『日本再生のビジョンを語る』

 
  アサヒビール株式会社名誉顧問
  中條高徳氏


 
 プロフィール 
 中條 高徳(なかじょう たかのり)氏。1927年長野県生まれ。陸軍士官学校60期生。旧制松本
 高等学校を経て学習院大学法学部卒業後、アサヒビール株式会社入社。1982年常務取締役営業
 本部長として「アサヒスーパードライ」作戦による会社再生計画を実行。大成功を収める。
 1988年代表取締役副社長に就任。アサヒビール飲料株式会社会長を経て現職。社団法人日本国
 際青年文化協会会長も務める。

 
主な著書:『おじいちゃん戦争のことを教えて―孫娘からの質問状』(致知出版社)
       『企業の正義』(ワニブックス)などがある。

 この講演要旨は、2009年12月10日に開催されたNPO法人未来構想戦略フォーラム主催による
 「第92回未来構想フォーラム」での講演内容を要約したものです。質疑を含めた内容はDVDを
 ご視聴ください。纏めるに当り「日本講演」中村編集長に多大なご足労をお掛けしました。篤
 くお礼を申し上げます。


 国家というものは、皆さんが考えているほど、穏やかで優しいものではありません。
 そこでは常に国益というものがすり合わせられていて、ときには国益を優先するあまり、国
 民に牙をむくときだってあるわけです。
 そもそも国益とは、国の担う役割と言い換えることもできて、第一に領土を守ること、第二
 にはそこに生きている国民の命を守ること、そして第三には国民の暮らしと財産を守るという、
 この三つの役割のために、国家は形成されていると言うことができます。

 ところが現在の日本を眺めますと、残念ながらこの三つの役割を果たしているとは到底言え
 ず、国家の代表者である内閣総理大臣からして、なんとも頼りない限りです。 今から65年以
 上も前になりますが、それこそ太平洋戦争の頃を顧みますと、確かに日本は貧しくて苦しい生
 活を送っていましたけれども、一人一人が凛として、この国を良くするため、そしてアジアを
 良くするために、懸命に生きていたことは明らかです。

 ですから、アジア各国からも多くの逸材が学びに来ていて、私はその頃、陸軍士官学校で学
 んでおりましたが、その一期先輩には、マレーシア建国の英雄で、上院議員も務めたことのあ
 るラジャー・ダト・ノンチックさんが在籍されていました。


 
―本当の日本人を知っている私たちは 
             歯がゆくて悔しい想いがする―


 そのノンチックさんが、日本の敗戦後マレーシアに戻り、戦後の経済復興を成し遂げた現在
 の日本の姿をみて、このような嘆きの詩をお作りになっておられます。

 ―かつて日本人は、清らかで美しかった。
 かつて日本人は親切で心豊かだった。
 アジアの国の誰にでも、自分のことのように
 一生懸命尽くしてくれた。
 何千万人もの人の中には、少しは変な人もいたし、おこりんぼやわがままな人もいた。自分の
 考えを押しつけて、威張ってばかりいる人だっていなかったわけじゃない。
 でもその頃の日本人は、そんな少しの嫌なことや、不愉快さを超えて、おおらかで真面目で、
 希望に満ちて明るかった。

 戦後の日本人は、自分たち日本人のことを悪者だと思いこまされ、学校でも、ジャーナリズム
 も、そうだとしか教えなかったから、真面目に、自分たちの父祖や先輩は悪いことばかりした
 残酷無情なひどい人たちだったと思っているようだ。

 だからアジアの国に行ったら、ひたすらペコペコ謝って、私たちはそんなことはいたしませ
 んと言えば良いと思っている。そのくせ、経済力が着いてきて技術が向上してくると、自分の
 国や自分までがえらいと思うようになってきて、うわべや口先だけでは、すまなかった、悪かっ
 たと言いながら、ひとりよがりの自分本位のえらそうな態度をする。そんな今の日本人が心配
 だ。
 本当にどうなってしまったんだろう。

 日本人はそんなはずじゃなかったのに本当の日本人を知っている私たちは、いまはいつも歯が
 ゆくて悔しい想いがする。自分のことや自分の会社の利益ばかり考えて、こせこせと身勝手な
 行動ばかりしている。ヒョロヒョロの日本人はこれが本当の日本人なのだろうか。自分たちだ
 けで集まっては、自分たちだけの楽しみやぜいたくにふけりながら、自分がお世話になって住
 んでいる自分の会社が仕事をしているその国と国民のことをさげすんだ眼で見たりバカにした
 りする。こんな人たちと本当に仲よくしてゆけるだろうか。どうして、どうして日本人は、こ
 んなになってしまったんだ―

 このような詩に託して、ノンチックさんは外国のリーダーであるにもかかわらず、日本の精
 神的な衰退ぶりを嘆いておられるのですが、ではいったい、これほどまでに彼の心を動揺させ
 た原因とは、どのようなものだったのでしょうか。
 私は、その最大の原因は、やはり65年前のアメリカによる占領政策が、極めて巧妙だったせ
 いではないかと考えています。

 アメリカは実に巧妙な間接統治を画策し、賢い日本人に気づかれないように、日本人の魂を
 抜くという作戦を、6年8ヶ月間にわたって実行したのです。


 
―十九世紀になる頃にはアジア諸国も植民地化の波へと
               飲み込まれていきました―


 そしてなぜアメリカが、そこまでして日本を無きものにする必要があったかといいますと、
 それは連合軍である欧米先進諸国が、いやというほど我々日本人の優秀さを認めていたからに
 他ありません。
 日本民族が優秀でなければ、あれほどまで丹念に、知恵と工夫を働かせて占領政策をとる必
 要はなかったのでして、このことは歴史をさかのぼって考えてみても、日本人の優秀さの根拠
 となる出来事の数々をひも解くことで、さらに明らかとなります。
 そもそも、今から500年ほど前に始まった大航海時代では、スペインやポルトガルが世界の先進国でした。

 船による航海技術が進んで、ヨーロッパからアフリカ大陸、そして新大陸であるアメリカへ
 と、どんどん舳先が伸びていったのがこの時代だったのです。
 そして船がたどり着いた先々で何が行われたかといいますと、現地の産品を奪い、人間を奴
 隷にして、自国の領土に変えてしまうという、いわゆる植民地政策なるものが横行していきま
 した。
 もちろん、こんな都合のいいことを、他の国も放っておくわけがなく、ほどなくオランダが
 追随し、後に七つの海を征服したイギリスも後を追って参加してまいります。
 こうして世界の植民地化が進み、やがて19世紀になる頃には、インドを初め、ミャンマーや
 マレーシアやインドネシアなどのアジア諸国も、植民地化の波へと飲み込まれていきました。


 
―日本も清のように西欧諸国の食い物に
             なってしまうのではないか― 

 その波の中で、我々日本を含む東洋エリアはどうだったかといいますと、最も大きな中国は、
 当時は清と呼ばれていましたけれども、イギリスとアヘン戦争(一八四〇年〜一八四二年)を
 戦い、負けてたじたじとなっていました。
 唯一、国家として西欧の列強諸国から侵害されていなかったのは日本だけで、考え方によっ
 てはタイ王国も独立はしていましたけれども、実際は周囲のほとんどを食い物にされていたこ
 とからしても、やはり日本だけが、完璧にノータッチの状態で、植民地化の魔の手から逃れて
 いたわけです。
 ところが1853年7月8日、浦賀にアメリカ海軍の東インド艦隊司令官だったペリー(Matthew
 Calbraith Perry 1794年〜1858年)が、四隻の軍艦を率いて入港したのをきっかけに、とうと
 う日本も植民地化の危機に立たされます。
 開国後に結ばれた日米修好通商条約にしても、表向きは互いに商売をしようということでし
 たが、実際にはとんでもない不平等条約で、日本からは金や産品が、どんどんとアメリカをは
 じめとする列強国へ吸い取られていきました。
 それにより、このままでは日本も清のように、西欧諸国の食い物になってしまうのではないか
 と恐れた私たちの先輩たちは
 「近代国家になることこそ、植民地化から逃れる方法である」
 と気づき、紆余曲折を経ながらも、アジアで最も早く近代国家作りに成功いたします。


  
―人間づくりといったものが社会全体の仕組みの中で
                  見事に機能していた―


 そのような英断と、それを貫き通すだけの実行力が備わっていたことにこそ、日本の底力や、
 その後の発展の基礎が見え隠れしているのでして、いわゆる日本人の優秀さを裏付けているそ
 の背景には、教育というものの大切さとその徹底が、大きな意味を持っていたと思われます。
 なかでも、当時の日本のリーダーというのは、武士階級にあった侍と呼ばれていた人たちで
 したが、彼らは幼い頃からそれぞれの藩校で『四書五経』をはじめとした人間学を学ぶことに
 より、人間の幅を広げ、人間の奥行きを深くしていました。
 また、藩校に通えなかった一般庶民の子弟たちも、寺子屋で読書や習字や算数の基礎的な知
 識と学力を習得していて、いわゆる読み書きそろばん≠こなせる人間づくりといったもの
 が、社会全体の仕組みの中で、見事に機能していたわけです。
 ところが現在はどうでしょう。有名進学校に通う学生といえば、将来的には社会のリーダー
 になる可能性の高い人たちですが、そこで行われているのは、テストで高得点を上げるための
 教育です。
 リーダーになるには、人間磨きこそが大切であるのに、大学入試に歴史の試験科目がないか
 らといって、多くの高校では歴史の授業が大幅にカットされているといいます。
 このようなことは、人が見ていなければ盗みをしてもいいというのと同じレベルの教育なの
 であって、残念なことですけれども、日本の教育はそんな次元にまでおとしめられているとい
 うのが現状なのです。


 ―日露戦争こそが欧米列強国による植民地政策に
              終止符を打つ戦いになった―


 話は戻りますが、そのような教育の徹底が機能した結果、おそらくは当時の識字率でも世界
 一を誇ることとなり、近代国家の急速な形成にも、日本は充分な能力を発揮して対応すること
 ができました。
 そして当時アジアで唯一の、しかも最速での近代国家建設は、やはり欧米列強諸国にしてみ
 れば相当な脅威となったらしく、日清戦争(1894年〜1895年)に勝ち、その10年後の1904年に
 は日露戦争にも勝利することで、日本は完全に世界列強国の仲間入りを果たします。
 この日露戦争にはたいへん大きな世界史的意義がありまして、というのも、この戦争こそが、
 ここまで400年近くにわたって繰り広げられた、欧米列強国による世界の植民地政策に、終止
 符を打つ戦いになったからです。
 その頃にはすでに、ロシアは世界的にみても非常に大きな列強国となり、世界の陸地の六分
 の一を占め、なおかつ強力な軍隊を持っていましたが、ただ、国土が北方に位置しているため、
 その強力な海軍力を駆使するには、凍らない港を求めて南下政策をとる必要がありました。
 そのため、国境を接する隣国との衝突がいつも絶えず、日本だけでなく、ロシアはトルコにも
 度々戦争を仕掛けていて、1877年に起こった露土戦争では、あのたいへんな栄華を誇ったオス
 マン帝国の後裔でさえ、強大な軍事力の前に屈服させているのです。
 ところが、日露戦争は違いました。相手が日本だったからです。
 その頃の日本は、着々と近代国家の建設を進めていましたが、それでもまだ欧米列強諸国と
 戦えるほどの力は持っていませんでした。
 しかしロシアと清が密約を交わし、満州から朝鮮半島へと南下政策の矛先を伸ばしてくると、
 さすがに危機感を抑えることができなくなった日本は、日露戦争の2年前、援軍を求めて欧米
 列強のチャンピオンとでもいうべきイギリスと、日英同盟を結んだのです。


 ―
戦いでの功績だけでなく人間的な強さというものも
                見事に繰り広げて見せた―


 清国を支配するイギリスにとっても、ロシアの南下は危機となるものでしたから、ここはひ
 とつ日本にがんばってもらって、ロシアを朝鮮半島から追い出してほしいという点で、日本と
 利害が一致していたのです。
 また、1900年に起こった北清事変、いわゆる義和団の乱のときには、暴動の鎮圧と政情安定
 化のため、日本から多数の派兵が行われたのですが、その指揮をとったのが会津藩士の生き残
 りである柴五郎(1860年〜1945年)でした。
 彼は、欧米で広く知られた最初の日本人で、義和団の乱での防衛戦の功績を通して、欧米各
 国からたいへんな賞賛を浴びることとなります。
 なぜなら、まず彼の率いた日本軍が、非常に勇敢で礼儀正しいこと。そして思いやりがあっ
 て、鎮圧に行った先の中国人の一般市民からも慕われるなど、戦いでの功績だけでなく、人間
 的な強さというものも見事に繰り広げて見せたからです。
 その姿を見ながら、義和団の乱を共に戦ったイギリス公使クロード・マクドナルド(Sir
 Claude Maxwell MacDonald 1852年〜1915年)は「同盟を結ぶのなら、絶対に日本しかない」
 と確信し、これにより1902年、日本とイギリスは同盟を結ぶこととなりました。


 
―力のない弱い者が力の強い相手と戦うときには
           良い教科書になるのではないか―

 そして乃木希典(1849年〜1912年)陸軍大将が指揮をとった旅順攻囲戦や、東郷平八郎
(1848年〜1934年)司令長官率いる連合艦隊が、当時欧州最強と呼ばれたバルチック艦隊を打
 ち破った日本海海戦など、きわめて激しい戦いの数々を経ながら、明らかに不利と思われてい
 た日露戦争に、日本は見事に勝利を収めます。
 1905年、アメリカが調停国となり、終戦交渉の末にポーツマス条約が締結されると、東洋の小
 さな国だった日本が、一躍して世界の5大国へとのし上がることになります。
 これがもし、日露戦争で日本が負けていたなら、欧米列強らの世界植民地政策は、百パーセン
 トの成功を収めたはずでした。
 ところが、イギリスとアメリカの協力を得たとはいえ、大国ロシアに対して日本が堂々と勝利
 したということは、ここに人類史上初めて、欧米列強らが推し進めてきたそれまでの植民地政
 策に、反旗を翻す国家が誕生したことを意味したわけです。
 この画期的な事実は、それまでに植民地化されてしまった世界中の人々の心にも、たいへん大
 きな勇気と希望を与えることになり、その後の世界史のうねりにも、少なからず影響を及ぼす
 こととなりました。
 このような活躍を成し遂げた明治の日本人からは、現代を生きる私たちも、多くのものを学ぶ
 ことができると思います。
 謙虚さや判断力、あるいは実行力や忍耐力など、たとえば力のない弱い者が、大きくて力の強
 い相手と戦うときなどには、本当に良い教科書になるのではないでしょうか。


 
―勤務に邁進し勝って兜の緒を締めよ≠ニ
           技を磨いて国力をつけていった―


 さて、このようにして近代国家への成長を遂げた日本でしたが、やはり出る杭は打たれると
 いうことわざもあるように、まずはアメリカが警戒をし始めます。
 第一次世界大戦後に開かれたワシントン海軍軍縮条約では、戦艦の保有比率を、アメリカと
 イギリスが五なのに対して、日本は三にせよとの決着がなされました。
 その頃は、海軍力がそのまま軍事力を表していましたから、この比率に日本政府は非常に不
 満を抱いたのでしょうけれども、ここにははっきりとアメリカとイギリスの警戒感が読みとれ
 ます。
 そこで、私たちの先輩はどうしたかというと、軍歌にもありますように月月火水木金金
 で、それこそ土日を返上して休みなしで一週間働き続けました。現代ではニート(Not in
 Employment, Education or Trainingの頭文字をとった造語で教育を受けておらず、労働や職
 業訓練もしていない若者を指す)などと呼ばれて、週休七日に甘んじている若者たちが増えて
 いるそうですが、当時はまったくその逆で、アメリカとイギリスを追い越すために勤務に邁進
 し、まさしく勝って兜の緒を締めよ≠ニばかりに、技を磨いて国力をつけていったわけです。
 このことが、かえって日本の底力を世界に見せつけることとなり、欧米諸国からは
 「俺たちが500百年も掛かって計画してきた世界の植民地化を、へたすると日本は一国でやっ
 てしまうんじゃないか」
 という不安の声すら上がるようになります。
 そこで、脅威は早目につぶしておくべきということで、アメリカが出してきたのが、世に言
 う『田中上奏文』なる怪文書でした。


 ―やがて日本は孤立し活路を中国大陸へ見出して
           日中戦争へとなだれ込んで行く―


 これは昭和初期にアメリカで発表され、主に中国で流布された文書なのですが、1927年に、
 第26代内閣総理大臣の田中義一が、極秘で昭和天皇に上奏したものといわれています。
 そこには
 「日本が中国を征服し、やがては世界も征服しようとしている」
 といった、いわゆる日本の世界征服計画が描かれていたそうですが、しかしその真偽のほどは
 定かではなく、そもそも実在したかどうかも、数多くの調査結果から、今では非常に疑わしい
 ものとなっています。
 また、1920年代のアメリカ海軍では『オレンジ計画』と呼ばれる戦争計画書も作られていて、
 日本を仮想敵国に、もしも開戦した場合にはどのような作戦を展開するべきかが入念に計画さ
 れていました。
 さらには、最も日本人バッシングとして分かりやすかったのは、日本人移民への排斥活動で、
 多くの日系移民を受け入れていたアメリカが一転して態度を変え、一九二四年には排日移民法
 が米国連邦議会で審議され、成立することとなります。
 このような背景があって、やがて日本は世界の中で孤立した道を歩むことになり、1933年に
 は国際連盟からも脱退。活路を中国大陸へ見出して、1937年には日中戦争へとなだれ込んで行
 くわけです。
 そして、時に昭和16年12月8日。
 ハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍太平洋艦隊基地に対して、日本海軍空母機動部隊は航空機
 による爆撃を決行いたします。
 これが有名な真珠湾攻撃で、以後、日本はアメリカと交戦状態に突入し、太平洋戦争の火ぶた
 が切られることになりました。

   
 
―この時の日本はアジアをひとつの文化圏として
          植民地化に対抗しようとした―

 こうして戦争に踏み込むまでの過程を顧みますと、やむにやまれぬ事情があったことが、容
 易に理解できます。
 美術家で教育者でもあった岡倉天心(1863年〜1913年)は、アジアはひとつだという考えを
 『東洋の理想』や『東洋の覚醒』といった著作の中で展開されていましたけれども、これはまっ
 たく間違いではなく、この時の日本は、アジアをひとつの文化圏として、欧米列強の植民地化
 に対抗しようとしたわけです。
 ただ、その実施方法において、日本はいささか優等生とはいえませんでした。
 真珠湾への奇襲攻撃や、中国大陸での横暴ぶりについては、おおいに反省するべき問題があ
 ると思います。
 しかし、歴史の解釈において、過ぎた後から勝手なことを言うのは、それこそ無責任な振る
 舞いでして、今だから指摘できることも、その事実が起こった時点に足を置いて考えると、当
 時としては、やむを得なかったのではないかと思えることが実にたくさんあります。
 これを歴史の公準≠ニもいい、物事が起こった経緯や背景には、その時代における必然性
 が作用して当たり前なのですから、それを後の時代の尺度でいろんな講釈をつけたところで、
 真の歴史理解にはならないと私は思います。
 ですから、当時はちょっと油断をしたら、国家なんて丸ごとつぶされてしまうこともあり得た
 時代でしたし、欧米から敵対視されたことによって、日本の視線がひとつのアジア≠ノ向け
 られたとしても、それは無理のないことだったのではないでしょうか。


 
二名の敏腕大使を送って開戦を回避するための
         交渉を懸命に続けていたのです―

 ちなみに、当時の日本政府の本心はどうだったかというと、あくまで平和路線を貫こうとし
 ていたことが、様ざまな事実から推し量ることができます。
 昭和16年10月に、近衛内閣の陸軍大臣だった東條英機(1884年〜1948年)が内閣総理大臣に
 就任しますが、当時暴れ陸軍≠ニ呼ばれた陸軍の強硬派や開戦派を抑えられたのは、東條英
 機ただ一人でした。
 また、東條は天皇をたいへん敬愛しており、日米衝突を避けようとする昭和天皇のご意向に
 背くことはないと考えられていましたから、日米交渉を根気よく続けられる首相としても、彼
 は最もふさわしい人物だったわけです。
 ですから、東條内閣では数回にわたって、ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882
 年〜1945年)大統領に話し合いの場を求めていますし、来栖三郎(1886年〜1954年)と野村吉
 三郎(1877年〜1964年)の2名の敏腕大使をアメリカに送って、開戦を回避するための交渉を
 懸命に続けていたのです。
 しかし、それに対してアメリカから突き付けられたのは、コーデル・ハル(Cordell Hull
 1871年〜195年)国務長官から提示された、いわゆるハル・ノート≠ニ呼ばれる『日米協定
 基礎概要案』で、そこには日本がそれまでに築いたアジアでの既得権のほとんどすべてを放棄
 せよといった、まさしく最後通牒とも受け取れるような内容が列記されていました。


 
―国家の自立が認められ日本人として
       生き続ける権利が戦後も与えられました―

 それにより追い詰められ、立ち上がらざるを得なくなった日本は、12月8日の真珠湾攻撃を
 もって開戦に至るわけですが、結果的には非常に大きな犠牲と代償を払うことで、戦争という
 悲劇の幕を閉じることになります。
 昭和20年8月15日に敗戦を認めて、連合軍側が示すポツダム宣言を受諾することになるので
 すが、そのとき日本側の代表者たちが最も真剣に考え悩んだのは、戦後も日本としての国体を、
 維持することができるかどうかということでした。
 要するに、どれほど国土が焼け野原になってしまっても、そこには依然として国家の意思が
 働いていたわけで、戦後も変わることなく日本国民の主権が保てるかどうかという最も重要な
 命題を、連合軍に対して彼らは質問したのです。
 すると、その答えはイエスで、日本には国家としての自立が認められ、国民には日本人とし
 て生き続ける権利が、戦後も変わらず与えられることになりました。 
 ところが、本当の自立と復興を実現するまでには、アメリカの間接的な統治下に甘んずること
 となり、8月30日にはGHQ最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur 1880年〜1964年)
 が、厚木海軍飛行場にコーンパイプをくわえながら降り立ちましたが、まるで軍人らしからぬ
 その姿や振る舞いに、当時の日本人は「これが占領者の姿なのか」と、たいへん驚いたものです。


 
―歴史においても勝った方の正義が正しい歴史として残される―

 しかしその時、ピストルの一挺も持たず、星条旗を振りかざすこともなく現れたその出で立ち
 に、すでに間接統治というショー≠ェ始まっていたのかもしれません。
 アメリカによる間接統治は、まずこの国の歴史を封じることから始まりました。
 そもそも、戦争の勝敗には、正義であるかどうかということはまったく関係がなく、その決
 め手となるのは、ケンカして強かったか、それとも弱かったかという、単に力の論理だけがモ
 ノをいうわけです。
 話し合って決まらなかったものを、力づくで決めようというのが戦争ですから、常に勝った
 方こそが正義であり、したがって歴史においても、勝った方の正義が、正しい歴史として残さ
 れることになるのです。
 ですから、今から65年前の日本もこの道理に則り、アメリカの間接統治の下、歴史だけでなく、
 地理や修身でさえ教えることは許されませんでした。
 「国家をつぶすのに武力は要らない。その国の歴史を消せばよい」とはよく言ったもので、こ
 れによってアメリカは日本の精神的な基軸を解体いたします。そしてさらには、アメリカは日
 本の憲法を作り変えることで、日本国民の暮らしに関わる根幹部分にまで介入してまいります。
 ハーグ陸戦協定(1899年制定。最も根源的な戦時国際法)の第43条が定めるところによると
 「占領者は絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重しなければならない」 とされて
 いるにもかかわらず、日本の法律の一番基本となる憲法を、アメリカは実に巧妙なからくりを
 駆使することで、見事に作り変えてしまったのです。


 
―アメリカの言うままアメリカに押しつけられる格好で
               日本国憲法は施行された―

 どうやって変えたかといいますと、まず民意に委ねた形をとるため、衆議院議員総選挙を行
 います。これには国民も喜び、占領されてはいるけれども、自由に映画も観ることができるし、
 ガムもくれるしチョコレートももらえて、その上選挙までやらせてくれるというのですから、
 戦時下体制とはまったく違った民主主義の恩恵を、おおいに味わうことになりました。
 しかし、こうして一方では甘い飴をなめさせておきながら、もう片方ではマッカーサーの指
 示の下、当時のGHQ民政局長だったホイットニー(Courtney Whitney 1897年〜1969年)が、
 着々と新しい日本国憲法の草案作りを進めます。
 そして表向きには「日本国民によって選ばれた政府によって決められた」
 という形を装いながら、実は成り立ちの大切な部分では、ほとんどがアメリカの言うまま、ア
 メリカから押しつけられる格好で、日本国憲法は公布、施行されてしまうのです。
 ですから、このような憲法は、一刻も早く日本人の総意によって改めるべきであり、本当の
 民主国家になる意味でも、誰からも抑圧されることのない自由な意思をもって、自らの手で作
 り上げるべきではないかと私は思います。


 
―夢や理想を失った瞬間その国家は
         歴史の舞台から退くことを余儀なくされる―

 たとえそれが、今の内容と一字一句違わなくとも、自分たちが憲法を考えて作ったというこ
 とにこそ、国の主権者としての誇りが生まれるわけですから、私は決して右翼思想の持ち主で
 はありませんけれども、やはり65年もの長い時間が経過しているというのに、未だに勝戦国か
 ら押しつけられた憲法に唯々諾々と甘んじているのには、首を傾げざるを得ません。
 もちろん、憲法九条を否定するわけではありませんし、アメリカとも安全保障の枠組みの中
 で、これからも協力していかなければならないのは確かです。
 ただ、問題なのは、このような現状に甘んじたままの無責任な国民が、果たして日本という
 国家をこれからも守り続けていけるのかということでして、なぜそのような不安をかき立てら
 れるかというと、私は長い人類の歴史の中に、国家の滅亡についてのいくつかの教訓を見出し
 てしまうからに他なりません。
 国家が滅びる要因には、三つの原則がありまして、まず一つ目に挙げられるのは理想の喪
 失≠ニいうことです。
 どんなに栄えて勢力と領土を拡大しても、国家として、あるいは民族としての夢や理想を失っ
 た瞬間、その国家は衰退を始め、歴史の舞台から退くことを余儀なくされるのです。
 このことを現在の日本に照らし合わせてみると、日本、中国、アメリカ、そして韓国の高校生
 たちを対象に、夢や理想についての比較調査をしたところ、日本は腰が抜けてしまうほど、他
 の三国に比べて、夢の持ち様が小さいという結果が出ております。


―カネ至上主義≠フ人間が増えると汗水たらす経営≠ニか心の価値は消える―

 日本の若者が夢を持てない、もしくは持ちづらいのには理由がありまして、それは物質的に
 豊かすぎる社会の在り様が原因していると私は睨んでいます。
 物質的な豊かさとは不思議なもので、全人類が目指すものであるにもかかわらず、いざたど
 り着いた途端、それまでの向上心は失われ、生きるエネルギーが弱まるのに連れて、次第に夢
 も見ることができなくなってしまうのです。
 また、それだけならまだしも、本当に恐ろしいのは、エネルギーが弱まるのと同時に、耐え
 る力もなくなっていくということで、その証拠に、最近の日本で多発する凶悪犯罪のほとんど
 は、忍耐力の欠如が甚だしいものばかりです。
 そして、国が滅びる二つ目の要因は心の価値の喪失≠ニいうことで、これにも今の日本は
 ピタリと当てはまってしまいます。
 中学生の子どもに親が百万円を与えて
 「これを増やす技術を身につけなさい」
 などとやっているようではホリエモン≠セとか村上ファンド≠セとか、金儲けだけに走
 る経営者しか、この国では育たなくなってしまうのではないでしょうか。
 そのようなカネ至上主義≠ノ偏った教育しか受けていない人間が増えると汗水たらす経
 営≠ニか心の価値などは世の中から消え去ってしまい、その行く先には間違いなく、国家や民
 族の滅亡が口を開けて待っているはずです。


―国家を担う覚悟のない人間に外交的な判断や
              交渉の駆け引きはできない―
 

 さらに国が滅びる法則の三つ目としては、先ほども申しましたが歴史の喪失≠ニいうこと
 が挙げられます。
 特に歴史においては、教育というものが深く関わっていて、日本は占領下に教育制度が解体
 されたことにより、現在のような要領重視の、試験の点数が取れて、他人よりもお金儲けが上
 手になるような教育しか施せなくなってしまったのです。
 しかし教育の本質とは、まさに人間学であり、人間の幅や奥行きを広めるためにこそ為され
 るべきで、国家を経営するという観点からしても、現在の大学や進学校などでは、真に社会に
 求められる人材を育成することは、到底不可能ではないでしょうか。
 政治家になるとか、官僚になるとか言ったところで、国家を担う覚悟などない、日本のため
 なら命も捧げようという意志すら持てない人間に、難しい外交的な判断や、交渉の駆け引きが
 できるわけがありません。
 ですから、結局のところは教育であり、65年前にわざわざ占領軍が、日本の優れたものの一
 つとして教育を壊して行ったのには理由があったということです。
 特に『教育勅語』は、軍事教育や軍国主義に繋がるとして、占領統治時代に占領軍によって
 廃止されましたが、実際、そこに表されていたのは、日本の伝統的道徳観と、儒教や西洋的な
 倫理観にも通じる、いわば近代国家に生きる人間としての規範そのものでした。
 その内容は世界的にも評価されていて、親孝行をしようとか、兄弟・姉妹は仲良くしましょ
 うとか、友達とは信じ合い、言動には慎みをもって、広くすべての人に愛の手を差し伸べましょ
 うといったような、何一つとして戦争に繋がる思想などない、優れた道徳教育論がそこでは展
 開されていたのです。

 
―自分たちの足元から教え育む環境作りを整えていく必要がある―

 ただ、その成り立ちの点で、明治天皇から国民に語り掛ける形で扱われたため、戦時下では
 『軍人勅諭』と同等に置かれたこともあり、排除、失効の仕打ちに甘んじることになってしま
 いました。
 しかし、私はこの『教育勅語』を、現代に再び復活させてはどうかと考えていまして、いま
 の政権下でも相変わらず教育の再生ということが口やかましく言われておりますけれども、こ
 ういった基本的な道徳教育の見直しから、本当の教育再生が始まるのではないでしょうか。
 そしてそれにより、国家の再生というものも見通せるはずですし、失われつつある夢や理想
 も、その道の向こうには必ず見えてくるに違いありません。
 また、どうしても教育というと、文部科学省や政府がやってくれるものと思いがちですが、
 しかし現実に目をやりますと、今では小学校一年生の一学期から、学級崩壊があるような状況
 です。
 これはまさしく、家庭のしつけが崩壊している証拠であり、なんでも学校頼み、先生頼みに
 するのではなく、まずは自分たちの足元から、子どもたちと接し、教え、育む環境作りという
 ものを整えていく必要があるのではないかと私は思います。
 してはいけないことは絶対させないといった、いわばしつけの基本≠徹底しながら、か
 つて藩校や寺子屋がそうであったように、たとえ子どもであろうとも、立派に社会の一員であ
 るからには、そのためのルールを守ることの大切さといったものを、しっかりと叩き込んでい
 くべきではないでしょうか。


 
―基本的なルールが守れるかどうかが家庭でのしつけの根本―

 しつけに関しては、教育者であり哲学者でもあった森信三(1896年〜1992年)さんが、具体
 的に三つの提案をされています。
 まず第一には、挨拶の徹底ということで、朝起きたら、子どもは親に「おはようございます」
 夜寝るときには「おやすみなさい」と、必ず挨拶をしなければなりません。

 多くの方は、こんなことは常識ではないかとおっしゃるかもしれませんが、現代の家庭では、
 このような基本中の基本ですら、ないがしろにされている場合が多いのです。
 また第二には、家庭という組織への参加意識を喚起する意味で、積極的に家事のお手伝いを
 させることが大切です。庭の掃除や雨戸の開け閉めを頼まれたときに、素直に返事ができる子
 どもは、ちゃんとしつけができているもので、これは家庭という組織を通して、社会へ貢献す
 る心を養うことにつながります。
 そして第三のしつけとして、後片付けがきちんとできるかということがあります。
 遊んで帰って来たときに、玄関で脱いだ靴が、左と右とで一メートル以上も離れて散らかっ
 ているようでは、国際法違反にも匹敵する大問題です。

 脱いだ靴をきちんと揃えるということは、世界中のどこの国でも通用する国際ルールであって、
 このような基本的なルールが守れるかどうかが、教育が再生できるかどうか、はたまたこの国
 が再生できるかどうかの分岐点になっているような気がいたします。


 
―現代でもなお日本人の心の根幹には
          先祖を敬う気持ちは息衝いている―

 それでは最後に、日本の心とは、あるいは日本の文化とはどういうものかについてお話して、
 この講演を締めくくりたいと思います。 古来より日本人は、家の歴史というものを重んじる
 民族で、それぞれの家庭では「ご先祖様を大切にしなさい」という教育を、何よりも大切に受
 け継いでまいりました。

 たとえ学問がなくとも、どんなに貧しい家であったとしても、この命題だけは親から子へと
 厳格に守り続けられていて、いわばこの国の基本思想というのは、先祖崇拝にあったと言って
 も決して過言ではありません。

 ですから、お墓をきちんとしなさいとか、お盆にはご先祖を丁重にお迎えしなさいとか、様
 ざまな風習やしきたりを通しながら、今もなお日本人の心の根幹には先祖を敬う気持ちが確か
 に息衝いているのでして、そしてそのような先祖崇拝の真ん中には、歴史と伝統の中心核とし
 て、天皇という血統、すなわち皇室というものが存在しているのではないかと私は思うのです。
 つまり皇室とは、いわば日本という家族の本家のような佇まいで、今日まで日本人の魂を支え
 続けてきたわけで、したがって、外国の王室が概ね支配者や征服者であるのに対して、日本の
 皇室は明らかに治世者としての役割を担っています。

 その証拠に、外国の王室は堅牢で高い城壁に囲まれた要塞を住処としていますが、日本の皇室
 は、今でこそ江戸城址が皇居になっておりますけれども、京都御所などは低い土塀と細くて浅
 い堀に囲まれているだけです。
 そのくらい皇室は国民にとって身近な存在だったのであり、長い歴史を通じて、日本という国
 家を紡ぐ絆の縦糸として、守り続けられてきたということです。


 ―自由であるためには守らなければならない
           秩序というものも存在する―
 

 また一方、庶民同士の間では、助け合いや分かち合いの精神が横糸となって、人々の暮らしの
 絆を、連綿と紡いでいました。
 村や町が共同体となって、協力して田畑を耕し、収穫して、いただきものは隣近所におすそ分
 けしたりしながら、横糸の絆を強いものにしていたのです。

 このような縦糸と横糸の織りなす、いわば織物のような構造こそが、日本の心、あるいは日
 本文化の特徴になっていまして、さらにはまた、この縦横の絆の構造体をさらに強くひき締め
 るものとして、いわゆる恥≠ニいう概念が、この国の社会秩序の維持には、大きな役割を占
 めていました。
 ですから「そんなことをしたら、ご先祖様に申しわけない」「隣近所に笑われて、孫の代ま
 で恥を残してしまう」といったような自戒の念がそこに生まれて「私たちの行いは、いつもお
 天道様が見ておられるのだ」という豊かな精神性を、私たちは持つことができたのです。

 このような精神性は、心の価値としてもたいへん豊かな状態を表していて、法律で縛られなく
 ても秩序や規律を守ることができましたし、助け合いや思いやりの心を育む土壌となって、人
 々の絆をより強く、堅いものにすることにも役立ちました。
 だから日本は強かったのであり、六十五年前の占領政策というのは、分かりやすく言うと、
 この絆をぶった斬るためのものだったと言えるわけです。

 自由を叫ぶのも結構なことですが、しかし自由であるためには、守らなければならない秩序と
 いうものも確かに存在するわけで、我がままばかりが先行する今の日本の風潮を顧みますと、
 物質的な豊かさと引き換えにして、恥を知らなくなった日本人の行く末を、憂えずにはおれま
 せん。