開会の挨拶  未来構想は来年1月23日で創立7周年を迎えます。本会発足の背景の1つは、1976年1月、産学協同で創立された「新しい文明を語る会」(中島正樹代表)で、日本文明が人類文明史上にいかなる貢献がなされるかが検討されました。1980年代、「ビジョン21世紀の会」(福田信之代表)が創設された、戦略的な政策研究も源流の1つです。90年代には「国際地域振興フォーラム」が創設され国内外のフィールドワークの流れもあります。21世紀に入り、日本総研の新谷所長から「日本の根本問題は教育問題である」として、研究会立ち上げのお誘いを受けて、未来構想フォーラムを2002年に共同で創設。今までに著名な先生方が貴重なお話を下さいました。この夏にもNHKの総指揮をされた磯村先生が「美しい日本の構想」という演題でご発題をくださり、武蔵野市の後援もいただいてフォーラムを開催いたしました。次回の12月は「美しい日本づくりの国民運動の可能性」をテーマに今年最後のフォーラムを開催いたします。今日は「国際協力」をテーマに開催いたし思います。日本の未来創造へ向けて皆様の活発なご討議をご期待いたします。 藤田 公郎 先生         「 国 際 協 力 の 未 来 構 想 」 「国際協力を考える」という題をいただきましたが、「国際協力」というといろんな切り口があり、経済、軍事、政治、文化などです。それからもう一つの切り口は平和時と有事であります。日本は戦後一生懸命平和時の経済面での協力を進めました。日本が今、問題になっているのはインド洋での自衛隊の給油問題でも判るように有事の協力に関する問題です。過去、湾岸戦争当時、日本は大きな財政支援で国際的に貢献したのですが、アメリカ始め国際社会からは日本批判の声が多く出されました。有事の協力というものはひとまずおいて、戦後、日本が力を入れてきた平時の経済・技術面での協力を考えていきたいと思います。 1945年当時、私は中学生1年生でしたが、戦争が終わったときには悲惨な状態で した。 アメリカの爆撃で工業施設はほとんど壊滅、農業も人手が無い上に不作 が重なり、疲弊しきった多くの日本人の帰国もありました。350万の兵士、300 万の民間人合計650万人の在外日本人の帰国でした。朝鮮半島、満州国、南洋諸 島、その他太平洋全域、東南アジア諸国からでした。日本の街は失業者と孤児、飢えた人々で満ちていました。東京市街の建物が殆んど壊れていたので、市 外からも遠くの東京の中心の皇居まで見渡されました。その年、飢えと寒さで 百万人単位での日本人が死ぬであろうと予想されていました。また、日本は国 際社会の中で最悪国の評価を受けていました。敗戦国中イタリア、ドイツは既 に降伏しており、戦っていたのは独り日本だけでしたから、「世界で一番悪い のが日本であり、今後再び悪事をしないよう経済的にも日本を立ち上がらせてはいけない」というのが国際世論でしたから日本の将来には全く希望が無かっ たわけです。日本占領に際し、日本軍の太平洋戦争での激しい戦いを経験したので、日本占領に際しても日本人の抵抗による米国初め連合軍の犠牲はものす ごいものがあるだろうと予想されていました。しかし、終戦後、日本人は変わり、アメリカ軍に協力的になりました。アメリカ人兵士がジープで通ったら子 供たちが後を追いかけたりもしました。日本人の従順さと日本の余りの貧困を 見て、アメリカの日本に対する感情は段々と変化して行きました。終戦の次の 年から6年間、日本はさまざまな形での人道的援助を受けました。まずはガリオ アという名前で行われた米国政府の援助でした。その後エロアという名前にな りましたが、食料、医薬品、衣服などの生活必需品、そしてエロア時代には工業原材料なども援助されるようになりました。6年間で現在の貨幣価値換算で12 兆円という規模の人道援助が行われました。1年間に換算すると2兆円です。それは大変な数字でした。日本が世界最大の援助国だった1990年代の日本の援助 額が1兆4千億円程度ですから。 これ以外にも国際機関、即ちユニセフ、WHOなどの国連機関からの援助がありま した。今、日本は逆に援助国側にいますが、当時、日本はWHOやユニセフの援助 のお蔭で寒さや飢えから逃れたのです。そして、もう一つはNGOやNPOなどの民間団体による援助でした。日本の学校給 食は日系のアメリカ人が設立したララという団体による援助が主なものでした 。日系米人,浅野七之助さんという方が1946年初めに日本の悲惨な状況を視察し 、そしてアメリカに帰ってからアジア救済のための民間救済団体を設立されました。それがララです。ほとんど日本、そして朝鮮半島への援助を行った団体 です。このララ物資を運ぶだけでも200隻という莫大な数の船を動かした援助を 行い、日本の悲惨な状況を助けていただきました。 日本は6年間が過ぎた1951年に世界銀行に加盟し、1952年以降は世界銀行から借 款をしてインフラ建設を行いました。1950年代から60年代にかけ、日本はインドに次ぐ2番目に大きな被援助国でした。援助金の半分は高速道路建設に使わ れました。その他で一番有名なものは東海道新幹線の建設でした。東京/大阪間 に新しい超高速の鉄道を建設する為、国鉄技術陣が設計を行い、土地の手当て を行い、準備万端整えたのですが、建設の為の先立つお金がない。唯一の頼みは 世界銀行からの借款を得る事でした。しかし、世銀は応じません。当時アメリ カでは鉄道は斜陽産業で、新しい鉄道を建設するなど論外であると思われていました。アメリカでの思考は鉄道での運搬ではなく、ハイウエイによるトラッ ク運搬と航空輸送でした。世銀は国際機関ですが、本部がワシントンにある事 もあってアメリカの考え方が大きな影響を与えます。ゆえに日本がいくら鉄道 の企画を立てても、それらは一笑に付されてしまうのでした。日本の交渉団は 日本の特殊性、即ち全体の国土の15%だけが平野であり、ほかは山。東京,大 阪間500キロに人口と工業施設が集中しており、これらを如何にして結びつけるのかが戦後経済復興の鍵になると説明し、新幹線への借款を得ました。その後 もいくつかの壁を乗り越えて,当初の計算では40%が世銀借款により賄われる予定でした.結局建設しているうちに経費が多くなり、最終的には総経費の18%が 世界銀行の借款によるものになりました。新幹線以外にも、黒部第4ダム、愛知用水など日本の有名なインフラはほとんどが世界銀行の借款により建設された ものでした。また企業に対しても、造船、鉄鋼、自動車という日本の誇る3大産業 は、日本開発銀行を通じ世界銀行から借款が供与され工場を建設しました。日 本が世銀に借款を返済し終えたのは1990年代の終わりです。 日本が世界で最も貧困な国から50年たたないうちに世界第2の経済大国になった事については種々 の説明が行われています。先ず第1は国際情勢の変化です。日本は、世界で最も危険な国と見なされていたのが、東西冷戦の開始により、ソ連、中国という共産国に対し、自由陣営の一員として強化すべき対象となったのです。第2の要因は、日本は確かにインフラは破壊され尽くしたが、ソフトのインフラ、即ち制度、時間厳守、勤勉さ等の社会慣習などが手付かずに残っていました。このソフトのインフラが経済の復旧、建設には大きな役割を果たしたのです。そして最後に第3の要因として、上述のように国際社会から大規模な援助を受けたという事を忘れてはいけません。援助を受けた、日本が国際社会に助けてもらって、ここまで来たという事実は、我々世代が若い人たちに伝えていかなければならない責任があります。今の日本の若い人たちは過去、日本が貧しい時があったということを知らない人が大半です。例えば、さまざまな出版物にも記載があるように、日本において昔は結核は死の病であり、結核に一旦なったら、隔離されて栄養を取って休息を取るくらいしか治療法はありませんでした。ララ物資、そしてWHOなどの援助によってペニシリン、ストレプトマイシンという奇跡の薬を援助され、結核は死の病ではなく、治る病気になったのです。ララ物資をもらったある日本人看護師さんの手記によると、「これらの薬は単に病気を治したのではなくて、日本人の心に希望を与え、心を救ったのだ」と記されています。 われわれの先輩たちが偉かったのは、日本人は自分たちがまだ貧しかったにもかかわらず、近隣のより貧しい国々に対して技術援助を始めた事です。1954年に日本はコロンボ・プランという援助組織に加盟しました。コロンボ・プランは英連邦内で先進国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが英連邦内の途上国、マラヤ、インド、などに対し技術援助を供与する組織として出発しましたが、その後、米国が入り、また英連邦以外の途上国も対象となって、当時は全アジアを包括する技術援助組織となっていました。ここに加盟した日本はその優れた稲作技術を近隣のアジア諸国に教える事から始めたのです。ところが未だ日本は貧しく、海外の研修員たちを乗せて日本まで連れて来る飛行機代を負担する外貨が無かったのです。そこでその部分は国連または米国に援助してもらい、日本は研修員の日本滞在中の経費と先生の給与を負担するという形で援助を始めたのでした。東南アジアから日本に来た研修生たちは、羽田空港に到着したときに、驚きました。日本が余りに貧しく、自国よりもみすぼらしかったからです。しかし、研修員を教える日本人の先生たちは研修員達が「日本に来て良かった」と思って帰国してもらえるように必死に対応しました。先生ご夫婦が宿舎に泊まりこみ、一緒に食事をし、懸命に努力したのです。その結果もあって東南アジアの研修員たちは一様に日本に対し良い感じを抱いて帰国しました。彼らは「日本では上から下まで国民が一丸となって国家の再建に取り組んでいた。このような現象は自分の国には無い文化である」と言っていました。日本の対外援助はこのようにして始まりました。 次いでアジア諸国に対する賠償の支払いです。サンフランシスコ平和条約に基ずく正規の賠償はインドネシア、ビルマ、フィリピン、ベトナムの4カ国に支払われました.次に条約上の賠償請求は出来ないが矢張り戦争の後始末を求める国々9ケ国、地域(香港)に対し准賠償と言われる支払いが行われました。これらは日本の生産物、日本人のサービスの提供と言う形で行われたので、見方によってはこれが日本の経済協力のはしりであったともいえます。その後輸出振興のため、延払い輸出が導入され、これが円借款に発展し、また賠償の後、無償援助が始まって日本の経済協力が波に乗ったのです。これをODAと申しますが、これを計画的に拡大されたのが今の総理大臣の父君、福田赳夫総理が1977年に始められたODA倍増計画でした。ODA拡充の努力はその後の内閣にも引き継がれ、その後20年間、第5次までODAの計画的拡充の努力が実施されました。そうして日本は1989年に至り米国を抜いて世界最大の援助国となったのです。1990年代を通じ10年間日本は世界最大のODA供与国の地位を占めました。然し2000年代に至り財政逼迫が抜き差しならぬ事態となり、政府支出が軒並み削減される中で、ODA予算も真っ先に削減の対象となり、毎年減額され、2007年度予算においては、最大年1997年予算比で実に38%減となっています.これが金額の面での国際協力です。 わが国は平時の国際協力として人的協力も行っています。代表的なものが青年海外協力隊です。これは1965年から始められましたが、今でも毎年1400名の20歳から39歳までの若者が途上地域に派遣されています。応募者は約5倍に達しています。私が国連に勤務していました際、色々な選挙に日本が立候補し、選挙運動で各国代表部に赴くと各国首脳が異口同音に言われたことは、特にアフリカの大統領や首相が言われるには、自分自身も行ったことのない自国の最も貧しい地域で世界の最も豊かな国からきた若者が地にはいつくばって活動しているという情景にしばしば出くわすが、このような経験をした自分としては日本に1票を投じない訳にはいかない、という事でした。日本はよく国連の選挙の票をODAで買っていると言われます.青年協力隊もODAである事は勿論ですが、別に現金で票を買っているわけではなく、このような人的貢献を各国が評価してくれているのです。このように青年海外協力隊の評判が大変良いので、青年だけでなく、わが国の資産である中高年のエネルギーも使おうという事で、40歳以上69歳までを対象としたシニアボランティア制度が1990年に発足しました。これもまた中々、内外で評判が良いものとなっています。JICAに居りました際、海外に出張しますと必ずシニアの方にお目にかかりましたが、参加者自体が本当に幸せそうに活動されている姿に感激したものです。これが人的協力です。 第3として、お金、人的協力に加えてアイディアの協力があります。日本はこの面では少し遅れていると言われていますが、これは日本語が世界性もないし、日本では“物を言うよりも行動しろ”、“雄弁は銀、沈黙は金“という教育を受けていますから、アイディアを発することは少ないのですが、いくつか世界的に認められているものがあります。まず、「自助努力」。自ら手を下すものを天は助けるという考えです。これを英語に直して[self help]と言われていますが、日本人はこの考えが大好きです。然し日本が主張していた「self help」は意外と世界的にあまり受け入れられませんでした。これは少し堅いイメージがあるという事が一つ、それと「self help」は援助とは理論的に相反する、即ちself helpなら援助は不要になるという事もあったのでしょう.しかい、その後自助努力の必要性、援助される国に意欲がなければ傍からの協力は何の意味もないという基本精神が国際的にも認識されるようになり、世界銀行がそのことに気がつき、そして「Ownership」という言葉を発明しました。Own即ち所有するという事ですね.開発が当該途上国自身の問題であると自ら認識する事無しには開発は成功しないと主張したのです。今では世界で開発の基本は「ownership」にあると言われる程の言葉になりました。しかし良く考えて見るとこれは自助努力のことを意味しているのです。 開発援助の基本精神は時代によって変わってきました。「開発協力」と言う考えが開始された1960年代には経済成長によって途上国の経済開発を進めると言う考えでしたが、1970年代には「ベーシック・ヒューマンニーズ」即ち人間の基本的な必要を満たす、医療、教育などですが、と言う主張になりました。1980年代になると、構造改革、即ち規制撤廃、民営化、自由化という形で市場の力をできるだけ発揮させる事で開発を進めると言う考えになりました.この考えは今でも世銀など国際機関によって推進されています。1990年代の終わりから現在にいたる開発の主流は「貧困撲滅」です。これはイギリスの開発大臣が主張したものですが、もともとは日本が始めから貧困の撲滅こそが開発の主要な目的であるべきだと主張していました。日本は終戦直後から1960年代に至る自らの経験から、労使の激しい対立、学生の過激化など貧困時代には全て激しい対立に曝されるが、社会が豊かになると共に労使も学生も温和化する事を身をもって経験したので、貧困こそが全ての悪の根源であるという事を主張し、イデオロギーにはあまり頓着しませんでした.日本の主要援助対象国には、中国、ベトナムはもとより、東欧の社会主義国などが含まれています。このように社会主義陣営に日本が援助を多く行っていたことに対してはアメリカなど西側諸国に、日本は敵の援助に熱心だなどと大分皮肉も言われました。しかし、日本は貧困こそが問題であると主張して来ました。これもまたソフト面、アイディア面での貢献と言えます。 日本のソフト面での最大の貢献は日本的国づくりを東アジア諸国が模範として国づくりを行い、1980年代の東アジアの奇跡をもたらしたことでしょう。1993年に『東アジアの奇跡』というレポートを世界銀行が作りましたが、これは日本政府が何度も世銀に作成を要求したが入れられず、日本が作成の費用を全部負担すると申し出て初めて作成されたものです.世界の途上地域で唯一発展したのが東アジアであり、しかもこの発展は世銀の主唱した市場経済化とは正反対の政府介入による日本型の発展モデルによったものであったことが世銀当局があまり熱心になれなかった理由でしょう。この報告書によると、東アジア発展の理由は、先ずこの地域が他に比べて、富と所得の格差が少ないのが一つの特徴、即ち平均化した社会という事ですね。そして比較的清廉な官僚制の存在です。今は日本でも官僚制に問題が多いですが、他地域に比較すると比較的清廉な国家建設を重視する官僚制を有していました。東アジア諸国の成功の理由としてこの他にこれら諸国の貯蓄率の高いこと、マクロ経済政策の重視などが挙げられています。これは日本のソフトパワーなのです。それを東アジアの国に輸出して、日本に続く台湾、香港、韓国、シンガポールと言う小さな龍、続いてアセアン諸国と言う形で雁行型経済発展が実現したのです。この点日本は誇れる成果を上げているので、日本の学界やマスコミも、日本の良いところは積極的に主張する必要があります。もう少し、自分の国の良いところに自信を持って、傲慢にならずに努力することが必要であると思われます。 大脇 藤田大使が今までの活躍された内容はインターネットにリンクしておきました。その中でも、シニアボランティアでサモアに行かれました。先生はこの秋、瑞宝重光章を受賞されました。日本はODAでも頑張っていると思いますが、何のためのODAか?国家の目標が明確でありません。国民を鼓舞するような、国家目標をはっきりさせる時代なのではないかと思いますが、如何でしょうか? 藤田先生 私は今までの日本の歩みというもの、平和な国づくりでここまで来た、戦後から立ち上がったのですが、高い代価を払ってわれわれは身をもって体得した、「平和な国づくりをしよう」という日本の目標を力強く主張していくべきだと思います。日本は国家政策の一環として世界平和の実現を力強く主張するべきなのですが、日本が湾岸戦争当時、世界から批判されたのは、「日本は世界平和の実現の為に何の代償も払っていない、兵士は勿論、お金も医者も出していない。日本は都合の良いときにだけ平和憲法を主張している」と批判されました。そのように叩かれての教訓から日本は今回のアフガニスタン、イラクにおいて積極的な国際貢献を行いました。湾岸戦争当時日本は、結局、130億ドルという世界最大の資金拠出を行いながら、そのお金の出し方がタイミングを失い、ちびちび出した事でインパクトも無く、医者を出すと言って米国に大きな期待感をもたせたのですが、先ず調査しなければという事で調査団17名の派遣を発表した所、大きな期待感を持って待っていた米国から、「17万のアメリカの若者が血を流しているのに、日本は17人しか派遣しないのか」と批判され、米国議会からも日本批判が墳出、日本バッシングの潮流に油を注ぎました。その底には当時日本の経済力が頂点にあり、米国内の不動産を日本資本が買いあさっていた事もあって、日本の経済力を恐れていたアメリカ人が日本バッシングに走ったという事はあるでしょう。この教訓を汲んで、今回は小泉さんという強い指導者が金銭面の貢献にしても、先ずイラクに40億ドル、アフガニスタンに10億ドルという日本の援助の最終的な数字をパット発表する。人的貢献でも、イラクには陸上自衛隊がサマーワに駐在し、航空自衛隊がクエートに行きました.海上自衛隊によるインド洋での海上給油活動はご存知の通りです。また大使館はイラクにもアフガニスタンにも開設されています.勿論まだまだ日本の制約は多く、武器の使用についても、日本は自衛隊員個人に対する急迫不正の侵害に対してしか使えないので、制約が大きく、イラクでも日本の自衛隊は英国次いでオーストラリアなどの他の国の軍隊から守ってもらう立場なのです。また国連のPKOを見ても、これは平和維持のための軍隊で休戦協定が結ばれ両当事者の了解のもとに派遣されるものであるので、日本が貢献するには最もふさわしい組織です.現に過去においてカンボジア、東チモールなどには日本もPKOに派遣しました.然し日本の努力は不十分です。現在世界には15のPKO活動が行われ、10万人が派遣されていますが、日本はそのうちの一つだけに45名の自衛隊員が参加しているだけです。日本が第2次大戦で人命をあまりに軽視したことへの反省から人命尊重をするのは良いのですが、少し過度になっているということも否めません。それはマスコミの報道によるものもありますが、国民一般の理解が必要であるといえます。平和憲法は立派なのですが、都合の良いときだけそれに隠れて、国際社会での応分の負担をしないという対応が批判される材料になっているということです。 質問者1: 日本がある意味で世界をリードとしてきたというお話でしたが、日本人の市民が余り知らないのが残念です。市民をもっと巻き込んでいくことが重要であると思っております。米国などでは市民がもっと活動を活発的に行っているということですが、日本はまだ足りないように思いますが、実際はどうでしょうか。 質問者2: 先ほど青年海外協力隊で日本の青年が協力していると聞きましたが、世界の国から比べると多いのか少ないのかということを教えてください。 質問者3: 二国間援助は日本も進んでいると思いますが、多国間援助が少ないように思いますが、どうでしょうか? 藤田先生 全て非常に重要な問題です。日本では政府の活動に対する民間の参加が重要です。一般の日本人のボランティア活動に対する熱意は素晴らしいものがあります。それは阪神・淡路大震災の時に見られた何百万のボランテイアの存在、ロシア船による重油汚染問題にも日本海側に多くのボランテイアが赴きました。このような現象から、日本人にボランテイア精神が多いという事には問題が無いと思います。然し国際的活動という事になると、日本人の活動は見劣りがします。世界で紛争が起こったとき、まず先に駆けつけるのが欧米のボランテイア団体、次いで各国政府が行きます。各国政府機関が現地に到着したときは最初に入った欧米のNPOが種種のプロジェクトをすでに作ってしまっています。これが国際機関に提出され国際的アピールとなって日本を含む各国政府がこれに応じた資金拠出をします.これらの資金は当然のことながら原案を作った欧米のNPOに振り当てられるのです.後から現地にはいった日本のNPOの出番は全くありません.日本のNPOが国際的な資金の割り当てをもらった唯一の例はトルコの地震の際、日本から阪神震災時のプレハブが送られ、この組み立ては説明文が日本語だからという理由で日本のNPOが指名されただけです。これは別に日本のNPOの責任では無く、とにかく歴史と経験が無いという事です。欧米はNPOの歴史が長く、組織力も大きく、結果として政府との人事交流、予算の確保で力を持っています。政府とNPOが人事交流を行う結果、欧米では援助人員の層が厚いのが強みです。日本はノウハウもないし、遅れを取っています。NPOとの共同プロジェクト、国民一般に広く訴えかけることが必要です。 日本のODAは減少傾向にあります。その原因としては、ODAは平和協力として認められるものですが、財政赤字が増加している状態であり、公共事業は背後に議員がついているのでたやすく削減できない。ODAも切ったのだから、公共事業も少しはカットしようという見せしめの目的もあるのです。またODAの評判は段々悪くなっています。一つはODAの良い話はあまり報道されず、スキャンダルなど悪い話のみが報道されてきた結果、国民のODAに対する感情が悪化した事。次に中国に対するODAが多かったため、中国に対する悪感情がODAの評判にも影響している事があります。中国は軍事予算を近年増加しており、そもそも核保有国であり、宇宙での活動も活発、アフリカなどにも援助を多くしていることが報道され、対中国援助の大きかった日本のODAの評判が下がったのです。然し対中ODAの目的は、これを始めた大平総理の演説にも明らかにされているように、中国の開放政策を支援する事、開かれた豊かな中国の実現を目指したものです.貧困に打ちひしがれた中国でなく、豊かな中国の実現が日本、ひいては世界の利益であるとの確信で始められたものです。そしてその目的は実現されました。昨年の日本の経済発展は中国経済に負うところが多いのです。日本の韓国に対する援助も同様です。より豊かな隣人を持つことを目的に援助を行ったのです。そしてその目的は達成されました。 青年海外協力隊について説明しますと、第二大戦後も戦前と同様、日本の最大の問題は人口過剰でした。今は少子高齢化の社会で考えられないことですが、戦後は満州も無く、過剰な人口をどうするかが大きな問題でした.そこで移住を進め受け入れ国を探したのですが、日本の評判の悪い当時、日本人の移民を受け入れてくれる国は余りありませんでした。中南米、ブラジル、パラグアイなどを対象に1950年代の終わりから1960年代にかけて移住を進めました。また自民党の若手議員、竹下青年局長,海部学生局長、いずれも後の総理大臣が1950年代末、1960年初めごろ農家の次男、三男対策として東南アジア諸国の開発のために彼らを使う事を考えていました。偶々1960年の大統領選挙戦を制したケネディ上院議員がピースコア(平和部隊)というアイディアを実施に移しました。そこで自民党も日本も農家の次男、三男対策という後ろ向きの考えでなく、前向きの、「平和部隊」の日本版という事で65年に出発したのです。同じようなものは、イギリス、ドイツ、カナダ等々も持っていますが、アメリカの平和部隊が人数も一番多く、評判も高いです。 欧米ではボランテイアを経験すると、就職の場合などプラス1点の評価を与えられます.然し日本では、ボランティアは未だ社会的に評価されていません。青年海外協力隊でアフリカに2年間勤務し、帰国して新卒と一緒の就職の面接に行くと、面接官が、「卒業してから2年間何をしていたのか」と尋ねます。「ボランテイアでアフリカで働いていました。」と答えると、「何だ2年間アフリカで遊んでいたのか?」と言われます。このように意識が低いのが日本の現状です。日本の最大の問題は、社会がボランティア活動に高い評価を与えていないことです。協力隊から帰ってきてからの就職が非常に難しい現状です。なお、ある識者は、青年協力隊に参加して、最も利益を得ているのは参加した青年であり、彼らはその経験によって視野が広がり、日本以外の社会を身をもって体得することで得がたい経験をすると言われています。ボランティアというものがプラスになる社会を育てなければいけないと思われます。