これからの和

『これから和―賢哲に学べ』

  武藤信夫著、アートヴィレッジ
  2010年4月上旬発行予定


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      目 次

 序章

  戦後復興のモデルとして注目された二宮尊徳
 「和」で読み解く日本の倫理思想史
  日本は「和」で世界に貢献を!
 
第一章 なぜ今「和」の思想なのか
 「和」とは日本人そのもの
 「和」の思想の世界展開――「国際大学」の創設
 「真の和」でつくられた日本
 「和の思想」を消失してしまった日本人
 「真の和」と「偽の和」
  蔓延する「神なき個人主義」
  他者との関係性こそが私
 
第二章 聖徳太子に現れた「和」
 仏教の理想を実現した日本
「聖徳太子」という幸運
 内憂外患の時代に誕生した聖徳太子
 憲法十七条とは?
 聖徳太子の「和」はどこから来たか
 「十七条」は官僚のために書かれた憲法
 「和して同ぜず…」
 「もろもろの善いことを実行しなさい…
 広く崇拝された和国の教主、聖徳太子
 太子信仰の広がり
 法然と親鸞
 浄土真宗と太子講
 
第三章 藤原惺窩と角倉了以・素庵
 武の時代から文の時代へ
 公家に生まれ、禅宗と朱子学を学んだ藤原惺窩
 「徳川殿とは相容れぬ」…権力に屈しなかった惺窩
  惺窩と姜との出会い
  惺窩によって芽生えた企業倫
 公共事業を行った京の豪商、角倉親子

第四章 二宮尊徳――「分度」に見る和
 「人を幸福にすること」――ドラッカー教授と尊徳の思想
 行き詰まった幕藩体制の時代に生まれた二宮尊徳
 村おこしのマニュアル「報徳仕法」
 「彼らに一金を下さないことが救済の秘訣」――小田原藩桜町領の再建
 やっとの面会――相馬藩の仕法
 百八十九年間の綿密な調査を尊徳に報告
 「仕法」のために村を選定
 人の「和」で仕法が進展する…
 没後も継承した相馬藩の信義
 江戸末期の思想家たち
 明治・大正・昭和期の尊徳像
 戦後の占領政策と二宮尊徳
 尊徳を日本民主化のモデルに
 民主報徳キャンペーンの挫折

第五章 賀川豊彦の友愛と和
 友愛社会の実現
 賀川の「献身百年」に考察する友愛社会の未来
 妾の子として生まれた賀川豊彦
 事業は愛の実践である
 「友愛」とは「和」である

第六章 昭和天皇が蘇らせた日本の和
 日本の心を生きて
 天皇家が存続している理由
 米国式民主主義から天皇制民主主義へ
 平田篤胤と国家神道
 「罪を憎んで人を憎まず」の日本人
 憲法制定と天皇
 「いろかへぬ松ぞををしき…」
 懺悔から再出発した日本
 戦後復興に捨て身で貢献された昭和天皇

第七章 木川田一隆に見る和の経営
 協調主義を唱えた哲学的な財界人
 木川田がヨーロッパで受けた高い評価
 「人の誠意はいつか通じる…」――労働問題に取り組む
 個人の生きがいと企業の社会貢献――個と全体の調和を求めて
 和の思想を日本から世界へ



 グローバリズムと「和」の復権
哲学者 武藤信夫氏に聞く

「真の和」で日本の再生を

 グローバル経済の浸透で格差社会が広まり、行き過ぎた個人主義と相まって、
人と人とのつながりが薄れつつある今、哲学者の武藤信夫さんは日本古来の伝
統思想の研究か ら、「和」の復権を提唱している。和の真偽を見極め、真の
和を取り戻すことが日本再生のカギになるという。
   (聞き手=フリージャーナリスト・多田 則明)

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○――――○ 
一体であるべき道徳と経済/報徳思想で格差解消

 むとう・のぶお 昭和3(1928)年、岐阜県生まれ。日本倫理思想史、経済思想史、
企業者史学専攻。国際大学の創設に携わる傍ら、聖徳太子や藤原惺窩、角倉了以、角倉素
庵、二宮尊徳を研究、多くの著作がある。鳥取大学講師などを経て現在、日本精神文化研
究所上席研究員、日本民俗経済学会理事など務めている。最近、日本経営倫理学会で発表
した「グローバルビジネスエシックスと企業の社会的責任」「ユーロビジネスエシックス
と和の再生」は経済界に衝撃を与えた。 民俗経済学者、日本精神文化研究所所長

 ―― 
武藤さんが日本の和の思想に注目したのはいつからか。

 戦後、私は近衛文麿の側近だった後藤隆之助が主宰する「昭和研究会」の流れをくむ昭
和同人会で活動していた。元満鉄調査部の人たちが中心で、後に国際エコノミストから外
相になる大来佐武郎もいた。

 一時はマルクス主義に傾倒し、全学連の武井昭夫初代委員長や安藤善兵衛らと共に活動
していたが、二宮尊徳を「体制派の犬だ」と言う彼らとは次第に一線を画すようになった。

 マルクス主義は階級の消滅を目指していたが、共産主義国は結果的に資本主義よりひど
い階級国家になった。階級を無くすには尊徳の調和の思想の方が実践的だと思う。

 二宮尊徳が説き広めた報徳思想は立派な経済思想だ。経済と道徳の調和を訴え、私利私
欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く。至誠が実践の第
一で、至誠の状態で日常生活のすべてを行うのが勤労。至誠が消費活動にも現れたのが分
度で、節約に近い。最後に分度して残った剰余を他に譲るのが推譲で、単なる贈与ではな
い。至誠、勤労、分度、推譲が報徳思想に基づく生活だ。

 もっとも、私がマルクス主義と相いれなかったのは、何より教師やみそ・しょうゆの商
売をしながら岐阜の大きな八幡の副神官を務めていた父の祝詞を聞きながら、清き明(あ
か)き直き心の調和の原理を徹底的に教えられたことが大きいと思う。

 その後、私は国際日本協会(五十嵐隆代表)に移り、調査・研究活動をするようになる。
「アジア政治経済年鑑」発行のほか、中近東、ラテンアメリカの事典や『ソ聯邦産業貿易
総覧』などを作り、国際経済学会と提携する月刊誌「世界経済評論」は今も続いている。

 私は当初、途上国の研究をしていたが、やがて雑誌の編集を担当するようになり、専門
家に学びながら、経済、経営から思想、哲学に関心を移していった。やがて、渋沢栄一が
言うように、道徳と経済は一体であるべきだと考えるようになり、尊徳に注目した。報徳
思想によれば極端な金持ちも貧乏人もいなくなり、みんなが希望を持ち、助け合い、信じ
合って暮らせる。尊徳の報徳思想を知ったGHQ(連合国軍総司令部)民政局改革派の人
たちは、ニューディールより優れていると評価し、「民主報徳」として全国的に推進した。

 その後、私は昭和三十九年に五省(大蔵・通産・外務・農林・経企)共管法人の世界経
済研究協会を設立し、二十年後の昭和六十年の日本を構想する「一九八五年の世界貿易長
期展望プロジェクト」を企画、五省庁と経済同友会の支援の下と、三百余名の専門家の協
力を得て、全六冊の報告書を刊行した。

 ――
昭和五十八年、新潟県南魚沼市に開学した国際大学の創設にかかわった経緯は?

 日本が国際化するにつれ、日本人は国際化とは海外でもうけることだと思うようになっ
た。しかし、本当の国際化とは、世界に学び、国内を国際化することで、学問にしても、
国内にその拠点をつくる必要があった。そのモデルが五族協和を理想とした満州の建国大
学だ。

 国際大学を構想したのは、旧満州国の官僚で、戦後、アジア経済研究所や貿易大学校を
創設した藤崎信幸氏。戦後日本の経済復興をデザインしたのは旧満州の官僚だといわれる
が、藤崎氏もその一人だ。戦後の日本はアジアと共に生きるしかないと考えてきた藤崎氏
が、最後に取り組んだのが国際的な人材を育てる大学院大学だった。

 ところが、大学設立準備財団の事務局長を務めていた同氏が脳溢血(いっけつ)で倒れ、
政財学官界に知人が多かった私が、昭和四十七年に事務局長代理として同氏の仕事を引き
継ぐことになった。国際大学は環太平洋の十七カ国の大学と単位を認め合う連合大学構想
を持っていた。それは、まさに和の思想の世界展開と言える。

 ―― 和の思想では聖徳太子が有名だが、武藤さんが注目している人物は?

 江戸儒学の源流、藤原惺窩(せいか)だ。惺窩は「異の中に同を見、同の中に異を見る」
など、日本的和の原理を展開している。荻生徂徠は「日本の学問の始まりは菅原道真、倫
理の始まりは藤原惺窩」と書いている。惺窩が「和は同ではない」というのは、異の中に
も共通のものがあるという意味。それを大きくしていく努力が必要だ。対立と抗争ではな
く、調和によって競い合い、高めていく。真の和は静止的なものではなく、躍動的なもの
である。さらに惺窩は、「小異を捨てて」ではなく、「小異を尊び、大同に立つ」と言っ
た。これは世界でも最高の哲学だと思う。

 惺窩は歌道の下冷泉家に生まれたが、京都相国寺に入って禅僧となり、朱子学を学んだ。
その後、慶長の役で日本の捕虜となった朝鮮の儒者、姜―(カンハン)との交流を通して、
それまでは京都五山の僧の教養だった儒学を体系化した。さらに、朱子学を基調とするが
陽明学も受容し、これが日本的な江戸儒学となる。

調和によって競い、高める/付和雷同は「偽の和」


○――――○―― 
和は日本の風土の中で培われたのか。

 日本は、ユーラシア大陸から分離して列島になった豊饒(ほうじょう)な地で、周辺の
諸国から各民族が渡来し、共存共栄の道を求めて各自の奉斎する神を尊敬し合い(八百万
の神の誕生)原始民主共同体をつくった。そこでの生活と共同作業は「清き明き直き心」
による調和によって行われた。その調和を「和する」といい、ここに和が生まれた。

 日本の古代思想について研究している哲学者の梅原猛さんは、和は縄文時代にできたと
言っている。六千年前の縄文集落は、中央の広場を取り囲んで、住居がほぼ等距離の環状
に配置され、構成家族の平等性を示している。この時代に真の和が生まれたと思う。

 古事記神話では、天照大神(あまてらすおおみかみ)が姿を隠した時、八百万の神々は
「天安河原(あまのやすがわら)の神集い」で対策を話し合っている。三世紀ごろには、
まだ原始民主制が残っていたのだろう。

 その後、各地に権力者が現れ、民衆支配に和の理念を恣意(しい)的に用い、付和雷同
型の和が日本精神のようになるが、これは偽の和と言える。真の和は政治権力により絶え
ず脅かされてきたが、「結(ゆい)」に見られるように真の和は民衆の間に生き続けた。

 聖徳太子は豪族たちの対立、抗争を取り除こうと、十七条の憲法で真の和を説いた。そ
れを受け継いだ山背大兄王(やましろのおおえのおう)は孤立し、蘇我氏に攻め立てられ
る。しかし、山背大兄は民が苦しむとして戦うことを選ばず、一族が自害して果てること
で真の和を貫いた。

 その後、真の和は江戸初期の藤原惺窩によって日本的倫理として体系化される。これは
カントが普遍的倫理を唱える百八十年前のことで、日本の和の思想は世界に先んじている。
江戸中期には惺窩を日本的倫理の創始者とした荻生徂徠が現れ、石門心学の石田梅岩は商
業倫理を、二宮尊徳は農業倫理を説いた。彼らの思想が近代化の精神的基盤となる。

 ―― 
明治以来の富国強兵の国造りは、真の和とは言えないのでは?

 確かに、西洋列強の植民地にならず、彼らのグローバル・スタンダードに合わせるため、
日本はかなり無理を重ねた。そのため、廃仏棄釈の混乱や士族や農民の反乱などに見舞わ
れる。しかし、日本が自主的な憲法制定や国会開設などにより、短期間に国民国家の形成
に成功したのは、やはり江戸時代に培われた和の思想が、国民に浸透していたからだろう。
日清・日露の大戦を通して国民軍が確立した。産業界では、武士から経済人になった渋沢
栄一が儒教道徳に裏付けられた経営を唱え、日本型資本主義が生まれた。

 ところが、日露戦争後、軍部が政治をリードするようになると、日本の和が崩れ、やが
て無謀な戦争に突き進んでしまう。その戦争を終結させ、奇跡の戦後復興を果たしたのは、
和が機能したからだ。東京電力の社長から経済同友会代表幹事を務めた木川田一隆が「個
と全体の調和」の思想を挙げたように、和の思想は現代の経営者にも受け継がれている。

 ―― 
バブル経済以降、その和が崩れている、と。

 古代から現代まで和の思想を調べると、現在の和の思想は偽であると判断せざるを得な
い。例えば、自己の責任を放棄した周りへの同調が和の思想だというのは大きな誤りで、
本来の和の思想は、自己主張であり、自己責任、そして自利と他利の調和でなければいけ
ない。今の日本の混迷の一番の原因は、真の和と偽の和の区別がつかなくなってしまった
ことにある。

 その顕著な表れが、アメリカ資本主義に発したグローバリズムへの迎合だ。弱肉強食の
むき出しの市場主義で、ビジネスに勝つことが最優先される。企業経営では株主の利益を
上げることが第一とされ、結果的に、わずかな上層部が富の大半を所有する格差社会が生
まれている。

 他方、EU(欧州連合)は、調和と共生の原理に基づく共同体を国境を超えて拡大し、
より進んだ国が後れた国を援助しながら、一体的な経済圏づくりに成功しつつある。日本
も東アジアにおいて、EUをモデルに自然と人間、農業と工業、途上国と先進国が調和・
共生する経済共同体を目指すべきだ。



「アジアに道を求めて−藤崎信幸追想文集」


 著:故藤崎信幸追悼記念事業世話人会 発行社:論創社
 総頁数294 発行日 昭和60年07月30日 1985

まえがき(板垣與一)

1.アジアに道を求めて 遺文・遺稿より(藤崎信幸)
 大同の世界像と学院精神
 国際協力と東洋思想−21世紀の灯火は見える
 アジ研の源流〔崖麗介〕−前史を彩る系譜と組織

2.追想の藤崎信幸
 絶筆−同期生への近況報告(甲斐卓)    師道訓練所の創設(廣橋博光)
 貿易研修センターと富士宮市(笠井賢一)  着想力と行動力の人(大来佐武郎)
 死を惜しむ(佐島敬愛)          創業の人、種を播く人(藤井茂)
 地域研究の理解者(河部利夫)       藤崎さんと一杯のコーヒー(矢内原勝)
 藤崎さんと私(島野卓爾)         永遠の求道者(喜多村浩)
 夢を追う−アジアから世界へ(野田寅次)  人使いの名人(大曲正一)
 組織的実行力の人(内田直作)       大晦日の原稿料(佐藤和男)
 中原に鹿を逐う(根岸富二郎)       強烈なカルチャー・ショック(山内武夫)
 「現地主義」への情熱(田部昇)      誇り高いロマンチスト(萩原宜之)
 広報出版部長時代の藤崎さん(田中生男)  木挽館時代(嵯峨座晴夫)
 いつか二人は涙した(山田達宏)      不退転の使命感(左治木吾郎)
 国際大学にかけた情熱(石井貫一)     
大同の世界観に生きた人(武藤信夫)
 人間信頼の思想と行動(桶舎典男)     一筋の道(石沢芳次郎)
 プロモーターの悲哀(栗本弘)       異色の親友を偲ぶ(原覺天)
 馬上の副県長(山本登)          アジアに道を拓く(川野重任)
 運命への挑戦(板垣與一)

3 足跡を偲ぶ
〔追想座談会その一〕藤崎さんを偲ぶ−アジア経済研究所設立をめぐって
 出席者(小長啓一、斎藤成雄、森崎久寿、田中誠一郎、石井貫一、林信太郎)

〔追想座談会その二〕回想の藤崎さん
 出席者(甲斐卓、桶舎典夫、栗本弘、田中すみ、萩原宣之、武藤信夫、野田寅次、
    根岸富二郎、川野重任、山本登、板垣與一)
 略年譜あとがき

第1部 角倉了以に学ぶー経営倫理の観点から 詳細
 武藤信夫日本企業史センター所長

 武藤氏は、1996年社会公正・倫理委員会設立構想を発表、鈴木博雄氏が中心となって
同年8月、問答形式の『なぜ、今、社会公正・倫理委員会が設立されなければならない
のか?』の小冊子を発表。その後、武藤氏は、経営倫理学会創設に努め、昨年は東京
倫理フォーラム創設を試みられました。

 「世界一、徳のある国言われた、わが国も、今や昔日の面影は無く、特に指導者
(政治家・官僚・経済人・言論人・文化人・学者)程、その人性(人格と品性)を
喪失し、今日の危機になす術もなく、経済効率化の波に呑まれ、人間社会構築の土台
である、倫理・道徳が軽視されています。このままでは、日本の将来がありません!
 現在の混迷する根本原因を追求し、危機を乗り越えてきた先達の人間力に学びながら
 新しい倫理・道徳を明示し、実践して行きたい」

『グローバル化と民俗文化』2005.12.23 編者:日本民俗経済学会
 出版社:現代図書¥2667円+税

<内容紹介>
 本書は、日本民俗経済学会の会員によって書かれたものである。
民俗経済学とは、日本と世界の各地域に生活する人々の暮らしを、
それぞれの地域の文化や慣習と、経済や社会制度の相互依存関係
において捉え、この立場から日本と世界各地の経済や社会制度ない
しは人々の暮らしを分析する学問である。
<目次>
第1部 民俗経済学の理論と各地域の分析
 第1章企業経営に見られる儒教精神 第2章生命と健康を考える
 第3章EU指令とモーリタニア漁業 第4章 拡大EU研究序説
 第5章 中国オフショア開発現場からの報告
 第6章 留学生政策 第7章 民俗学が拓く経済,貨幣,市民社会

第2部 民俗経済の調査資料と随想
 第1章 播種集――日本の統治時代の台湾農民運動人物誌
 第2章 山人の旅  

武藤信夫氏による「生命と健康を考える〜食の主権を求めて」は、
身土不二や一物全体といった言葉に象徴される日本の食文化が、
第2次世界大戦以降の米国の食農面の世界戦略によってどのよう
に破壊されてきたかを明快に論じている。そして武藤氏は、食の
主権を尊重して国際標準をつうじた共存共栄を図ろうとするEU
流のグローバル化を、食の主権を否定して自身の利益のみを計ろ
うとする米国型のグローバル化に対峙させている。