと同様の心理から起きるものである。  次に、自分に自信がなく、頼りになる友達もいない子どもである。一人っ子や近所の子と遊ぶ環境にないところで育ったりしたため人間関係をうまくつくれない。三番目には、欲求不満に耐えるしつけが十分になされていないため、我慢ができない子どもである。 このようなタイプの子どもは、どこでも見かけることができる。自殺への誘因を持っている子どもは、大人が想像するより以上に広く存在するわけである。ここから、最近の子どもがちょっとしたきっかけで衝動的に自殺するという理由が理解されよう。 そこで、子どもの自殺防止策であるが、子どもとの触れ合いを蜜にして、自殺のチャンスを与えないようにするとか、子どもを追い詰めるいじめなどをなくす努力が必要である。それとともに、優しいだけでなく、心の強い子どもに育てることだ。それには、子どもが目標を持って努力し、それを達成したときにはしっかり褒めてやり、子どもが我慢すべき苦しみを避けたりするときには「逃げてはいけない」と厳しく叱ってやることである。褒めることと叱ることの上手な使い分けが、自殺に強い子どもを育てるのである。(一九九六年六月号)  子どもは心に「母」を宿して育つ  以前、「働く女性と育児」というテーマの専門家会議に出席したことがある。若手の女性論客が多く、「女性の自立には職業に就くのが望ましく、育児のためにそれを犠牲にすべきではない。国は女性が安心して働けるよう、保育所を充実すべきだ」という論調が主流であった。私は幼児の心身の発達という観点から、二、三歳までは、できるだけ母親と一緒にいるのが望ましいという持論だったから、そのホットな議論に少々当惑していた。  尊敬していた幼児教育の大家も出席していたので、私は彼女の発言で議論が冷静になるのを期待した。しかし、「幼児には誰かがそばにいてやることが必要ですが、それは必ずしも母親でなければならないというわけではありません」という発言に、すっかり失望した記憶がある。私は他人が母親の代わりをするのは本質的に不自然だと考えていたので、「でも、子どもは馴れない人に世話されても満足しないのでは? やはり、生みの母親でなければ…」と恐る恐る問い返すと、「それは母親のほうがいいに決まっていますが、母親でなければだめと思うのは日本の男性の郷愁でしょう」と軽くいなされてしまった。  郷愁――なるほど、確かにそうかも知れない。私は生まれ故郷の大阪に行くと、今でも必ず、母親と一緒に「七宮詣り」をしたコースを訪ね歩く。歩きながら、幼い日の母との思い出に浸るひと時が至上の楽しみなのである。こうした、私の子としての経験から言えば、他人が母親の代わりをつとめ得るという意見にはとても賛成できない。  確かに、母親代わりの人も、子どもに食事を与え、身の回りの世話をすることで、外見上は母親と同じように育てることはできるだろう。しかし、他人の子どもの心まで育てることは難しい。なぜなら、幼くても子どもは母親と他人との区別はきちんとつくし、実の母親のようにきめ細かい愛情で心を満たしてくれることは、他人には難しいからである。  小学生の頃、「ただいま!」と勢いよく玄関の戸を開けた時、いつもの「お帰り」という母の声がなく、し〜んと静まり返っている家の中に入った時のさびしさは忘れられない。こうした日が続くと、子どもの心は空虚になり、心の中の「母」の像は次第に薄れていく。平凡なことのようではあるが、いつもわが子を「行ってらっしゃい!」と見送り、「お帰り!」と笑顔で迎えることが、子どもの心に母の像を確実に刻み込んでいくのである。そして、心の中にどれだけ母の像を持っているかは、その後の子どもの成育に大きな影響を及ぼす。 敗戦直後、まだ男尊女卑の観念が強く残っていた頃、大学で物理の教授から、「キュリー夫人のような素晴らしい女性に出会うことの少ない日本の男性は不幸だ」という話を、新鮮な思いで聞いたことがある。当時、キュリー夫人は理想の女性像で、私も伝記を読み、物理学者として、科学者の妻として、そして娘の母親としての立派さに圧倒された記憶がある。  しかし、正直に言えば、当時の私にはキュリー夫人のような知性に輝く聡明な女性が母親というのは、まぶしすぎる感じだった。子どもにとっての母には、学歴や社会的地位は問題でなく、それよりも、いつも自分のそばにいて、何かとやさしく語りかけてくれるほうが大切である。多感な少年時代に、胸に秘められた母の像は、自分を犠牲にしてまでも一途にわが子の幸せを祈る真摯な女性の姿で、孤独のさびしさに苦悩する時には、そこに心の癒しを求めた。  心の中に母の像を鮮明に宿している子どもは、孤独やストレスに耐える力があるから、非行に走ることも少ない。万一、非行に走っても、母親の悲しむ顔を思い浮べると、すぐに立ち直る。私は、病床にいた私のかたわらで、内職の編物をしながら、いろいろな話を聞かせてくれた母が懐かしい。寒い冬の朝も、早くからかまどの火をつけ、神棚に水と灯明をあげて、黙々と家族の無事を祈っていた母の姿が刻み込まれている。この母の像が今でも私を見守ってくれているのであり、私の心の支えである。(一九九八年六月号)  心が響き合っているか  久しぶりに日本映画を見て、涙が止まらなかった。高倉健主演の「鉄道員(ぽっぽや)」は、北海道の寒村の駅で四十五年間、制帽を目深にかぶり、背筋を伸ばして極寒のプラットホームに立ち続けた鉄道員の物語である。ひたむきに北の大地の生命線を守る主人公の姿は、一人娘を亡くした日にも、苦労を共にしてきた妻が死んだ日にも、駅に見られた……というストーリーが展開する。  季節はめぐり、世の中が激しく変わって行く中で、定時に列車を迎え、見送る主人公の日々は、いささかも変わらなかった。そして、やがて自らの人生の最終列車を迎えることになった主人公の前に、一人の少女が現れる。 共感を覚えたのは、単調な生活の重さに耐えて生きていく人間の姿を、淡々と描いている点である。年配の観客は、仕事一筋に生きてきた無口で不器用な男の姿に、自分が歩んできた人生の日々を重ね合わせて涙する。「無能無才にして、此一筋につながって」(芭蕉)生きてきたという感慨を禁じ得ないのである。  子どもの頃から何一つ不自由なく、豊かな日々を気ままに生きてきた若い世代には、単調な生活は遠い昔のおとぎ話としか思えないらしい。最愛の家族の死すら看取ることができない生き方にも、抵抗があるようだ。それでも主人公のかもしだす男の哀愁が、若者たちの乾いた心に一種の感動を残したことも事実のようだ。  今日の若者たちは、理屈で固められたものには強い拒否感を示すが、ハートに触れるものには、他愛なくめろめろになる。他人からあれこれ言われるのが大嫌いという人間嫌いだが、心に触れ合うような人とのつながりを確かめずにはいられない、さびしがりやでもある。私は映画を見ながら、「私たちは子どもとの付き合い方を間違えていたのではなかったか?」と反省しきりだった。  大人は子どもと会話を交わすよう努力するのだが、どうもそれは心に響き合うようなかかわりではない。子どもが問題を起こすと、親も教師も驚いて「なぜだ」と迫るのだが、理由が明白になることは少なく、結果的には子どもの心を貝にしてしまう。子どもたちは、まず心が溶け合うプロセスをへて初めて話を交わせる状況が生まれる。  文部省は「よくわかる授業」を教師に求めているが、教師と生徒との心が響き合うような授業には言及していない。そして多くの中高生が、教科学習を受験のための必要悪としか認めないような状況にある。ひょっとして、教師の側にも教えることの感動が失われているのではないか。そのつけが大学に回ってきている。  今春、小学校の新入生のクラスで、授業中に子どもたちが勝手に立ち歩き、隣の子とおしゃべりをする、「学級崩壊」の実態がテレビで見て、愕然とした。教師は、「入学する前のしつけがまったくできていない」とこぼす。確かにその点には同情できるのだが、教師の方にも、学級という学習生活の共同体をつくり上げる力が欠けているのではないかと思われる。つまり、教師と生徒、生徒と生徒との心が響き合うような集団づくりである。  芭蕉は「心花にあらざる時は鳥獣に類す」とも言っている。乾いた心から発せられる無機質な言葉の氾濫が、子どもの心を鳥獣に類したものにしているのではないだろうか。  子どもとの絆を取り戻すには、ペスタロッチの実践に学ぶことから出直すしかないのかも知れない。ペスタロッチは孤児院の中で孤児たちと共に暮らした。そして、「私は彼らと共に泣き、彼らと共に笑った」という生活が、教育の原点であると教えている。  日本がまだ貧しかった時代、親は子どもと言葉を交わす時間もないほどに朝から晩まで働き続けていたが、あの鉄道員と娘のように、心は不思議に結ばれていた。この豊かな時代、一つ屋根の下に暮らしていても、果たして親は子どもと「共に」いるのだろうか?(一九九九年七月号)  いじめに母の慈愛と教師の勇気を  いじめにあった中学生が遺書を残して自殺する事件が後を絶たない。教育にかかわる者として、まことに胸の痛む出来事である。その防止策についてはさまざまな立場からの意見が述べられている。学者はカウンセリングの必要を説いて専任のカウンセラーを増員し各学校に配置すべきであると言い、文部省も全国の都道府県の教育委員長を集めて、教師は何を差し置いてでも生徒とよく触れ合い、話し合うようにと要請している。教育長たちは教師が多忙で生徒と触れ合う余裕がないので、教師の定員を増やして欲しいと言う。どれもその立場から真剣に考えられた提案だと思うが、どうもこれが決め手だと感心するものはないようだ。  いじめを考える場合、@思春期の特性に留意する、A理屈ではなく感情の歪みが問題の核心であること、B個人の生き方の問題であるとともに仲間集団内での対人関係の問題であること、などが問題解決の鍵を握っているのだが、この点が意外に軽視されている。 思春期の特性は、この時期は大人とのかかわりを嫌がり、仲間内の自治を大切にするという心理的特性をもっている。どんなにつらいいじめがあっても、被害者はいじめの事実を大人に隠したがるし、傍観者も外部に話すことはしない。仲間内のいじめを大人に話すことは仲間の信頼を裏切ることになるからだ。だから、これまでのいじめのケースが示すように、教師がいじめの事実をすべてにわたってつかむことは困難なのである。このことを前提にした対策が大切で、子どもが困って相談に来るのを待っている発想ではいけない。  隠したがるいじめの事実を一番よく察知できるのは、やはり子どもの身近にいる母親ではないだろうか? これまでのケースでも、母親からわが子がいじめられているのではないか? という訴えが学校にあったのに、学校がそれを軽視して適切な対策を講じなかったことがある。そのときの学校の対応には問題があるが、母親も一人で胸を痛めているだけでなく、子どもに真剣に向かい合い、躊躇する夫を動かし、子どもの友達を尋ね回り、教師にも力を求めるなど、もっと必死の思いでわが子のいじめに立ち向かってほしい。  私事で恐縮だが、私が中学生の頃は戦時中のことで、当時の中学生は皆、陸軍士官学校や海軍兵学校など軍隊の学校を志願するのが夢であり、そこに行けないのは肩身が狭かった。ところが、私は体格がいいのに、視力が弱いために軍隊の学校には志願できない始末であった。これは運命でどうしようもないことなのだが、その時の私はただ腹立たしく、家庭内で口もきかず数日間、朝晩にハンストをしていた。何が不満なのか言わずにすねているのだから、親もどうしてよいのか分からず、困ったことに違いなに。ところが、私のほうは母親がはらはらするのを見て、ますますすねて見せるのである。こんな日が数日、続いた後、母は思うに余ったのであろう、とうとう私の前に身を投げ出して、泣きながら「なにが不満でご飯を食べずにすねているの? 私はどうしていいか分からない」と言って真剣な顔で私に訴えたのである。母親が泣くところなどいまだかつて見たことがなかったし、まして子どもに向かって泣くなどということは思いもしなかった。それだけに母親の必死の訴えを聞いて、こんなに母親を心配させた自分を深く責めた。  母親は私をつれて、その足で担任教師の私宅に行き、心配を打ち明けた。その教師は「兵隊にならなくても、いくらでもお国のために尽くすことはできる。消耗品になる生き方は賛成できないよ」と言った。当時、教師が戦争に批判的ともとれるこのような言い方をすることは、どんなに危険かは言うまでもない。この一言で私はつき物が落ちたような気がした。  私はこの母とこの教師を持ったことを生涯の誇りにしている。今、いじめに対して求められているのは、こうした母親の必死の愛情であり、教師の勇気ではないだろうか?(一九九六年四月号)  絆は努力して強まる  一九九八年の暮れ、楽しいクリスマスを前にして、また一人、茨城県の中学一年生がいじめを苦に自殺した。続いて大阪の寝屋川市で、中学三年生が独り暮らしの老婆を遊ぶ金欲しさにナイフで刺殺する事件が起きた。いじめによる自殺といい、ナイフ殺人といい、昨年の青少年の問題行動を象徴する事件であった。  青少年の自殺や暴力行為は、文部省をはじめ全国の学校での教師たちの努力にもかかわらず、一向に跡を絶たない。問題行動の背景に共通して見えてくるのは、家族や教師、友人など彼らを取り巻く人間関係から疎外された、孤独な青少年の姿である。  いじめに一人悩み苦しみながら、親にも打ち明けられないで自らの生命を断っていく子どもの心を思いやると、あわれでならない。まして、わが子のためならどんなことをしてでも助けたいと思っている親にしてみれば、共に暮らしながら、わが子の苦しみを察知できなかった自分の愚かさを悔しく思うに違いない。それにしても、「親子の絆というものは、こんなにももろく、はかないものなのか?」と思い知らされるのである。  しかし私は、人間の絆はしょせんはもろく、はかないものだという恐れを抱きながら、日々その絆を確かめ合うのが、生きるということではないかと思う。ところが、親子や夫婦の絆は切っても切れないものだと安心し切っているため、日常生活でその努力を怠りがちに過ごしていることが多い。そうしたマンネリが続くと、切れるはずのない絆も、ある日突然切れてしまうのである。  このことは男女の関係で考えるとよくわかる。恋愛中の男女は、常にその絆が切れる可能性に不安を感じているから、電話をかけたりプレゼントを交換したり、互いの愛を確かめずにはいられない。ところが結婚して夫婦になると、愛をささやくことも怠りがちになる。日常生活でつながっているから、もうこの絆は切れることがないと安心しているのである。すると、ある日突然、破局の悲劇に見舞われてしまう。  親子の絆は夫婦以上に切っても切れない血のつながりである、という安心感があるとすればそれは親の過信である。子どもの方からいえば、いずれ自分は親から独立するものだと思っている。だからこそ夫婦の絆以上に切れやすい。夫婦にしろ親子にしろ、絶えずその絆を強め合う努力が欠かせないのである。  九八年の晩秋、私は「不就学と高校中退」をテーマにしたシンポジウムに参加した。そこには、不就学児や高校中退生を持つ父母たちが、いちるの希望を求めて集まっていた。会場には緊迫感がただよい、聴衆は必死の思いで鋭い質問を投げかけ、パネラーも責任のある回答をしようとていねいに答えていた。それでも、集まった父母たちの期待に添えるような、具体的な解決法が提示できるわけはなかった。  現状では、これからも重荷に耐えていく強い愛の心が、父母たちには求められている。私は最後のまとめとして、次のように語った。「たとえ、学校や教育委員会が見放すようなことがあっても、ご両親だけは最後まで子どもを理解し、支えてやってほしい」  昔から、母はわが子のために捨て身の行動をとることを恐れなかった。岩波書店の創設者・岩波茂雄は、高校時代に人生に絶望し、信州野尻湖に浮かんでいる島に一人で四十日間、隠れ住んだことがあった。ある風雨が激しく荒れた深夜、ふと雨戸の隙間がボーッと明るくなったかと思うと、黒い人影が入ってきた。驚いて起きてみると、そこにびしょ濡れになった彼の母が立っていたのである。母は茂雄が自殺するのを心配して、無理を頼んで船頭に船を出してもらったという。  後に母に宛てた手紙に、茂雄は「小生はいかに世を厭い、神仏を信ずることができなくても、また事業に失敗し、愛を失っても、母上様あらんかぎり、妹よしののあらんかぎり、決して、決して死することはいたさず……」と書いている。この母の捨て身の愛こそ、子どもを自殺や非行から救い出す決め手なのである。(一九九九年二月号)  虎の子育てに学んだこと  サッカーW杯予選では、日本が劇的な逆転勝利でフランス行きの切符を手に入れ、まずはよかった。しかし、予選を通じて痛感したのは、日本選手の基礎体力が他国選手に比べて見劣りすることである。ゲーム開始後の最初の三十分くらいまでは日本選手はスマートな試合運びで動き回り、必ず先制点をとっている。ところが、後半になるとがたっと運動量が落ちてしまう。これは選手の基礎体力の養成に問題があるからではないか?  これはスポーツだけでなく、子どもを育てる上でも考えるべきことである。福沢諭吉は子育てについて「まず獣身を成して後に人心を養う」と説いている。人間も生物体としては動物と変わらないのだから、まず、動物と同じような頑強な身体と鋭敏な感覚、俊敏な運動能力を身につけることに努め、その後、学校に入るころから、人間にふさわしい知性や感情(人としての心)を育てるという意味である。これは幼児教育論としても一見識のある意見であり、深い意味が込められているように思う。  しかし、残念ながら、今日の子育てはこれと逆で、幼児のころから数や文字を教える幼稚園に人気がある。中には幼稚園に入園するのに受験勉強までさせる親もあるという。これでは遊びの中でのびのびと学んでいくのが本性の子どもがストレスで苦しむのも当然である。幼児には、数や文字を教える前に母親がしてやるべきことが沢山ある。  今年は寅年だが、先日、元上野動物園長の中川志郎さんに虎の子育ての話を聞いた。それによると、赤ちゃん虎は母乳を吸うために母虎の乳房を手で揉むのだが、最初は手の爪をたてているので、母虎が痛がって赤ちゃん虎を足でけってしまう。赤ちゃん虎は乳を吸いたい一心で、また母親の乳房を揉む。そしてまた母虎にけられてしまう。こうしたことのくり返しの中で、赤ちゃん虎は手の爪をたてないで母虎の乳房を揉み、母乳を吸う要領を会得するらしい。そして、仲間の子虎とじゃれて遊ぶ時にも手の爪をたてないで遊べるようになる。ここには自然の本能によるしつけが見事になされている。  ところが、赤ちゃんの時から動物園で飼育されていて、牛乳で育った子虎は手の爪をたてないで遊ぶことを知らないので、仲間から遊んで貰えないらしい。  この話からすぐピンときたのは、子どもの「いじめ」である。いじめも牛乳で育った子虎のように、母親や兄弟から遊び方を教えられなかった子どもに多いのではないか? ということである。私は最近の子どものいじめや暴力について、生物としての「ヒト」の成育のレベルで私たちが見逃してきた大切な要因があるのではないか? という仮説をひそかに抱いていたから、中川さんの話は興味深かった。  中川さんの話はさらに続く。哺乳類の母親は生後間もない赤ちゃんの全身を舐め回して、最後にお尻までていねいに舐めてやるそうだ。母親がその刺激を与えることで、赤ちゃんの排泄機能が働き始めるのである。  昔から「舐犢(しとく)の愛」といって、母親が子を深く愛する様子を母牛が子牛を舐め愛することにたとえてきたが、それは単なるたとえではなく、母牛にとっては合目的的な行為であることを知って驚いた。以前にも小児科医から、新生児を分娩した産婦は、新生児の産声を聞いた瞬間に急激に母性ホルモンが増加して乳房が張り出し、新生児が乳房に吸いつく時に、その刺激を受けて母乳がほとばしり出るという話を聞いたことがある。  以上のことから、哺乳類であるヒトにとっても、母子関係で重要なのは、幼児期における母と子のスキンシップであることがわかる。そして福沢のいう「人心を養う」ところまでいくためには、人と人との心をつなぐ言葉が大切な働きをする。とりわけ、母親の語りかけた言葉は子どもの心に深く吸い込まれていく。 「燈火近く、衣縫う母は、春の遊びの楽しさ語る。いろり火はとろとろ、外は吹雪」と歌われた家庭の団欒こそ、子どもの心を養うかけがえのない原点なのである。(一九九八年一月号)  父親はどこにいるのか? 庭に萩の花が咲き、朝夕吹いてくる風が秋を伝える頃になると、私は向井去来の「秋風や 白木の弓に 弦張らん」という句を思い出す。そして、暑さにかまけて怠惰に過ごした夏の生活と訣別し、心機一転、これから頑張ろうと気持ちを引き締めるのである。武士であった去来が、秋の訪れとともに自分の気持ちを引き締めようと、武士の表芸である弓をとって「弦張らん」と言い切ったところに、自らを律する厳しさが伝わってくる。  今夏、嵯峨野にある落柿舎(去来の庵)を訪れ、その簡素なたたずまいに去来の古武士の面影を偲んだ。芭蕉もここに遊んで「清閑を楽しむ」と日記に記している。  日本は一年の間に四季が巡ってきて、折々の自然が我々の日常生活に微妙なバラエティを添えてくれる。そこに生きる人々は、「行雲流水」というように、自然の運行のままに流れるように自然体で生きることを理想とする。しかし、自然に従いつつも、その中でただ流されるだけでなく、去来のように「折り目正しく」、「けじめをつける」という人間の主体的な働きが求められる。歌舞伎や能の舞台でも、自然に流れるような場面と、その流れを一旦止めて節目をつけ、見栄を張る場面とがある。つまり、自然の流れの中に身を置いても、受け身になって流されるだけではなく、その流れを折り目をつけてとらえ返すことが大切なのである。  科学技術万能の時代に生きる現代人は知の働きを重視するあまり、とかく意や情の働きを軽視しがちだが、日常生活の経験では、むしろ我々の行動は情の働きに動かされるところが多く、「わかっちゃいるけどやめられない」とか「恋は思案の外」というように、一度情が動き出すと、これを知の働きで制止させることは難しい。  とりわけ、物欲、色欲、名誉欲など欲望に絡んだ情動は人間の本能に根ざしたものだけに強烈である。志操堅固と見えた立派な人でも、こうした欲望に負けて人生を踏み外す例は枚挙にいとまがない。この不覚の一瞬を人々はよく「悪魔に魅入られた」というが、人間の心は自分でもわからないような行動をとる怖さがあることを知らねばならない。  この猛烈な情の働きを制御できるのは強固な意志の働きのみであって、それは日頃から衣食住のすべてにわたって自己の欲望を節する簡素な生活の中で育成される。昔の武士はいついかなる時でも、とっさに一身を犠牲にして公に尽くす心の用意ができていなければならなかったから、生活はできるだけ簡素を旨とした。ものへの執着心がとっさの判断を鈍らせることを恐れたのである。  このように、いつ何時でもとっさの行動が正しくとれるためには日頃からの不断の意志と身体の鍛錬がものをいう。昔の武士ばかりでなく現代人にも、阪神大震災のように突然、緊急事態が発生するような危険は常につきまとっている。  戦前の教科書には、乃木大将が幼少の頃、冬の寒い日に「寒い、寒い」を連発して縮こまっていた時、大将の父が「寒ければ暖かくしてやろう」と言って、大将を雪の降る井戸端に連れて行き、頭から井戸水を浴びせたという話が載っていた。  私の父も当時の父親が皆そうであったように、私を厳しい鍛錬主義でしつけた。雨が降ろうが、雪が降ろうが、父は私に毎朝、家の周りを掃除することを課した。なまけ者の私は、寒い朝などは時折、ちりとりと箒を持って、ただ申し訳的に家の周囲を一周して掃除をすませたことにした。しかし、父の目は万事お見通しで、そうした時に限って、必ず父は私に掃除のやり直しを命じたのである。だから、私は子ども心にも「父の目はごまかせない」と観念したものであった。  今日の家庭で最も欠けているのは、こうした「父性」である。両親は自信を持って子どもに物事の善悪をはっきりと教え、子どもが欲望や怠惰のために流されようとした時に、踏みとどまることのできる強い意志を育てなければならない。その責任の第一は父親にある。(一九九七年十月号)  父の最大の遺産  一九九六年の夏、O105の猛威に日本国中が震え上がった。政府・地方自治体・医療期間などの対応を見ていると、これが科学技術先進国かと疑いたくなるほどスローモーで、感染があっという間に全国に広がってしまってから、おもむろに対策会議を開き、言われなくても分かる程度の予防対策を発表する始末だった。これでは阪神大震災や血液製剤事件のときの役所の対応と何も変わっていない。しかも、事柄が直接に自分の家族の生命にかかわる問題だけに深刻で、こうなると自分や家族の安全を守れるのは唯一家庭だけということになる。我々はノアの方舟に乗ったような気持ちで「世界がどうなろうと、わが家庭だけは生き残って見せるぞ!」という悲壮な決意すら固めざるを得ない状況だ。(多少オーバーかな?)  家庭といえば、結婚式のスピーチで、二人の門出を祝して「二人で協力してよき家庭を築かれますように」という言葉で締めくくる。しかし、何気なく「よき家庭を築く」と語っているが、この意味を深く考えたことがあるだろうか? まず、一体「よき家庭」とはどんな家庭だろうか? 誰が、どのようにすれば出来るのだろうか? などなど考えれば考えるほど、これは容易なことではないと分かってくる。  イギリス人には「家庭は城」という観念がある。家庭は家族を外敵から守る運命共同体の城であり、同時に他人がのぞき見ることすら許さない家族だけの団欒の場であるという。「ホーム スイート ホーム」(埴生の宿)が生まれたお国柄である。公的生活で成功しても家族を守ることが出来ず、家庭を不幸に陥れる人は尊敬されない。どんなに偉大な業績を残したとしても「よき夫であり、尊敬すべき父である」ことに失格したのでは、真に幸せな人生を全うしたことにはならない。主婦のみならず、夫であり、父である男性にとっても「愛にあふれた家庭」こそ彼が誇りとする生涯の傑作なのである。  ひるがえって日本では「家庭は港」と考えられているのではないだろか? 船が荒天の海を乗り切ってやっと港に戻ってしばしの憩いを求めるように、家庭は社会の荒波に悪戦苦闘した男性が憩いを求めて戻ってくる母港のようなもの。だから、家族にとって「心の休まる憩いの家庭」をつくるのが妻であり、母である女性の誇りとする生涯の傑作なのである。ところが最近では、主婦の社会進出が増える傾向から、家族が家に帰っても暖かく迎えてくれる人がいないことが多い。これでは家はねぐらではあっても心の休まる母港ではない。  家庭は家族が集まっていっしょにしていれば自然に出来るものではない。そこには、共通の生活規範または信条(信仰)が基礎になっていなければならない。私の母は終戦直後の生活の苦しい時期に、手術後の回復過程で風邪にかかり、急逝した。父が病床の母を見舞い、枕元に座っていると、母は父に「阿弥陀経」を唱えてほしいと言った。夫婦で静かに唱和しているうちに、母の声がしなくなったことに気づいた父が驚いて母を見ると、既に母は安らかな顔で息を引き取っていたという。この母の美しい死に際は、当時、旧制中学生だった私の人生観に大きな影響を与えた。  私たち兄弟は子どものときから朝夕必ず仏前に座らされ、父の読経に唱和するのが日課になっていた。食事のときも感謝の言葉を唱和してから頂くことになっていた。父の読経は坊さんの読経のように節をつけて読むのではなく、ほとんど棒読みに近いものだが、毎日のことだから家族は誰でもお経を暗記してしまった。  父が他界して既に八年になるが、今でも春秋の彼岸や盆、命日などの墓参りには、残った家族が集まって法事をする。回忌のとき以外は特に坊さんに来てもらうこともなく、皆で「阿弥陀経」か「般若心経」を唱和する。今ではこれが、それぞれ独立して離れ離れになった家族の唯一の絆となっている。私はこれこそ父が私たち兄弟に残してくれた最も大きな遺産だと思っている。(一九九六年九月号) 3 人間の原点  天草のキリシタン  日本の歴史をひもとくと、キリスト教はいつも欧米の先進的文化と一緒にやって来た異国の教えであった。フランシスコ・ザビエルが来た時、初めて日本人は唐、天竺の先に優れた近代的な文化を持ったヨーロッパという世界があることを知った。つまり、この時が日本とヨーロッパとの最初の出会いだったのである。  明治になって、プロテスタントがやって来た時も、欧米の文明開化を伴っていた。島崎藤村の『桜の実の熟する頃』には、そうした高い文化の香りとともに来た異国の教えに心をひかれた明治の青年群像が描かれている。  飢えと貧困に苦しんだ戦後の日本では、キリスト教はテレビ、冷蔵庫、自家用車などのアメリカ式生活の豊かさと一緒にやって来た。子どもの頃、クリスマスに教会に行くと、味わったこともないチョコレートやクッキーをもらって嬉しかったのを覚えている。  だから日本人は、キリスト教の神による心の癒しよりも、色鮮やかなステンドグラスや荘重なパイプオルガンの音、賛美歌のコーラスなどがかもし出す異国風の文化にひかれたのである。こうした歴史的な経緯から、日本のキリスト教は長崎、函館、横浜など港町から広まり、都会のインテリと結びついて発展してきた。  そうした中、三百年も前から日本の片隅で、厳しい弾圧の下、民衆とともにひっそり生き続けてきたもう一つのキリスト教があった。それが長崎や天草のキリシタンである。  一九九八年七月初旬、私は熊本へ講演に行った折、会員の菊池さんの好意で天草を訪ねた。二十年前、長崎や島原半島のキリシタンの遺跡を歩いた時は、旅程の都合で天草まで足をのばすのを断念した。それだけに、多年の想いがかなえられた心楽しい旅であった。  天草には、大矢野島、上島、下島という三つの主なる島とその他の島がある。キリシタン殉教の史跡は全島に散在しているが、とくに下島に多い。その中心地は本渡市である。市街を一望できる小高い丘に殉教公園があり、天草の乱の戦死者の塚を集めて建てた殉教千人塚がひっそりと立っている。  天草切支丹館では数ある貴重な資料の中、ひときわ目についたのは、天草四郎の陣中旗である。一メートルの方形の布地で、上部にポルトガル語で「いとも尊き聖体の秘蹟ほめ奉れ給え」と書かれており、中央にはぶどう酒を盛った聖杯と、その上に円形のパンの中に十字架を描き、二人の天使がひざまずいている図になっている。三百年前、島原の乱で、この聖旗の下、十二万の幕府軍と孤軍奮闘した信徒たちの心情を思うと、感慨もひとしおであった。その島原城跡と海を隔ててほど近くにある下島の西海岸は、とくに「天草松島」といわれるほど美しい景色が続く。そして、そこに古くからキリシタンの里として知られている崎津、大江の地がある。  明治四十年八月、与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の五人の青年詩人がはるばるこの地を訪ねている。そこで、若い詩魂は、信仰に殉じた信徒の清純な生き方に触れて、深い感動に震えた。彼らの目的の一つは、早くからこの地に来て、伝道しているガルニエ神父を訪ねることであった。文明からはるか隔絶した草深い南の島の一角で、生涯かけて伝道に尽くす異人宣教師の生きざまは、多感な若者の感動を呼んだ。  昭和八年、ガルニエ神父の私財を投じた白亜の天主堂が完成し、その傍らで神父は天主堂の行く末を見守るかのように静かに眠っておられる。私は、異国の地に生涯を捧げられたガルニエ神父の像の前に立ち、深く頭を垂れた。  その大江の天主堂から少し離れたところに崎津の天主堂がある。あたりには漁村特有の磯の香が漂い、船着場には大小の漁船が静かに泊まっていた。家々の屋根の上から、天主堂の十字架がひっそりと立っているのが見えた。それは三百年も前から立っていたかのように錯覚するほど、見事に漁村の景観にとけこんでいた。私は、ここに天草のキリシタンを見たような気がして、しばらく立ち尽くしていた。(一九九八年九月号)  一粒の麦の尊さ  一九九九年四月の末、日頃いっしょに勉強している会員らと信州に出かけた。松本市にある重要文化財の旧開智学校を見学し、近くの穂高町にある私学校「研成義塾」の創立者、井口喜源治の記念館と碌山美術館を訪ねる小さな旅である。  開智学校は明治六年に創立され、同九年に建造された、わが国最古の洋風近代学校。旧筑摩県学として創立された同校は、望楼風の塔を中心に、玄関上にバルコニーのあるモダンな洋風建築である。当時の新聞は、同校が打ち鳴らす鐘の音が文明開化のシンボルのように松本平にこだました、と伝えている。  これを建てるに当たって、地元の大工の棟梁は上京し、開成学校(東京大学の前身)などを見て回り参考にしたという。近代的な建築学の助けを借りずに、見事に洋風学校を完成させた日本の職人の知的能力の高さと執念に、改めて感動させられた。  展示の中に、幼児を背負った`おしんaのような少女たちが輪になって授業を受けている写真があった。同校に併設されていた「子守教育所」である。そのそばに、「先生やご主人様のおかげで学校を卒業できるご恩は一生忘れません」という卒業式での答辞があった。それを見た会員の一人は、胸の詰まるような思いになり、「涙が出てきた」と話し合っていた。 穂高町にある井口喜源治記念館には、彼によって創立された研成義塾の関係史料が展示されている。井口は、県立松本尋常中学校在学中、英語教師で婦人宣教師でもあったエルマーによってキリスト教に開眼した。その後、内村鑑三に会って一層その信仰を深めた。明治三十一年に十五、六名の青年を集めて創立した研成義塾の目的は、「地方青年子女のために好学の気風を養う」とするもので、その目指すところは「文明風村塾」であると述べている。 その教育内容は、@吾塾は家庭的ならんことを期す、A吾塾は感化を永遠に期す、B吾塾は天賦の特性を発達せしめんことを期す、C吾塾は宗派の如何に干渉せず、D吾塾は新旧思想の調和を期す、E吾塾は社会との連携に注意す、という六つの目標に示されている。この裏には、明治以降の近代学校の教育が官僚的、画一的で、かつ知識の伝達に終始しているという彼の批判がこめられている。そして、近代的な知識の教授を重視しながらも、以前の村塾がもっていた家庭的な温かみのある雰囲気の中で人格的な感化に力を注ぎ、一人ひとりの個性を伸ばす塾教育の長所を活用するとしたのである。  昭和七年まで続いた学校の出身者総数は六百余名を数え、その中には、荻原碌山(彫刻家)、清沢冽(『暗黒日記』の著者で戦時中、戦争反対を貫いたジャーナリスト)、手塚縫蔵(小学校教員で信州教育の精神的指導者の一人)、松岡弘(小学校教員で信濃教育会の会長を永く務めた)などがおり、塾の支援者には、相馬愛蔵・黒光夫妻(新宿・中村屋の創業者)、木下尚江(日本初の社会主義小説『火の柱』の著者)などがいる。  さらに注目すべきは、この信州の片隅から、世界市民の理想をもって農業移民として北米に移住した青年たちがいる。彼らはさまざまな困難を乗り越えて生活の基盤を築き、シアトル日本人会の先駆者となったのである。私は一人の教師によってまかれた一粒の麦の尊さを、改めて教えられた気がした。  内村鑑三はこの研成義塾の教育について、「慶應義塾とか早稲田専門学校とかいうような私学に較べてみたならば、実に見る影もないが、これを維持する精神は万水の水よりも清いものである」と激賞している。  陳列品の中に古びた一冊の聖書があった。井口の愛用したもので、見ると各頁の余白に細かい字でびっしりと彼の所感や解釈が書き込まれている。彼が日々心血を注いで聖書と格闘していた証である。私は教育者のあり方を改めて教えられた。(一九九九年六月号)  良寛と貞心尼 良寛といえば、「この里に手まりつきつつ子どもらと 遊ぶ春日は暮れずともよし」の歌のように、子ども好きの童心のような心をもった人というイメージが一般的です。しかし、それは孤独に徹して終生自己と向かい合った人生の中から鍛え上げられた、良寛の人格の自然な流露なのです。天衣無縫、奔放自在に書かれた良寛の書にも、長い冬籠りの生活の中で人知れず独りで続けた練習が秘められているのです。厳しい自己鍛錬によって磨き上げられた人格であるにもかかわらず、外見上は少しもその痕跡がなく、幼子のような純粋さを終生持ち続けたところに、良寛の真の偉大さがあるのではないでしょうか? 良寛が生まれ、育ち、修業の後に住みついた新潟県の出雲崎や国上山の五合庵は、長い冬には日本海から吹きつける身を切られるような寒風と丈余の大雪が降る厳しい地方です。良寛はこうした冬の長い夜を、じっと独り仏書を読み、自己との対話をしながら心を鍛錬してきたのです。 私の好きな良寛の詩に「冬夜長」というのがあります。その最初の一節は「冬夜長し、冬夜長し、冬夜悠々 いずれの時か明けん。燈に焔無く 炉に炭無し 只、聞く 枕上 夜雨の声」というのです。冬の長い夜、人跡途絶えた山の茅葺きの粗末な庵室で燈火も無く、炉の炭火も消えた中で、日本海から吹きつける寒風の飄々となる音を黙然と聞き入っている孤独の人、良寛の姿を想像すると、ある種の凄みすら感じます。 この冬夜の孤独な修業が良寛の歌に見る春の到来への歓喜となり、言うに言えない人懐かしさの情となって表れているのだと思います。 この詩と一緒に思い起こされるのは「読永平録」という詩の最後の一節です。 「一夜 燈前 涙留まらず 湿ひ尽くす 永平古仏録 翌日 隣翁 草庵に来たり 我に問ふ 此の書 何に因ってか湿ひたるやと。道はんと欲して道はず、意転た労す。意転た労するも 低頭やや久しうして 一語を得たり 夜来の雨漏 書笈を湿すと」 (一夜、燈の前で永平古仏録を読んでいると、涙が出て止まらず、とうとう本を濡らしてしまった。翌日、隣の翁が草庵に来て、どうしてこの書がこんなに濡れているのか、と尋ねた。答えようとしたが、どうもうまく答えられなくて苦労した。うまく答えられなくて、しばらく頭を低くして黙っていたが、やっと一語を思いついた。昨夜からの雨漏りでこの書が濡れたのです、と) ここに私は男の含羞を見るのです。これは奥床しいという域をはるかに越えたもので、純粋な心の持ち主が自然に発する人格の魅力だと思います。 こんな孤独に徹した良寛にも、老いの心に春風を運んでくれる貞心尼という弟子がいました。貞心尼は長岡藩士の娘として生まれ、十七の年に医者に嫁いだのですが、五年後に夫と死別しました。それから思うところがあって仏門に入り、剃髪、得度して福島(現在の北長岡付近)の閻魔堂という尼寺に住んでいました。良寛と貞心尼との運命的な出会いは、彼女の語るところによると、文政十年、良寛七十歳、貞心尼が二十九歳の時のことで、次のようなものでした。 ある日、彼女はよれよれの墨染の衣をまとって、寒空の下を托鉢している老僧の後姿を見かけました。その瞬間、彼女は名も知らないその老僧に「ついていこう」と思い定めたのでした。貞心尼は、後々までその時の出会いを「仏のお導き」と感謝していました。 二人の心の交流は良寛の歌と貞心尼の手記「蓮の露」によって知ることが出来ます。最初の出会い以後、二人は互いに訪ねあって交流を深めます。ある時、貞心尼は訪ねて来た良寛を迎えて嬉しさのあまり「歌や詠まむ 手毬やつかむ野にや出でむ 君がまにまになして遊ばむ」と歌いました。これに対して良寛は「歌もよまむ 手毬もつかむ 野にも出でむ 心ひとつを定めかねつも」と返しています。良寛としては初めは若い尼僧を訪ねることに躊躇する気持ちが少しはあったのかも知れません。でも思い切って訪ねてこんなに歓迎されると、すっかり嬉しくなって「ああ 歌も詠みましょう、手毬もつきましょう、野原にも出て遊びましょう」と応じたのです。貞心尼の歌には良寛を迎えた喜びの情が全体に溢れていますし、良寛の返歌には抑制していた気持ちがふっ切れた後の嬉しさが素直に表れています。 二人は出会うと、仏教の話や修業の思い出などがつぎつぎに出てきて、いつもあっという間に時間が過ぎて行き、気がつくと、夜になって月の光が部屋一面にさし込んでいました。古来、日本には自然の美を歌った歌人は多くいますが、良寛は自然の中に生きる喜びを心から歌い上げた数少ない歌人であります。おそらくこの時も、月の光が庵室全体を包み込んでいる光景に彼の血潮がたぎりたったのでしょう。 良寛は「風はきよし 月はさやけしいざともに 踊り明かさむ 老のなごりに」と詠んでいます。貞心尼の注によると、「ふみ月十五日の夜」とあるので、盂蘭盆の踊りを意識したものであったのかも知れませんが、月の光にこれほど感動を覚える良寛の心は、まさに青春そのものではありませんか。 貞心尼が良寛のもとを辞して帰ろうとして「たちかえり またも訪ひ来む たまほこの 道のしば草たどりたどりに」という歌を送ると、良寛は名残り惜しそうにして「またも来よ 山の庵をいとはずば すすき尾花の露をわけわけ」と返しています。「秋萩の 花咲く頃は 来て見ませ 命またくば共にかざさむ」とも歌っています。美しい女性に今度逢ったら、一緒に萩の花を頭にかざしましょうと約束する良寛という人はとてもダンディではありませんか。 ただ、良寛は貞心尼との歌のやりとりの中で「老のなごりに」とか「命またくば」というように、自分の余生がいくばくもないことを覚っています。それだからこそ、生命の焔をひたむきに燃やす激しさになっているのだとも思われます。 ある夏、貞心尼が五合庵を訪ねると、良寛は留守で、ただ部屋には蓮の花が花瓶にさしてあるのが見えました。そこで彼女は「来て見れば 人こそ見えね庵守りて にほふ蓮の花のたふとさ」という歌を書き置いて帰りました。あとで帰庵した良寛は折角訪ねて来てくれた貞心尼にとても済まないという気持ちがあって、「みあへするものことなけれ 小瓶なる 蓮の花を見つつ しのばせ」という歌を送っています。(「みあへ」はもてなし。「しのばせ」は我慢をするの意。何のご馳走するものもありませんが、瓶にさした蓮の花を眺めて、これがせめてもの私のもてなしと思って、我慢してくださいという意味) 「秋萩の花咲く頃にまた逢いましょう」と約束して別れた二人でしたが、貞心尼はそれまで待つことが耐えられなくて、夏に良寛を訪ねて行きました。おそらく良寛のほうも、早く秋になって貞心尼に逢いたいものを、という気持ちで日を送っていたのでしょう。ですから、良寛には貞心尼の熱い想いがよく分かったのです。良寛はすっかり喜んで「秋萩の咲くを遠みと 夏草の露をわけわけ訪ひし君はも」と歓迎しました。貞心尼のほうは、ちょっと恥ずかしいそうに「秋萩の花咲く頃を 待ちとほみ 夏草わけてまた来にけり」と返しています。相思の男女が逢いたいという想いを表面に出すのは、仏門に入っている身としては恥ずかしいことなのですが、二人はそうした恥ずかしさを超えて予期せぬ出会いの嬉しさを素直に表しています。 天保元年十二月のこと、良寛は老衰のため、島崎の庵で「近く島崎の庵に訪ねましょう」という貞心尼との約束を心頼みにして寝たり起きたりの毎日でしたが、待てど暮らせど彼女は来ませんでした。そこで良寛は「君や忘る 道やかくるるこの頃は 待てど暮らせど 音づれもなき」と書いて送りました。「待てど暮らせど」の一句に良寛の思慕の気持ちがよく表れています。 その頃、さる人の便りでは良寛の健康が「俄に重らせたまふ」ということであったので、貞心尼は「うち驚きて急ぎもうで」(良寛のもとに急ぎ)ました。この時、良寛は貞心尼に逢うことが叶って「いついつと 待ちにし人は来にけり 今はあひ見て何か思はむ」と詠んでいます。「待ちにし人は来にけり」とずばりと言って退けているところに良寛の真情がよく窺われます。何も言わなくても心は通じ合っている二人なのです。 それから半月ほどして、良寛は弟の由之や貞心尼らに見取られて七十四歳で示寂(死去)しました。なお、貞心尼は良寛の没後、柏崎に移って良寛の歌集の編纂などに協力し、明治五年、七十五歳で死去しました。(一九九五年十二月号)  頭の上がらない人を持つ幸せ  「三尺下がって誌の影を踏まず」という言葉がある。また「鞠(きく)躬(きゅう)如(じょ)として」という言葉もあった。いずれも今では死語に近くなった言葉だが、要するに尊敬する人の前に出たときのかしこまった気持ちを行動や態度に表したものである。若い頃に聞いたときには、例の漢文調のオーバーな表現だなという程度にしか思えなかった。ところが、その私も生意気盛りの頃から、その人の前に出ると、何も言えなくなってしまうという人が何人かいた。いわゆる頭の上がらない人である。今になってそういう人に対する気持ちを考えると、「三尺下がって……」とかの言葉もまんざらオーバーとは思えない。  私の頭が上がらない人の第一は、何と言っても父である。私が六十歳の時、八十九歳で死亡した。父は決して厳父というほど怖い人ではなく、むしろ慈父のほうだったと思うのだが、私は子どもの頃から父の前に出ると、どうにも頭が上がらなかった。父は年老いてから、和顔愛語を体現したような好々爺になっていったのだが、それでも私は頭が上がらなかった。母には悪いことをしてきつく叱られても、「わあーっ」と泣いて胸に抱きつけば、子どもの心は落ち着いたものである。でも父の場合は、懇々と言葉を尽くして言い聞かすのを、ただ頭を垂れてうつむいているばかりで、内心では父の言葉は上の空で、早くここから解放して欲しいとばかり思っていた。  もう一人、頭の上がらない人は大学時代からの恩師である。学問の面では厳しくとも、学生に対してはどちらかというとやさしい先生なのだが、私はいつまで経っても、その先生の前に出ると、やはり頭が上がらない。とりわけ、自分が研究の面で先生に満足していただけないような怠惰な日々を送っていると、一層頭が上がらないのである。しかし、今になってみると、私の人生はこうした人たちに見守られて、何とか無事やってこられたのだという気持ちが強い。私は頭が上がらない人を持ったことを幸せに思っている。  私が学生だった頃、昭和天皇の母君、貞明皇后が亡くなられて葬儀があった。戦後すぐのことで、国葬ではなく、天皇家の私的な葬儀というような形式で行われたと記憶している。当時、学生の間では、天皇制盲腸論というのがあって、あってもなくても大して関係ないという気分が一般的だった。私もご多分に漏れずそうした考えだったと思うが、野次馬根性から講談社の前の通りまで、簡素な天皇家の葬式を見物に出かけたのである。  ところが、昭和天皇のお召しになった馬車が目の前に来た途端、私は主義主張に反して、思わず深々と頭を下げていた。それ以来、昭和天皇は、私にとって頭の上がらない人になってしまったのである。これは戦時中の小学校教育の条件反射かとも思うが、現実の問題として、頭が上がらないという感情はどう言い聞かせても清算しようがない。  二十年ほど前、頭の回転は速く、実行力も抜群の政治家がいた。若くして首相となり、当時の勢いは天を衝くように盛んなものだった。その頃、私は学者、文化人との会合の末席でその人の謦咳に接したことがある。その席上、ある著名な老学者が助言めいたことを言うと、その人は言葉を倍にして理路整然と反論した。その鮮やかさに室内はしんと静まり返ったものである。その時、ふと私は「この人にも頭の上がらないような人がいればいいのに」と思ったのを覚えている。  最近、「父性」ということが議論されているようだが、私の場合、父性とは頭の上がらないほどの存在感のある父親ということだろうと思っている。  同様に、教師というものも、子どもに対して優しいだけでなく、やはり子どもにとって頭が上がらないほどの存在感が備わっていることが大切だと思う。昔の旧制中学校の大校長とか名校長とか言われた人は、ずっしりとした威厳のある存在感が感じられた。こればかりは学歴や知識の詰め込みで出来るものではなく、日頃の個人の精神生活の結果がつくりあげるものなのである。(一九九七年四月号)  盧溝橋に立ちつくして  過日、北京郊外の盧溝橋に立った私は、六十年前(昭和十二年七月七日)にここで起きた日中両軍の発砲事件を思い出していた。当時、小学二年生だった私にも、好戦的な新聞の見出しや先生の説明から「いよいよ日中の間で戦争が始まった!」という世上の興奮が感じられて、子どもながらに緊張したのを覚えている。  その日、学校から帰るなり、私は勢い込んで母に向かい「日本と中国が戦争するんだって!」と言った。ところが母は、私の顔を悲しそうに見ながら、「戦争なんて真っ平! お母さんは嫌よ」とつぶやいた。私は案に相違した母の冷たい反応にひどく驚き、心の中で「やっぱり女は弱虫なんだ」と思った。  しばらくして、私の住む町内から続々と出征兵士が町民の喚呼の声に送られて戦場に向かった。近所に住む同級生の父親が出征する日、その人は家の前に集まってきた近所の人々の激励に応えて、出征の喜びと決意を力強く語り、人々は万歳を連呼して出陣を祝した。ところが、その人の後ろに控え目に立っている同級生の母は、喚呼に頭を下げながら、そっと涙をぬぐっていたのである。その姿はなぜか子ども心にも印象に残った。  そのうち、母の弟が出征し、父も半年間、公務で戦争下の中国に出張した。その日から、母は毎朝、神社に参り、お百度を踏んで夫と弟の無事を祈願した。それは父の帰国まで一日も欠けることがなかった。またせっせと慰問袋を送り、街頭で千人針に立った。  母は終戦の翌年、手術後の体力の衰えが原因で急逝した。私は戦争中の心身の疲労が母の命を奪ったと思っている。その通夜の席、父は戦争が苛烈になる中、母が「博雄もいずれ戦争に行くようになるのでしょうね……」と言っては泣いていた話を披露した。当時、旧制中学五年生だった私には、母の気持ちが心にしみた。  先日、母の忌日に姉が、母の書いた古い葉書を見せてくれた。戦地にいる叔父に宛てたもので、文面は近況を伝える程度のものだが、中に「博雄も元気に小学校に通っております」とあり、よく相手になって遊んでくれた叔父のことが改めて思い出された。この葉書は叔父の唯一の遺品となったものだが、私たちには貴重な母の遺品でもあった。私はこの一枚の葉書に、戦地にいる弟への母の想いと、これを胸に秘めて死んでいった叔父の無念さを思うのである。  こうした私のささやかな人生の一こまも、この盧溝橋で起きた一発の銃声から始まったのだと思うと、感無量であった。その近くに中国抗日戦争記念館があり、入館すると正面の壁一面に中国人が抗日戦争に立ち上がった姿を描いたレリーフが目に付いた。それは広島で見た「原爆の図」にも劣らない衝撃だった。私は日本人の一人として、日本が起こした愚かしい戦争を償う思いで、中国人の怒りに心から詫び、それを正視する苦しさに耐えた。日中両国の友好は、この事実を正視することから始まると思ったからである。  その夜、人民大会堂で和やかに日中女性の交流の宴が催された。その席には、中国の著名な文化人や芸術家の顔も見えていた。両国の女性は次々に立って、「女性こそ平和を守る!」「二十一世紀には日中の女性が連帯して、世界に友好の輪を広げよう」などと紅い気炎を吐いていた。その中にあって、私は今回の会議の開会に先立ち、我々が盧溝橋を訪れ、抗日戦争記念館を見学するようにした中国側の意図を考えていた。そして、改めて中国人の戦争への怒りを痛いほど感じた。また同時に、自らは欲しなかった戦争に巻き込まれていった母や叔父の気持ち、そして同級生の母の悲しみを思い起こした。  その思いは次第に高まり、日本の国民、とりわけ女性たちは、母として妻として戦争に反対していたことを、どうしても中国の人たちに伝えたいという気持ちになった。私は司会者にお願いして発言の機会を得、上記の思い出を手短に語った。  その後、何人かの中国の女性から、「とても印象に残る話でした」と言われ、話してよかったとしみじみ思った。(一九九八年十二月号)  霊の交わりは愛の交わり  日頃はあくせくと雑事に追われ、死者を追憶する余裕もなく過ごしがちであるが、八月から九月にかけては、広島、長崎の原爆記念日に始まり、お盆から彼岸へと、亡くなった人たちに思いをはせることが多い。  永らく起居を共にして、濃密な生の交わりをしていた家族が、ある日を境にしてこつ然と幽明境を隔てるようになるのは、死にゆく人はもちろんのこと、残される人にとっても耐え難い心の痛みとなる。最愛の肉親を失った悲しみは、人間の心の奥底からの嘆きであるから、まわりの人たちが生半可な慰めの言葉をかけられないほど深い。  本誌に連載されている前島教授の「ユダヤの知恵」には、ユダヤの葬式では、会葬者が遺族を「黙って慰める」習慣があり、そこから遺族は会葬者に「答礼をしない」「挨拶をしない」というしきたりができたと紹介してある。遺族の深い悲しみを察した、心憎いばかりの思いやりがそこにある。  たしかに、最愛の家族を失った人の悲しみは、それを経験しない他人には窺い知れないほど深い。そのことを、最愛の伴侶を失った歌人、吉野秀雄は、「血涙を流した者同士だけが理解し合えるものだ」と述べている。吉野は、これも最愛の夫、八木重吉と死別して寡婦となっていた八木登美子に宛てて、「血涙を流した者ここに何人か寄り集まり、血涙を流した者のみに許される人生の深みを共に生きる勇気を持とう」と書いた。後日、登美子はこの吉野の言葉に強く動かされて、吉野の家に来て遺された子どもらの世話をする決心をしたと述懐している。この深い悲しみは、霊による再会を信じることによってのみ、癒される。愛する人は、肉体的には死んでも、霊と霊との交流によって、両者のきずなは切れることはないと信じるからである。  お盆は、各家庭で死んだ近親者の霊を一年ぶりに我が家に迎え、霊による再会を果たし、また送り火を焚いて霊界に送り出す、大切な時間である。お盆の行事は、霊の再会を信じる人たちに支えられ、今も続いている。  能の舞台によく出てくる怨霊は、非業の死を遂げた人の思いを表現したものである。人々は怨霊のうらみを慰めるために、追善供養の祭をするようになった。京都の祇園祭に代表される都会の夏祭は、農村の五穀豊穣を祝う秋祭と違って、戦乱や飢餓、疫病などで死んだ庶民の霊を慰める気持ちから始まったという。京都・東山の大文字の山焼きや各地にある灯籠流しは、お盆の送り火の行事が形を変えたものである。夜空を赤く染めて燃える五山の送り火を眺め、川面をゆらゆらと流れていく灯籠の灯火を見つめていると、ゆらぐ炎が人の命のはかなさを象徴しているかのようにも思えてきた。  家族との別離の中でも、とりわけ母子の死別は悲痛のきわみである。まして、愛し子を失った母は、悲しみを通り越して、錯乱状態に陥るほどの衝撃を受ける。涙も声も枯れ果て、魂の抜けた生きる屍になったような状態が続く。まわりの者は慰めの言葉もなく、ただ「共に悲しむ」だけである。同慈同悲の観世音信仰は、こうした母親たちによって静かに広まっていった。慈悲深い菩薩への信仰である。  共に泣いてくれる人は、大いなる愛の人である。良寛は、そうした純粋な心を持った人であった。彼は苦しみ、悩む人たちといっしょに、心から涙を流した。  わが子を思う母の心は、時空を越えて、死んだ子どもの霊に直結することがある。すると、母親の心に奇蹟が起きる。亡くなった愛し子からの霊的励ましを受け、母親は悲しみから立ち直るのである。神戸の事件で愛娘・彩花ちゃんを失った山下京子さんは、娘との愛の日々の追憶が彼女を立ち直らせてくれたと書いている。そして今も「彩花の愛が私をしっかりしてと励ましている」と感じている。私は、霊の交わりは、真摯な愛の交わりの延長線上にのみ、可能であると信じている。聖書には「神は愛なり」とあるが、「愛は神なり」でもあると思っている。(一九九九年九月号)  世界ハート展を見て  人命尊重は、国民が高い戦争の代価を払って学んだ貴重な教訓であり、戦後半世紀にわたって学校教育の中で教師が心をこめて教えてきたものである。しかし、今日の日本では、保険金目当ての殺人事件や誘拐事件、子どもの刺殺事件など、毎日のように無辜の人命が失われている。この風潮を見る限り、人命尊重などかけらほども感じられないし、特に弱者や子どもにとって生きにくい世の中になってしまった、というのが実感である。  そうした折、NHK福祉キャンペーンの一つである「世界ハート展」を見る機会があった。この展覧会は、障害者の詩五十点と、それに呼応した著名人の絵画などを対にして展示している。私の足は、「波風」と題した詩の前で突然、釘付けになった。   重い言語障害のため   誰とも口をきく事のない僕は   いまだかつて人と言い争って   周囲に波風を立てた事はなかった   その代わり 僕の胸の中では   常に大きな波風が 怒涛の如く   吹き荒れていた    糸永恒夫 五十八歳 肢体不自由  糸永さんは、おそらく五十八歳になって、やっと永い間の葛藤にピリオドが打てる心境になったのであろう。彼がこれまで心の中の大波に耐えて送ってきた日々を思うと、私は粛然とした。私はそうした人たちの心の苦しみを知らずに、ただ外から見える障害の痛ましさに同情するだけで、障害者を理解しているつもりで過ごしてきたのである。  視覚障害者の女性は、心からの願いを次の詩に託している。   もしも願いが叶うなら   たった一つだけ願い事が叶うなら   一時間だけ 視力を与えてください   夫の職場と息子の小学校   そして娘の幼稚園に   自転車に乗って会いに行きたいのです。   私のこいだ自転車で 私のこの目で   家族の笑顔を見たいのです。   でも もし そんな事が叶ったら   うれしくて うれしくて 涙が溢れて   やっぱり 何にも 見えないかも知れない。     岩田小百合 三十七歳 視覚障害  妻であり、二児の母である女性の切なる願いがひしひしと伝わってくる。家族の幸せを願うその思いは、健常者よりも強いのではないか。ハート展を見ながら、障害者の人たちが日々生きるために格闘している姿を知ることの大切さを、しみじみ学んだ。それまで何も知らずにいたことを、少し恥ずかしく思った。  私たちは障害者こそ自分に近い人という思いで、愛情をもって向き合っていないし、子どもにもそう教えなかった。赤の他人のように、遠くに見ていた。障害者の心の痛みを感じられるようになること、それが人命尊重の第一歩である。(二〇〇〇年二月号) 4 人生を豊かに  聡明な女性は家庭でつくられる  幼少の頃、私は母から「利口馬鹿」と「馬鹿利口」の区別をよく聞かされた。「履行馬鹿」というのは、人前で何かと知ったかぶりをして利口そうに見えるが、本当は思慮のない愚かな女性を指し、「馬鹿利口」とは人前では黙っているだけなので知識のない馬鹿者に見えるが、実は他人の言うことをよく考えて取捨選択し、上手に家を治める女性のことを指すというのである。  私はなぜかこの教えをいつまでも覚えていて、未知の女性と知り合うたびに、無意識にどちらのタイプかなと判定していたところがあった。私の母は高等小学校しか出ていない無学の女性(本人は当時、クラス二、三人しか進学しなかった高等小学校を優等で卒業したことを誇りにしていたが…)であったが、子どもの私の眼で見ても典型的な「馬鹿利口」のタイプだった。  確かに母には学識はなかったが、物事の本質を直感的に理解する聡明さと、実際に即してじっくりと考える思慮深さを身につけていた。それは家の中でのいろいろな創意工夫となって、私たちの生活を豊かにしてくれた。私が小学校に入学した時には、「椅子に座ったら、両手を背中の後ろで組み、背筋を伸ばして先生の眼をしっかり見ていなさい」と教えられた。新一年生の私は気負って、母の言う通りにして頑張っていた。それを思いがけなく、先生から座った姿勢がよいと褒められた時の嬉しさは、今でも母の思い出とともに残っている。その時の椅子に座る姿勢は、今に至るまで習慣として私の身についている。入学する一年生に最初に教えることとして、これほど適切な指導はない。  私は教育の道に進み、四十年近くになる。その間、教育学の本を読み、小学校の校長も経験したが、いまだに母の「馬鹿利口」の教えは、その後の私の経験や他の女子教育者の説くところからも、間違っていないように思う。要するに、なまかじりの知識に振り回されないで、生活の実際に即して熟慮する聡明な女性を意味していた。  その後、女子教育は様変わりをし、今日では四年制の大学を出た学識のある女性が多く育ってきた。女性の社会進出も目覚しいものがあり、ノーベル賞作家にも女性の受賞者がどんどん現れ、キャリアの女性も官民両分野で増えつつある。また、一般的に女性が社会的な問題について、おくすることなく自分の意見をはっきり言えるようになったのも大きな進歩である。確かに過去五十年の女子教育の発展は大きな成果を結んでいる。  しかし、そのために母親が家を留守にして子どもにさびしい思いをさせ、塾に高い月謝を払っているという現実が、果たして生涯を通じて採算がとれる賢明な生き方なのだろうか? と考えることがある。私は子どもの幸せを考えると、今でも今日の母親たちが、私の母のように、いつまでも思い出となるような強烈な存在感を与える母親であってほしいと願っている。  学校教育に長く携わってきた者として恥ずかしいのだが、こうした女性は公立の学校教育によっては育てられないように思う。聡明な女性は聡明な母親によって家庭で育てられる。それがなぜ公立の学校に出来ないのかという問いには、人格形成の最深部のプロセスの問題であるだけに、まだ的確な答えを持っていないのだが、この感想はかなり当たっていると思う。  今後、高齢化社会がやって来る。そこでの心配事は、年老いた自分を子どもが親身になって世話してくれるのだろうか? また子どもにはその気持ちがあっても、それが出来ないような状況になっているのではないかといったことである。そうなった時、年老いた親と成人した子どもを結びつけるのは、子どもの頃の親子の強烈な思い出だろう。  最近、若い内から老後のことを考えた老齢保険が評判のようで、それも結構なことである。しかし、私は若い親たちに、今の内からしっかり子どもの心に掛け金を掛けることの方を勧めたいと思うのだが。(一九九六年十月号)  愛する者のために尽くす「愛」  ここ数年、中央官庁と民間企業との癒着が暴露され、国民の官への信頼が大きく揺らいでいる。癒着の背景には、定年後の官僚の就職という問題がある。官僚の民間への再就職がすべて悪いわけではない。しかし、中には許認可権をちらつかせて、受け入れを強要する官僚もいるし、また民間企業の中にも、官僚の弱みにつけこんで誘惑するケースもあるようだ。しかも、関与した者が自分の利欲のためばかりでなく、役所や会社のためだと思っていて、倫理的な負い目を感じていないところに問題がある。  大正末から昭和初期にかけ、軍縮問題で世論が沸騰し、軍人が制服で街を歩くのを気がねした時期があった。こうした風潮に憤激した青年将校が、行き詰まりの突破口として満州への進出を図ったのである。その時も、軍や政府のトップが青年将校らの妄動を抑えられなかったことが、国家の大事を招いてしまった。  洋の東西を問わず、近代官僚制の存在するところでは、つねに組織の利益と個人の倫理との相克があり、よほど個人の倫理がしっかりしていないと、組織の力に押し流されてしまう。とりわけ宗教的基盤の弱い日本では、欧米に比して個人の倫理観の弱さが目立つ。戦前は国家への奉仕が個人の倫理の核ともなっていたから、それが官僚の倫理を支えていた。ところが戦後は、国家への奉仕という倫理観が事実上消滅したために、組織の慣行の前に個人の倫理観が従属するような結果となったのである。  同じようなことが今日の母親の生き方にも当てはまる。先日、私が尊敬している婦人から、子育てに専念するため思い切って専業主婦になったが、子どもに手がかからなくなった頃になって社会で活躍している同級生を見ると、職場を辞めたのを後悔している、という話を聞いた。私は、子どもは日常的に触れ合う母親の姿を心に刻みつけ、それを頼りに育って行くのであって、「今もまだその大事な時期なのですよ」と慰めたものの、この婦人の話は深く私の心に突き刺さっていた。  数日前、新聞で「専業主婦の憂うつ」という特集を読んだ。四人の主婦が、夫や子どものために仕事をやめたことを後悔する談話が載っていた。二児の母親である三十代の女性は、「自分だけが社会に取り残されるようで、専業主婦であってよかったと思えることはない」と語っている。私もその気持ちは理解できるし、家事・育児と仕事が両立できれるようになれば結構なことだと思う。  しかし、専業主婦が「夫の理解が足りないから」「社会が悪いから」と言って、憂うつな毎日を送っているのでは、まだ人生に甘えているとしか思えない。個人としての生き方は考えていても、一家の主婦として、さらに子どもの母親としての生き方を真剣に考えているようには思えないからだ。少なくとも子どもは、母親のいない家で欲しい物に囲まれているより、母親がいつも自分のそばにいてくれる方が嬉しいのである。そして母親が少しでも、「子どもがいなければもっと外に出られるのに」という気持ちを持つと、子どもは敏感にそれを感じて、さびしい思いをする。その思いは、子どもの心に影となって長く残ってしまうのである。  私は愛の形の一つとして、自分を犠牲にして愛する者のために尽くすというのがあると思う。「友のために命を捨てる、これより大いなる愛はなし」という言葉もある。同様に、女性が生涯の一時期を愛する家族のために尽くすことも、愛の形として素晴らしい生き方だと思う。もっとも、それは女性だけに求めるべきものではなく、男性にも、ある時期には子どもにも求められてよいものである。私の知人には定年後、これまで世話になったお返しとして、家事と夫人の介護に専念している人もいる。  官民の癒着が横行し、子どもの心が荒れすさんでいるのも、その底流には、確固とした倫理観を持ち、愛に生きる人の少ないことがあるのではないか。新しい年を迎えて、まずは私自身の生き方を問い直してみてはどうであろう。(一九九九年一月号)  美しく老いる  私の大学の卒業論文は世阿弥の『花伝書』の研究だった。『花伝書』の第一は有名な「年来稽古条々」である。これは能楽者の生涯の成長に即して、七歳から五十有余までの人生を六つの時期に分けて、それぞれの時期の修業の要点を述べたものである。能楽教育論であるとともに、私などはその節目節目に生きていく人生上の指針として、世阿弥の所説を思い浮かべ参考にしたものである。  当時は「人間わずか五十年」の時代であるから、その時の五十有余は今ではおそらく七十有余くらいに相当するだろう。その五十有余の心得について、世阿弥は亡父観阿弥が五十二歳の時に能楽の舞台を務めた時の思い出を例に挙げて、次のように述べている。 「その日のさるがく、ことに花やかにて、見物の上下、一同ほうび(褒美)せしなり。凡そその比、物かずをば、はや今の初心にゆずりて、やすき所を少な少なと、色えてせしかども、花はいやましに見えし也。これまことに得たりし花なるがゆえに、能は枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり」  つまり、野心的な出し物は若手に譲って、若い時から得意にしてきた芸を控え目にやると、美しさの余韻を漂わせる深みのある芸を見せることができる、というわけである。ここには、見物の目にさらされる能楽者が老いた時の心得として、優れた知恵が秘められているが、能楽者でない普通の高齢者も、老いを考える上で耳を傾けるべき言葉であろう。  高齢者になると体力や気力が衰え、容色も落ちるのは否定できない現実である。そこで自信を失ってがっかりすると、`老醜aをさらけ出すことになり、若い者から嫌われる。反対にその現実に目をつむって頑張り過ぎると、かえって失敗をして`年寄りの冷や水aと笑われる。どちらにしても、周りから相手にしてもらえないから、高齢者は自ら世間を狭くして、とかく孤独に陥りやすい。これが一層老化を促進するのである。  この点、世阿弥は能楽者の生命である`花aを死ぬまで保つ秘訣を教えている。死ぬまで花を保つことができれば、見た目も華やかで、いつまでも周りから声がかかるから、孤独に陥ることもないし、自信を喪失することもない。これでこそ、華麗なシルバーエイジを満喫できるわけである。  ところが、会社人間だった男性の中には、定年後の境遇の変化にうまく適応できない不器用な人が多い。家と職場を往復するだけで隣近所の人々とも親しく話をしたこともないから、会社を辞めたら途端に話し相手がいなくなる。会社と違って周りに若い人もいないので、服装に気を遣うのもおっくうになり、次第に`じじむさくaなる。そんな自分を毎日鏡で見ているから、気持ちの方から先に老化してしまうのである。  シルバーエイジでは、定年後の男性よりも五十代以後の女性の方が美しく、若やいで見える。世阿弥のいう花の心は、今も女性に受け継がれているようだ。本を読んだり、美術品を見たり、小旅行をしたり、お金をあまりかけないで人生を楽しむこつを心得ている。  四十代になったら自分の顔に責任をもてと言った人がいたが、たしかに女性は五十代以後になると、若い時の容色が落ちる代わりに精神的な美しさが表に出てくる。五十代までの精神生活の総和が顔や言語動作に出てくるのである。若い時に、その美しさに任せて放縦な生活を送った女性は、容色が落ちると、若い時の美しさからは想像もできないほどの老醜をさらすことになる。もっとも、これは男性にも当然当てはまることなのだが……。  過日も鎌倉に出かけた折、駅付近でロマンスグレーの髪がきれいにウエーブされ、上品でスマートな洋服を鮮やかに着こなしている年配のご婦人を見かけたことがあった。私は連れとともにしばし立ち止まって、その美しさに見とれたのであった。それがきっかけになって、帰りに車中では、美しい老婦人論に花が咲いた。 “美しく老いる”ためには、美しく心豊かな生活がなければ、というのがその日の結論である。(一九九七年六月号)  感謝といたわり―夫婦の愛の形 『失楽園』という中年男女の不倫の恋を描いた渡辺淳一氏の小説がベストセラーになり、その映画も人気を博している。「文藝春秋」の「映画漫歩」によると、「かつて出版社のエリート社員で今や窓際族になった中年男と書道教室の先生である人妻が不倫のセックスにのめりこみ、やがて心中死する」というストーリーで、「七つのセックスシーンが最大の見所」らしい。おまけに解説として「今の世の中、イデオロギーも宗教も哲学も、てんから信じ難い時代。たよりになるのは男と女の、ぴったりと合った肉体のセックスのみ」という蛇足がついている。  この「失楽園」ブームが示すように、最近では若者のみならず、熟年層までがもっぱら「性愛」の形で捉えた男女の愛を人間唯一の生きがいだと考えているらしい。つまり、愛といっても感覚的に実感できるものだけが確かなもので、それに耽溺している刹那の時だけが真に幸福だというのである。これは決して美しいロマンではなく、昔から存在する感覚的な快楽主義であって、一種のデカダンスに過ぎない。  こうした退廃的な風潮が社会に広まった背景には、未来に希望が持てない人々が、精神的な自慰行為によって一瞬の生をむさぼっているという現実がある。それにしても、近頃の男女の恋愛があまりにも即物的で露骨なのには恐れ入るばかりで、昔の「秘めた恋」とか「忍ぶ恋」などというような愛の形はナンセンスだということらしい。  マスコミもこうした風潮を煽るかのように、夫婦の性生活の実態調査をとり上げ、日本の夫婦の多くは愛の欠如した「セックスレス夫婦」で、「家庭内離婚」の状態にあるなどと面白おかしく書き立てる。「不倫」も「援助交際」もマスコミによって流行語になると、その事柄自体が既成事実のように受け取られ、定着してしまうのである。とくに性について、好奇心は旺盛ながら判断力の未熟な中高生は、それを真に受けて大人の性生活はそういうものかと誤解してしまう。  たしかに、多くの男女がセックスをきっかけに結ばれることがあるし、夫婦という結び付きの基礎に性愛があるのも事実である。とりわけ、若い夫婦の場合には、それによって互いにより深く知り合い、夫婦の堅い基盤を築くのである。この意味では性愛が夫婦を結ぶ大切な絆になっている。  しかし、人間という動物は気ままなもので、一人では寂しくていられないくせに「男はしばしば一人になりたいと思う、女も一人になりたいと思う、そしてその二人が愛し合っている時は、そういう思いを互いに嫉妬する」(ヘミングウェー『武器よさらば』)のである。だから、人生の達人から「ほどほどに愛しなさい。長続きする恋は、そういう恋だよ」(シェークスピア『ロミオとジュリエット』)と忠告を受けることになる。  若い夫婦も時間の経過とともに、自然に性愛への熱気は醒めていき、節度を持った性生活に入る。やがて子どもが生まれると、夫婦は養育という重い共同責任を負う立場になる。二人の共同生活から、生命を運命的に共有する三人の家族になると、夫婦は「性愛」以上に相互に「信頼」する気持ちが強くなる。そして何事も相談し、喜びも悲しみも分かち合おうとする。それが安定した夫婦の姿なのである。また苦難に対処した経験を通じて、それまで見えなかった伴侶の資質や能力を発見し、ひそかに「尊敬」の念を持つようにもなる。この相互の信頼と尊敬が中年以降の夫婦の絆になる。つまり、「性愛」から「人間への愛」に変わっていくのである。  やがて子どもが親のもとを離れると、二人はまた向き合う生活に戻る。その時には、互いに相手が生きていく上での必需品となっている。結婚式で誓った「病める時も健やかなる時も」という言葉が重みを持ってくるのはこの頃からである。相手に対する「感謝」と「いたわり」が夫婦の絆となる。いわば「存在への愛」とでもいうべきであろうか。そこに至る愛こそ、私たちが求める「絶対愛」ではないだろうか。(一九九七年七月号)  きれいな言葉が美しい心をつくる  誰でも予期せぬ人から、思いもかけず、心にしみ入るような言葉をかけられて嬉しくなった経験があると思う。そんな日は終日、心軽やかに過ごすことができる。その反対に、心ない一言でひどく傷つき、悔し涙を流した暗い思い出もあるだろう。善きにつけ悪しきにつけ、さりげない一言が人の心に大きな波紋を投げかけるのが言葉である。  言葉はコミュニケーションの道具であるから、こちらの意思が正確に相手に伝わることが大切だが、その際、言葉の意味だけが正確に伝えられたらそれでいいというものではない。なぜなら、同じ内容を伝えるにしても、言い方次第で、聞き手の感情を刺激してしまうことがあるからだ。聞き手の気持ちをよく考えて話す配慮が必要である。狭いところに多くの人が暮らし、コミュニケーションが密になっている日本社会では、昔からこの点の気配りが人間関係を円滑にしていく上で不可欠であった。  私が生涯の戒めにしているのが、道元禅師の主著『正法眼蔵』に、菩薩(仏になるために修行している人)の四つの道の一つとして書かれている「愛語」の一節である。そこでは「愛語と云うは、衆生を見るにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おおよそ最悪の言葉なきなり。(中略)向って愛語を聞くは、おもて(顔)を喜ばしめ、心を楽しくす。向わずして愛語を聞くは、肝に銘じ魂に銘ず。知るべし、愛語は慈心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり。愛語よく回天の力あるを学すべきなり」と教えている  私たちが日頃何気なくしゃべっている言語の意味と働きを、これほど簡潔明瞭に示したものはない。深く人間というものを省察した人生の達人にして初めて言える、まことに含蓄のある教えである。  この「愛語」の教えをもっと具体化し、実践した人が良寛である。良寛には自筆の「戒語」が残っている。「ことばの多き」「口のはやき」「とわずかたり」「人のものいいきらぬうちにものいう」「こと葉のたがう」「子どもをたらす」「たやすく約束する」「酒に酔いてことわりいう」「己が氏素姓の高きを人に語る」「学者くさき話」「風雅くさき話」「人に物くれぬ先に何々やろうという」など百条近くが並べられている。  これを読むと、私などは思い当たることばかりで慚愧の至りであるが、今の世相を見てもラジオやテレビでは、とにかく言葉が多く、落ち着いて考えたり、味わったりするゆとりがない。ある意味では、騒音をまき散らしているようなもので、これでは「考える」人はますます少なくなるだろうし、芸術的な鑑賞力も低化するだろう。こんなことが、今の青少年の心にどのような影響を与えているか、考えるだけでも心が暗くなる。  最近、車中などで、はた迷惑なほどのカン高い女性の声に、思わず振り向くことがたびたびある。そこには、たいてい女子中高生の一群が、通路を占領して大声でふざけ合っている。その屈託ない明るさはほほえましいが、そのはしたなさにはあきれてしまう。その上、話しているひどい言葉からは、彼女たちのすさんだ内面が見えてしまうようで心が寒くなる。どぎつい表現や隠語まがいの言い方からは、`おやじ狩りaや`援助交際aなどの犯罪的な行為まで連想してしまう。  先に「言葉は言い方次第」と書いたが、話す技法を問題にしたのではなく、強調したいのは話し手の心の大切さだ。どんなに美辞麗句を並べても、心に愛がなければ相手の心には響かない。聖書でも「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしいにょう鉢と同じである」(コリント人への第一の手紙第十三章一節)と教えている。これは、親や教師が子どもと話す時の大事な心がけでもある。 「言葉は人なり」と言われるように、話す言葉はその人の人柄を、そのまま表す。心を磨き、学びを深めることで、言葉は美しくなる。美しい言葉を使う人が増えれば、それだけ日本が美しくなる。(一九九八年七月号)  旅は人を自由にする  十年ほど前、私は筑波大学付属小学校長を併任していた。付属小学校には隣に占春園という庭園がある。昔、守山藩主の下屋敷に付いていた由緒ある庭園である。私が校長をしていた頃、幸田文さんからその占春園の一角に樹の苗木を寄付していただいたことがある。文さんのお孫さんが付属小学校におられることからのご縁であった。  実は幸田家とは文さんの父親、露伴先生や文さんの娘さんも付属小学校の卒業生という深いご縁でつながっている。私は校長として苗木のお礼に伺うことを連絡したところ、「来るには及びません、私の方から参ります」というご返事を頂き、恐縮した。  五月晴れの頃だったか、約束の日に文さんが飄々とした感じでふらりとおいでになった。白地に顧問の和服を召しておられたと思うが、話し振りも動作も気さくな中に美しさを感じさせられた。お年は確か七十歳を超えておられたと思うが、その年にはとても見えない小粋な感じがしたことを覚えている。  「私の方からお礼に伺わなければなりませんのに、わざわざお越しいただいて……」と私が挨拶すると、文さんは「私は五月と十月は気候がいいので、できるだけ外に出て自然と触れ合うようにしています。だから、一年の内でとても大切にしているんですよ。それで、できるだけ人会うお約束はしないようにしているんです」と話された。  この話をうかがったとき、人生を深く生きてきた人の厳しさに触れたような気がした。話は自然に樹木のことになり、私がその年の春に岐阜の「薄墨の桜」を見て、老樹の生命力に強い印象を受けたことを話すと、文さんは「一度、屋久島においでになって屋久杉の大木をぜひご覧になるといいですよ」と薦めてくださった。後日、知人から送ってもらった文さんの随筆集に、屋久杉を見たときの印象記が載っていて、改めて興味深く読んだ。  それ依頼、私も文さんにならって、春秋のよい季節をできるだけ自然と触れ合い、生きることの素晴らしさを実感したいと心がけているが、貧乏暇なしでなかなか文さんのようにはいかない。  亡き父とは気候のよい春秋の時期によく旅をした。秋には、父の生まれ故郷の和歌山県新宮市に行き、祭りで呼び物の熊野川での船漕ぎを見たり、お城の傍の父の母校の小学校を訪れたりした。湯の峰という山中の温泉に寄って、共同湯に入ったとき、父が六十年前の小学校の幼友達に偶然出会ったことなど、人生の巡り合わせの不思議をこの目で見たこともある。  最後の思い出に残る旅は、父が七十歳を過ぎてから、春爛漫の京都に行き、そこを拠点に西国三十三か所の札所を巡り歩いたことである。十一番の上醍醐寺に行くには、秀吉の醍醐の花見で有名な下醍醐寺を抜けて2キロの急な坂が続く山道を登らなければならない。老齢の父にはかなりの難行だったようだが、ゆっくり休みながら登り切ったのには私も驚いた。  父は「ちょっと無理かなと思ったが……」といいながら、いかにも念願がかなったように満足そうに微笑んだ。父もまた自分の人生を深く味わいながら、自由に生きた人だったと思う。  最近、旅に出たいという思いに駆られる。由緒ある祭りがあると聞けば、ぜひとも行ってみたいという気持ちが強くなる。でもたいていは雑用や天候に邪魔されて実現しない。旅に出て自由に生きる喜びを味わうためにも、どうやらかなりの代償を払わなければならないようだ。  人生は「一切を放下して」という覚悟がないと、貴重なものは得られないようになっているのであろうか? 私のように、あれもこれもと欲張った生き方をしていれば、あぶ蜂取らずで何も得られないということも、頭の中では分かっているのだが、捨てることの難しさを前にして、門を仰いで立ち尽くしているこの頃である。(一九九六年十一月)  私の健康法―自分なりのリズムを大切に  大学時代の友人たちが集まると、話題は自然と健康のことになり、各人が得意顔にユニークな健康法を披露し合う。それに刺激されて新しい健康法を取り入れ、翌年の年賀状にその成果をひと言書き添えることもある。気の置けない同窓会に出るのは楽しいのだが、出てみると、出席する顔触れが年々少なくなっていくのはさびしい。  私の狭い見聞だけからの勝手な推論で言うのもはばかることなのだが、どうも学生時代、元気がよく目立っていた友のほうが早くぼけてしまったり、物故しているという感じがする。  その反対に、その頃は虚弱な体質でクラスでも目立たなかった友人が、今は人一倍元気に、同窓会の幹事などをこまめにやってくれている。やはり、一病息災ということなのだろうか?  私も若いうちはいたって丈夫だったので、一病息災の意味を聞いてもあまり関心がなかったが、一度軽い脳梗塞で倒れてからは、さすがに体験的によく分かる。それ以来、健康についての他人の体験談にも耳を傾けるようになり、よいと言われることは何でも試してみるようになった。毎日の食事や睡眠、仕事による疲労など体調にも注意を払う。  そうすると、自分の身体のことは自分が一番よく分かっていると思うようになった。あまり自分の診断を過信するのはよくないが、そのくらい日頃の体調維持に気を配っていることが大切なのだと思う。  自己診断の結論として、私が信じ、実践している健康法の原則は、第一に規則正しい生活を守って、心と身体のリズムを常に一定に保持することである。この中には、早寝早起き、三度の食事の時間厳守、朝晩の散歩の励行などが入る。これは、年齢に関係なく、すべての人に通じる健康の秘訣だと思う。  高齢者は、できるだけこのリズムを狂わせないように心がけるとよい。そのために、世の中の付き合いが悪くなったりすることが往々あるが、その失礼を平気でやれるようでないと、リズムは保てない。その意味では、健康保持とは義理を欠いても自分流を貫くことだと心に命じている。  第二はいつも自分を感情的に機嫌のよい状態にしておくよう努めること。腹を立てず、嫌なことがあったら、早く気分転換を図るようにしている。とりわけ、家族の間のトラブルがよくない。  さらに、楽しいことは積極的に求めるようにしている。気の合った人との語らい、好きな絵画や音楽の鑑賞、心を楽しませる小旅行など。下手なカラオケも歩んできたわが人生とその時代を偲ぶよすがになって楽しい。  結論は、他人に迷惑をかけないようにという前提に立って、心と身体が欲するままに、自然に生きることを心がけるということである。 5 希望を見いだす  心を癒す宮沢賢治の世界  阪神大震災以来、悪虐非道なオウム真理教団の一連の殺人事件、それに関連した驚くべきTBSの報道疑惑、相次ぐ倒産によって見えてきた底なしの金融不安の泥沼、そこに露呈された官界や金融界の無責任体制、相変わらず続くいじめによる中学生の自殺が示す教育界の無力、輸入血液製剤によるエイズ禍にまつわる官・医・業三者の醜悪な癒着の実態など、今の日本は「地獄草紙」や「餓鬼草紙」が描いた世界もかくやと思われる生き地獄の様相が展開されている。その上、指導者たちが党利党略にうつつを抜かして、問題の解決に真剣に取り組もうとする様子が見られない。そのために、この日本を包んだ深い霧は一向に晴れる気配を見せないどころか、ますます不透明さを増すのみであって、心ある国民は次々に生起する不幸な事態の進行に、息を呑んで呆然と立ち尽くすばかりである。  そうした折に、東北の一隅で農民とともに生きた詩人、宮沢賢治の生誕百年を迎えた。昭和初期の閉塞的な時代状況と今日の日本の置かれている状況との間に奇妙な共通性があることもあってか、日本を包んだ深い霧の中に立ちすくんだけ賢治の心の痛みと深い悲しみが、今あらためて私たちの心に共感されるのである。そうしたことからか、薄汚れた手帳に「雨ニモマケズ」の詩を書き残してひっそりと死んでいった彼が今、再び静かなブームとなって人々の強い関心を集めている。ファンタジックな世界を描いた彼の童話「銀河鉄道の夜」は映像化され、今の子どもたちにも親しまれている。  このように、七十年近くも前の作品があらためて現代によみがえってきたのは、賢治の詩情が現代人の心の琴線に触れて、彼らが持つ不安と憤りを癒してくれるところがあるからであろう。今日の日本には「病気ノコドモ」や「ツカレタ母」、「死ニサウナ人」に「ケンクワヤソショウ」をしている人々が充満している。健康そうに見える人にしても、現代社会がかもし出すもろもろのストレスを受けて、心に何らかの傷を負っていない人などいないのである。  その上、変動極まりない経済の激動下において、福祉や医療、年金など国民の生活に直接かかわりのある制度に陰りが出るなど、国民は自分の将来について言い知れない不安を抱いている。政府の低金利政策は、年金生活者を直撃したし、医療における患者の自己負担率はいつの間にか増額されている。今後はさらに公的介護保険制度の導入が考えられていて、これを理由に政府は新たな負担を国民に求めようとしている。しかし、これまでの庶民の経験から言えば、公的介護になれば心のこもったサービスが受けられないのではないかという不安がつきまとってしまう。  国民が今すぐに望んでいるのは、そうした制度的なこともさることながら、それ以上に病気や衰弱で不安な日々を送っている人や四月以来の異常低温で冷害による凶作を心配する農民、さらには企業のリストラという名の首切りにおののく中高年サラリーマンに「コワガラナクテモイイトイヒ」、「ナミダヲナガシ」て慰めてくれる人間的な暖かさであろう。何よりも心の中にある漠然とした不安を癒してもらいたいのである。そうした癒しはまさに現代において衆生の救済という菩薩行の実践に他ならないが、「サウイフモノ」への待望が宮沢賢治への懐かしみとなっているように思われるのである。  賢治の作品には、数年に一回は必ず襲来する冷害による凶作と、豊作期には一転して豊作貧乏という宿命に耐える東北農民の深い憤りとあきらめとが底流にあって、しかもそれがファンタジックな童話の世界へ昇華されている。これが彼の童話や詩に一種の哀愁を添えているのだが、同時に浮薄で空虚な都市の消費文明に対する自立的な生産者がつくる農村文化の健全さと仏教信仰――とりわけ法華行者としての信仰――に支えられた大いなる楽観が救いのない現代人の心を惹いてやまないのであろう。(一九九六年七月号)  二〇〇〇年のスタート  敗戦の年の歳末、学生だった私は生きる目標を失ったうつろな心と、バイトで疲れた体を引きずるようにして、凍てついた夜道を歩いていた。己の生命を捧げて悔いなしと信じてきた国家から裏切られた私には、戦後の人生は予定外の余計なページに過ぎなかった。  物価高騰と食糧不足の中で、ともかく一日をどうにか生きて行くだけの日々が続いた。椎名麟三の『重き流れの中に』や、ゲルギューの『二十五時』などを耽読して、やがてくるであろう人類終末の日を斜に構えて迎える気でいた。  薄暗い街灯の下で、時折、脂粉の香を匂わせた女の顔が浮かんでは消えた。近くの屋台から「こ〜んな女にだ〜れがした〜」と叫ぶような歌声が流れてきた。誰もが見えない明日と苦しい今に、やり場のない怒りを抱えて無性に腹を立てていた。  ふと見ると、向こうから懐中電灯を持った若い男女のグループが近づいてきた。彼らは楽しげに合唱しながら、すれ違って行った。後には「あめにはさかえ、み神にあれや、つちにはやすき、人にあれやと」の歌声だけが私の心に残った。それは闇夜に一筋の光が点った感じだった。その後、日本の復興とともに、学問と教育に打ち込む日々が続いた。それが残された私の人生を新たに書き替えると信じたからである。  それから半世紀。今まさに二〇〇〇年という区切りの年を迎える。子殺し、親殺しに夫殺し、政治家の選挙違反、高級官僚の汚職、企業の談合に脱税、人妻の不倫に警官のセクハラ、教師の買春と少女の援助交際など、何でもありの破廉恥日本になってしまった。その姿を見ているうちに、私の心にあの日の思い出が鮮明に蘇ってきたのである。  バブルの崩壊の時、それを「第二の敗戦」と評した人がいたが、確かに今の漂流する日本にはその時同様の行き先不明の無気味さが漂い、ずっしりとした重苦しさがある。どうやら、これが世紀末特有のムードなのかもしれない。  キリスト教徒でもない国民が「ミレニアム」を騒ぐのはおかしいのだが、ちなみにミレニアムとは、キリスト生誕から数えて千年の節目の年を意味する。最初の千年は神聖ローマ帝国の皇帝オットー三世の時で、キリスト教世界では信者のローマ巡礼が盛んに行われた。アジアでその年に当たるのは中国では宋の真宗の頃、日本では平安時代の一条天皇の長保二年である。この年は左大臣藤原道長の長女彰子が中宮になった年で、藤原氏の全盛時代の始まりの年である。  それ以後の世界の歩みを見れば、人類社会の進歩発展は人間の知性の素晴らしい勝利を物語っている。これから千年の間に世界がどうなるかは全く予見し難い。ただこれまでの歴史のように、科学技術の進歩発展を楽天的に謳歌するわけにはいかないことはわかっている。科学技術の発達はその弊害や、地球環境の限界という負の側面も明らかにさせた。  知性は人間全体から見れば、人間の心を構成する知・情・意の中の一つに過ぎず、この三者の調和的発達こそが望ましい。同様に人類文明の理想は、精神的文化と科学技術による物質的繁栄との調和的発展にある。過去の世界の歩みは、その理想を無視して物質的繁栄だけを目指してきた結果、精神文化は置き去りにされて科学技術だけが偏重される形で進歩してきた。  科学技術に偏して人間らしい心を喪失した現代は、各地で飢餓と殺し合いの地獄絵巻を繰り広げている。先進国では神を恐れぬ人たちが悪質かつ巧妙な手段で権力と富を独占するゲームに狂奔している。  嘆きの預言者エレミヤは言う。「かごに鳥が満ちているように、彼らの家は不義の宝で満ちている。それゆえ、彼らは大いなる者、裕福な者となり、肥えて、つやがあり、その悪しき行いには際限がない」と。記念すべき年の最初の稿を嘆きの言葉で締め括るのは残念至極だが、「大いなる悲観は、大いなる楽観に通ずる」ことを信じて、「神には栄え、人には安らぎ」を念じつつ、新年のスタートを切りたい。(二〇〇〇年一月号)  「児童の世紀」の実現を  西洋には昔から「鞭を惜しめば子どもを損なう」という諺があり、教師が鞭を持ちながら授業をしている光景が日常的に見られた。日本でも「愛の鞭」とか「鞭撻を乞う」という言葉があるように、子どもは厳しく育てるのが正しいように考えられてきた。ところが、今世紀に入って、スウェーデンの婦人運動家エレン・ケイは「二十世紀は児童の世紀」と宣言したのである。これは、当時の教育の通念を百八十度転換するものであった。 「児童の世紀」という意味は、従来の外的強制による教育から、児童の内にある生命の自然的発達を尊重する教育への転換を指すもの。子どもに輝かしい未来を予言する響きをもって、全世界に広がっていった。リーツの田園教育舎(一九〇一年)やモンテッソリの子どもの家(一九〇六年)、少し遅れてシュタイナーの自由ヴァルドルフ学校(一九一九年)などが次々に設立されて、新教育の実践が始まった。  日本でも成城小学校(大正六年)、自由学園(大正十年)、児童の村小学校(大正十三年)などが設立されている。また、「からたちの花」「故郷」「叱られて」などの美しい童謡も、こうした雰囲気から生まれたものであった。  しかし、二十世紀は決して児童の世紀とはならなかった。二度にわたる大戦があり、戦後は児童尊重の理念は謳われたが、現実には経済成長優先の時代となり、豊かな感情を育む美しい自然は失われていった。その上、子どもを受験競争に駆り立てる学歴偏重の風潮の中で、子どもは常に強いストレスに悩むようになる。子どもたちの歪んだ精神生活は、家庭内暴力や不登校、いじめ、校内暴力、家出、自殺など次第にエスカレートしていった。その行き着いた先が、児童虐待の激増という殺伐な世相である。  最近では毎日のように児童虐待の事件が報道されている。九八年に警察署に寄せられた児童虐待の相談は四百十三件で九四年の三・四倍に当たるという。件数は年々増加の傾向にあり、その内容も苛酷化してきている。百五件の虐待事件において虐待された児童の年齢は、一歳未満三十四人、一歳十五人、二歳七人と続き、零歳から二歳までに過半数を越えている。これは、親が幼児の育て方、扱い方に困惑し、疲労して、衝動的に暴力を加えたり、養育を放棄している実態をうかがわせる。  冷戦に勝利し、史上空前の繁栄に沸くアメリカでも、学校内での銃撃事件が各地で頻発しており、児童虐待も表面化したものだけで年間三百万件、それによる死者は二千人にも及ぶという。しかも、その傾向は年々増加し、過去十年間で倍増している。  発展途上国では飢えと病気に苦しむ大勢の子どもがいるし、コソボやチェチェンなどの紛争地帯では、難民化した子どもたちの悲惨な生活がある。また、少年兵として戦場にかり出される子どもたちもいまだに多い。このように見てくると、「二十世紀は児童の世紀」の宣言は幻影に過ぎなかったのであろうかとも思える。  二十世紀最後の年に、もう一度、二十世紀初頭の新教育運動を思い起こし、リーツの掲げた理想に耳を傾けたい。リーツは、田園の中に学び舎をおいてこそ教育は可能になると考えていた。「肉体と魂において健全で、感受性の豊かな、明晰に思考する、実行力ある青少年は、町から離れ、森と山と静けさの中で育成されるであろう。神と郷土と同胞を愛し、とりわけ、すぐれたもの、高貴なもの、すべての美しきもの、善きものに喜びを見出す青年が育成されるであろう」と書き残している。  それを、単なる理想論と片付けてはいけない。都会の中にある学校でも、さまざまな工夫で自然を取り込んだ教育は可能である。子どもたちを健全に育てることを目的におけば、そのための手段を講じることは大人の決意次第でできる。問題なのは、未来に対して夢を持たなくなることである。それは、子どもたちの環境を真剣に考えないことにつながる。本誌二月号で紹介された西條隆繁校長のように、自然の中に理想的な学校をつくるため、第二の人生を賭けた人がいることに希望を感じる。(二〇〇〇年三月号)  「人間のため」に生きられるか  今日は情報化社会と言われて、身辺に実に多種多様な情報が流れているのだが、その多くは耳に入っても素通りしていくものが多い。とりわけ、仕事一筋に過ごしてきた男性は、「世事に疎い」と言われる。私などもその一人だが、「いざとなれば何とかなる」と高をくくっている。しかし、実際には何ともならないのが医療と介護である。  以前は「病気になったら医者まかせ」というのが常識だったが、今では患者も自分の病気の性質やその治療、投薬される薬の性質などについても、それなりに知っていなければならない。そうでないと、「たかが目薬」と思って医師の注意も気にかけず不用意に点眼したら、副作用で気管支ぜんそくや心不全を起こし、緊急入院となることもある。そこで、医師と患者の双方の責任で治療を進めようという考えが、最近の「患者の自己決定」とか「医師の説明責任」である。  介護についても知らないことが多い。身内に介護を必要とする者が出てから、あわてだすのが普通である。地域の福祉事務所に行っていろいろ説明を受け、初めて介護という仕事の幅の広さ、奥の深さをかいま見ることになる。介護サービスについても、公的、民間さまざまなタイプがあるが、それでいて自分の家族にぴったりのサービスは容易に見当たらない。  しかし、私の小さな経験からしても、万人が満足する医療や介護を望むというのはしょせん無理であろう。なぜなら、ベースとなる公的サービスは公平性が大切なのだが、医療や介護は個別性の極致にあるものだからである。個人の肉体的、精神的状況、家族環境や経歴、人生観などにより、受けたいサービスの内容は異なってくる。たとえ、理想的な福祉社会が実現しても、介護を必要とする人に、十分なサービスを施すようにするのは容易なことではない。  そこで、限りあるサービスの中から、医師と患者、介護者と被介護者が共に満足するようなメニューを選択することが重要になってくる。この場合、満足とは「心の満足」である。なぜなら、医療や介護は病気を治す、世話をするというだけでなく、究極のところ個々人の生き方を理解し、その努力を支え、励ます「心のケア」に行き着くからである。  このように考えると、医療者や介護者は、人間の生と死について、さらには自らの生き方について、はっきりした考えを持っていることが求められる。心の満足は、他者との間に何らかの観念を共有する、そして互いの関わりを実感できることから生まれるからで、そのためには働きかける側の心の広さ、深さ、柔軟さが必要なのである。  相手のことをよく知っているという意味では、看護や介護は家族がするのが最も自然であろう。きめ細かい配慮も、心を満たす会話もできる。介護は身体的にも、精神的にもかなりハードな仕事であるから、人間に対する深い愛情がなければ長続きしない。  しかし、家族に過度な負担を強いることは、介護ゆえの家族崩壊を招きかねない。また、家族の多くは介護の素人であるから、介護のプロに頼むことで、技術的に解決できる問題も多い。つまり、家族の愛情を中心に、外部のサービスを利用するということになる。そこで重要になるのは、そうしたサービスのコーディネーターである。地域の民生委員などがその役割を担っているが、数が少ないため、この分野でのボランティアの活躍が期待されている。  こうした看護や介護に携わるボランティアには、何よりも人間に対する普遍的な愛情が望まれる。夏目漱石は『こころ』の中で、次のように書いている。 「そのうち、妻の母が病気になりました。医者に見せるととうていなおらないという診断でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに人間のためでした」(一九九八年十月号)  女子留学生の弁論に感銘 東京・三田の慶応義塾大学の校内に演説館と名づけられた古い建物がある。ここは同大学の創立者、福沢諭吉が明治八年五月に、日本で初めて演説を試みた場所として知られている。それ以前の日本では、多くの聴衆を前に政治や社会に関する自分の意見を述べるという習慣がなく、もし意見があれば紙に書いて上司に提出するというのが普通であった。  さらに日本人、とりわけ武士は寡黙であることがよしとされ、冗舌の徒は品性の卑しい者と見られていた。まして女性が公的な場所に出て自分の意見を述べるなどは、出過ぎた、はしたない行為とされた。わが国には古来「言挙げせぬ」ことをよしとする伝統があったのである。こうした文化は、民主主義の社会となり、言論が重要な役割を演じるようになった今日でも容易には変わらない。まして外国人を前にして、外国語で堂々とスピーチができる日本人はまだまだ育っていない。  これは国際化が急速に進んでいる今日、日本の教育の大きな課題とされており、高校や大学では「プレゼンテーション」という科目を設け、自分の考えを適切に他人に伝える技術やマナーを学ぶところが多くなった。しかし、その成果はいまだ十分とは言えない。  こうした折、去る十月十一日、世界平和女性連合主催の女子留学生日本語弁論大会を聞く機会があった。予選から選抜された八人の女子留学生が「私の抱負」や「私の国と日本」などの演説で熱弁を振るった。選ばれて留学生となって来日した人たちであるから、いずれも優秀なのは当然だが、彼女らの活発で堂々としている発表ぶりには驚嘆した。そして、日頃、大学で多くの女子学生と接している私は、無意識に日本の女子学生との比較をしていた。そして、日本の女子学生らが異国の地で外国語を使って、果たしてこれだけのスピーチができるだろうか? と思った。  八人の発表が終了した時の第一印象は「誰もが甲乙つけ難いほどの出来だから、審査に当たる人たちは大変だな」ということだった。まず、感心したのは、彼女らが一様に優れた自己表現力の持ち主であることだ。国際社会での自己表現力というと、すぐに実用的な語学力と受け取りがちだが、彼女らは聴衆に全身をフルに使って自分の個性をアピールしていたし、豊かな顔や手の表情が言葉以上に雄弁なコミュニケーションの道具となって語りかけてくるのである。その上、何よりも感心したのは、自己の主張を聴衆によく理解させるために、種々の工夫をこらし、周到な準備をしていることである。実用的な語学力も自己を表現する大切な道具であるが、それだけでは不十分である。何よりも自己を表現しようとする積極的な態度、自己を他人に理解させようという熱意が重要である。  それとともに、巧まざるユーモアがスピーチの中でポンポンと飛び出して、思わず聴衆の笑いを誘うことがしばしばあった。生活そのものがゆとりとユーモアに満ちていないと、自然に出てくるものではない。  第二に胸を打たれたのは、彼女らが祖国に奉仕するために勉学に努めているという明確な使命感と確固とした目的意識が吐露されたことであった。こうした使命感と目的意識は、津田梅子のような明治の女子留学生にも見いだされたが、彼女らの祖国を愛する熱情と学問へのひたむきな意欲に接して、すでに私たちが失いかけている大切なものを改めて顧みる機会となったのである。  今日、日本の学生の中には、明確な目的意識もないままに大学に入学してくる者が少なくない。そうでない者でも社会に出てからより有利な仕事につくことを目的に自分の能力を高めようとしているのが多い。彼らには、自分を超えた、より高い目的の達成のために学ぶという使命感は見られない。使命感を持たず、目的も明確でない者には奮起して勉学する勤勉さがないから、彼らの能力は生来のもの以上に伸長することはほとんど期待できないわけである。八人の女子留学生の素晴らしい発表を聴きながら、私は日本の女子学生の未来に想いを馳せていた。(一九九七年十二月号)