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「人づくり、国づくり、心のふれあいから自分づくりへ」

   ―日本の国際協力に携わって40年、現場からの提言―

田口定則氏、JICA海外青年協力隊進路相談室カウンセラー

 田口でございます。今日は日本の将来をどう作っていくのかということで、各界の先生方と時間を持つ機会が与えられましたことを心から感謝し恐縮に存じています。よろしくお願いします。私は1934年生まれで、日本の景気が悪くなり戦争への道が準備された頃であります。1930年代・40年代・50年代、私がこの仕事に関わって60年代・70年代・80年代・90年代と、これを是非歴史の物差しを共有しながら、皆さんの経験を見ながら話を進めさせていただきたいと思います。

 昭和9年生まれというのは、やや軟弱な世代の端くれでございました。小学校時代、戦争真っ只中であります。空襲があり食糧はなし、男性は戦争。私は九州大分県の臼杵で祖だったのですが、大分県は非常に貧乏な県でありまして宝物は人材だけである。私の家には大勢の女性たちが集まって、母がコミュニティの力でお互いに助け合い励まし合っていました。いかにして戦争の空襲と飢餓から子供たちを守るか、という母親のグループの中で、いささか女々しいかもしれませんが少年時代を過ごします。何人かの友人のお兄さんが勤労奉仕をしていて大分大空襲で亡くなったり、別府湾の航空母艦を目掛けて毎日空襲に来るなど、若干ゲームのように冷めてはいましたが、子供の頃にそういう体験をしています。

 当時日本全体が貧乏で予備校もありませんでした。一番安いし寮があるということで、私がたまたま行きましたのが東京大学です。寮では旧制高校の伝統が残っていまして、いろいろな鍛錬を受けました。マルクスと万葉集の左右両方の本を読む環境で青春を過ごしました。原水爆の禁止を求めるデモにも参加して、アメリカ大使館の前でシュプレヒコールを上げました。ありがたいことに小池辰雄先生・中村元先生・勝田守一先生に出会い、たいへん先生方にめぐまれました。「人間何のために生きているのか」「真理とは何か」、真理のために生き勉強するのだということを教わりました。矢内原忠雄総長はクリスチャンで、「医学部の諸君は無医村へ行け」「哲学の諸君は抽象的なことは止めて教育をしろ」と。その後の私の人生の精神的基盤が作られました。

 日本が戦後国際社会になかなか復帰できなくて、やっと講和条約を結び国連に参加しました。講和条約を結ぶ時に吉田茂がハワイに立ち寄り、「南方同胞」で加入し、1961年アジア協会(JICAの前身)がスタートします。知名度はないけれど、ボランティアでした。独立まもないインドネシア・ミャンマー・ラオスなどには賠償金を支払えないので、研修受け入れをお金に換算して賠償に当てるという業務をしていた。板垣先生や原先生のような開発の基盤を築く先生はアジア研究をしていた。実際の業務は、コロンボ・プランによる研修。コロンボ・プランに参加することによって、日本は国際社会の、先進国の一員になれたんです。コロンボ・プラン技術研修員はインドネシア人が多かったですが、アジア各国から日本にきて技術を学ぶのです。民間企業が施設を提供し、公務員(水産試験場の技師など)が指導をしてくれました。日本は貧乏であるがゆえに、国際社会への貢献の基盤がこうして、一肌脱ぐという形でスタートします。

中略

 当時協力隊はお金をなくて、自分にできることがあれば何かしようか、それがボランティア。時には命のリスクもあります。当時協力隊の手当てがありまして、その手当てが余ると肥料を買って農民に与えたりしました。ボランティアは無償制である、お金が少ないからボランティアであることが日本では発達しましたけれど。隊員たちは確かに贅沢は出来ませんけれど、僅かでもお金が残ると公のために使っている。星さん、山下さんという責任者がいましたが、ラオスの難民の問題が起こると、彼女らは居ても立ってもいられない。日本ボランティアセンターを立ち上げたのは彼女たち協力隊のOGでした。エドワード君がベトナム戦争を拒否してラオスへ来た。当時のキーワードは「人の命は地球より重い」。エドワード君は自分の信念を持ってラオスで死んだ。その死を美化して、「エドワードは地球より重い命で何を守ろうとしたか」と。

 青年海外協力隊で大切なことは、一つは危機管理、もう一つは相手の国に合わせて何をなすか。お互いがどうコミニューケーションしながら良い結果を出すかということです。これまで沢山、現地の民衆に役たつことをやってきましたがそのことをうまく伝えられていません。
 水は地球課題のひとつですが、日本の海外協力で特筆して良いのは水をやってきたことです。中国でもやってきました。とくにビエンチャン浄水場はラオスの民衆の役にたっています。それから広報をやろうということでマスコミの勉強会をしました。事実を伝え、感動を与えること、国民が良いというプロジェクトを広報しょうということになった。

そこで、戦後国内では“ニューママ”と言われる人たちが1パーセントの子が亡くなるということで種痘廃止運動をしたが、地球上で天然痘をなくすことは母親たちの幸せにつながるということでエチオピアでの天然痘撲滅のボランティアを行いました。

 事業には良いマーケットが必要です。これからは南太平洋の時代が来るということでサモア、トンガの国の調査をしました。トンガでは弟を第2次世界大戦中、日本軍によって殺されたという高等学校の校長先生が「トンガと日本の新しい関係のために協力隊の青年が欲しい」と日本の海外協力隊を受け入れてくれました。    −

 伴先生の根本思想はなにかと言いますと、人と人との信頼関係の構築で平和を作ることも安全保障のひとつであるということです。

 海外で2年間の経験は宝であり、それは本人の宝でもあるけれど、社会の宝でもある。細々であるが、今まで二万三千人もの青年が海外協力隊に参加してきました。帰ってきたら経験を社会に活かしたいが、活かしてくれるところがない。「自分で行ったんでしょう」とか言われる。

 伴先生がお亡くなれる直前に「世界を見てきた目で日本を見ること。世界に対する貢献。公に対する献身」を言わました。
 第一期生にアフリカからの要請で理数科の優秀な青年3人が行きました。一人は早稲田工学卒業生で優秀な青年でケニアに行ったのですが、交通事故でなくなりました。道が悪かったことなどが原因です。理想があるが厳しい現実がございます。

−スリランカ青年海外協力隊のビデオを紹介−(省略)

(図を指しながら…)
援助の流れとして平和構築から開発協力に移行します。
ラモス、カンボジアは平和構築後開発協力をしています。
アフガンでは 実際に戦争をしている所の子供たちの面倒をみています。(戦争をしたくないけど戦争に巻きこまれるのが現実です)

 平和構築モデルですが−日本の終戦直後、横浜港にアメリカの民間団体が食糧を送ってきました。
 紛争予防−紛争を予防できないのか、戦争を避ける方法はないかということが大事です。
冷戦時代−アメリカがエチオピアから退くとすぐソ連などの国が入った。
それでアメリカは慌ててソマリ−に入ったことなど現地に居ると世界情勢がわかる。
これまで日本の立場は“紛争当事国に近寄るな”でした。

昨年アフガン復興会議が行われましたが、世界は“ODAにお金を出さないでいかに発言するか”という傾向が強くなっていますが、日本はアフガンに対してお金を支援しました。

 ジャイカでは紛争の復興開発支援を迅速に、NGOと連携してどんどん進めています。
 国際協力のキーワードは“貧困”であり“貧困”をどうなくすかということです
 世界中の富の格差を実感するのは実際海外に赴任してであり、世界の課題を体で感じて日本に持ち帰り世界を紹介しながら、 世界の人に「日本はお金儲けもするが、貧しい国々対する思いもある、人間の顔をもった国である」と思われること、これは次世代に対する国益ではないかと思います。

参考資料