8月6日、午後6時からの「宗教と平和」の第64回未来構想フォーラム当り、
中澤英雄先生(東大教養学部教授)より事前のレポートをいただきましたので
ご紹介します。

「私は8月6日の朝、広島平和公園で開かれる平和祈念式典に出て、8時15分
の黙祷に参加します。
この黙祷に関して、私がボランティアとして協力しているニューヨークに本部
を置くWorld Peace Prayer Societyが全世界の人々に同時に参加することを呼
びかけています。http://www.worldpeace.org/teleconference.html

SkypeやJAJAHの環境をお持ちの方は、上記サイトから登録して
、World Peace Prayer SocietyのTeleconferenceに参加することができます。

また、http://www.worldsoundhealing.org/ tで、このライブ中継を聞くこと
ができます。

そのためにはあらかじめ、http://www.worldsoundhealing.org/keepinformed.php
で、自分のEメールアドレスを登録しておかなければなりません。

その上で、8月6日の8時10分ころに上のURLに再接続すれば、広島からの
ライブ中継を聞けるはずです。
TeleconferenceとWebcastの違いは、Teleconferenceは自分も発言できますが、
Webcastは聞くだけだという点です。

World Peace Prayer Societyはその後、英語で世界190カ国1カ国ずつの平
和を祈るWorld PeacePrayer Ceremonyを9時まで行ないます。Societyの上記
サイトから、英語の国名リストをダウンロードできます。

午前9時になりますと、今年4月に広島平和文化財団の理事長になったスティー
ブン・リーパー氏が、原爆ドームのそばの私のところにやってきて、携帯電話
を通して、全世界に広島からのメッセージを伝えます。Skype、JAJAH、あるい
はhttp://www.worldsoundhealing.org/ のWebcastでこのメッセージを聞くこ
とができます。

原爆100万人米兵救済神話の起源

(メルマガ「萬晩報」2007年07月08日号に加筆)

              東京大学教授 中澤英雄(ドイツ文学)

 久間章生前防衛大臣の「原爆はしょうがなかった」発言につづき、米政府の
ロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)が2007年7月3日に、
広島・長崎への原爆投下について「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の
数十万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったと
いう点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と語ったという(朝日新聞
7月4日)。

 アメリカは以前から、原爆は100万人の米兵の命を救った、として原爆投
下を正当化してきたが、今度は、「何百万人もの日本人の命を救った」と、日
本国民にまで、原爆投下に感謝せよ、と託宣するわけである。こんな議論に関
して「ほとんどの歴史家の見解は一致する」というのであれば、どういう歴史
家がそういう見解を述べているか、ジョセフ氏は明らかにすべきである。

 原爆が何百万人もの日本国民の命を救った、という神話はともかくとして、
アメリカでは、原爆が100万人の米兵を救った、という神話が流布し、今で
もそれを信じている米国民は少なくない。以下では、この神話がどのようにし
て生まれてきたかを考察する。資料は仲晃著『黙殺』上・下(NHKブックス)
である。

 ■トルーマンがあげる3種類の数字

 『黙殺』上巻によれば、原爆投下の指示を出したトルーマン大統領は、戦後
になって、原爆によって救われた米兵の数を少なくとも3種類あげている(上
巻122頁)。

(イ)25万人:1948年4月12日、妹に宛てた手紙
 「米兵25万人を救うため」(トルーマンは「lives」と書いているので、
25万人の戦死者を救うため、という意味になる)。

(ロ)50万人:1955年に出版された回顧録
 「マーシャル将軍は、敵を〔原爆を使わないで〕本拠地で降伏させるには、
50万人の生命が失われることになるかも知れないと私に告げた」

(ハ)100万人:1953年、シカゴ大学ケイト教授への手紙
 マーシャル陸軍参謀総長から、「アメリカ軍の戦闘犠牲者(カジュアルティー
ズ)は、少なく見積もっても25万人、多ければ100万人にものぼるかも知
れない」と聞かされた。

 ここで注意しなければならないのは、戦死者(lives)と戦闘犠牲者
(casualties)の違いである。米軍が「カジュアルティーズ」と言うときには、
それは戦死者、負傷者、行方不明者を合計したものをいう。日米戦における米
軍の戦死者は、全戦闘犠牲者の平均20〜25%であった(上巻70頁)。負
傷者の中には、数週間の治療で、戦線に復帰できる者たちも含まれる。

 (ハ)では「戦闘犠牲者(カジュアルティーズ)」という言葉が使われてい
る。戦死者をその25%とすると、トルーマンは「少なくて6万2500人、
多ければ25万人の戦死者」とマーシャルから聞かされていた、ということに
なる。

 トルーマンがあげる数字は、時と相手によって違っていて、とうていまとも
な根拠があるとは思えない。彼は数字の根拠を「マーシャル将軍」=「マーシャ
ル陸軍参謀総長」に帰している。それでは、マーシャルがその時々に、違った
数字をトルーマンに情報としてあげたのであろうか?

 ところが、マーシャルが日本上陸作戦によって生じる戦闘犠牲者数(=原爆
投下によって救われた戦闘犠牲者数)を(イ)(ロ)(ハ)のような数字で推
計し、トルーマンに報告したことを示す公式文書は一つも存在しない。

 マーシャル自身は、トルーマンのでたらめな数字について言及も反論もしな
かった。仲氏は、

「トルーマン大統領が戦後、原爆投下の決定と関連して、マーシャル元帥の権
威を利用して戦争犠牲者推定をクルクルと変えながら引用するのを見ても、当
のマーシャルは一度も抗議はおろか、不平も漏らさなかった。ノーベル平和賞
さえ受けたマーシャルが、自分の人間的評価を犠牲にしても貫いた彼なりの祖
国への忠誠のかたちであった」(上巻129頁)と推測している。

 ジョン・トーランドの『最後の100日』によれば、マーシャルは生前、
「自分は本を執筆することはないだろう、なぜなら、ある人々についてはとう
てい率直に語る気になれないだろうから」と述べていた(邦訳上巻64頁)。
この「ある人々」の中にはトルーマンも含まれていたと想像することができる。
つまりマーシャルは、トルーマンの嘘に内心は不快感をおぼえながらも、「国
益」のためにあえて沈黙を守ったのであった。

 ■1945年6月18日の最高会議

 沖縄戦の終結が間近に見えてきた1945年6月18日、今後の日本侵攻を
めぐってホワイトハウスで最高会議が開かれた。日本上陸作戦には当然大きな
損失が予想される。その被害を推計しないで作戦を立てることはできない。

「現在までの時点で、日本上陸作戦による米軍の被害を推定したもので、公式
記録に残っている最も権威あるものは、1945年6月18日(月曜日)午後
3時半から、米軍の文字通りの最高首脳部を集めて、ワシントンのホワイトハ
ウスで開かれた会議での各種の発言である」(上巻131頁)

 この最高会議の資料として、「統合作戦計画委員会」は、日本を降伏させる
ための3通りの本土上陸作戦案を作成し、各作戦における戦闘犠牲者数も予測
もした。

〔第1案〕南九州に上陸、次に北西九州に上陸。
 戦死2万5千人,負傷10万人,行方不明2500人(総計12万7500人)

〔第2案〕南九州に上陸、次に関東平野へ侵攻。
 戦死4万人、負傷15万人、行方不明3500人(総計19万3500人)

〔第3案〕南九州、次に北西九州、さらに関東平野へ侵攻。
 戦死4万6千人、負傷17万人、行方不明1万4千人(総計23万人)

 6月18日の会議では、マーシャルは戦闘犠牲者数については削除された作
戦メモを読んだ。戦闘犠牲者数が削除されたのは、統合作戦計画委員会が「米
軍の損害を数字で表すのは、過ちである」と考えたからである(上巻133頁)。

 そのあとの議論では、マーシャル、キング、リーヒ、マッカーサーの各元帥
が戦闘犠牲者の推定を述べた(マニラにいたマッカーサーは電報で)。それに
よると、推定戦闘犠牲者は最低3万1千人、最大6万5500人程度であった
(上巻135頁)。これは、「統合作戦計画委員会」の数字よりも著しく小さ
い。元帥たちはそれほど日本上陸作戦を楽観的に見ていたのである。言い換え
れば、日本がもうほとんど戦闘能力を失っていることを知っていたのである。
この会議では結局、第2案が採用された。

 ■数字の水増しのプロセス

 トルーマンは「統合作戦計画委員会」の戦闘犠牲者推定を読んでいないが、
会議の席で「推定戦闘犠牲者は最低3万1千人〜最大6万5500人」という
議論は聞いている。

 繰り返すが、6万5500人というのはあくまでも全カジュアルティーズの
数である。戦死者はその4分の1ないしは5分の1である。大統領ともあろう
者が、そのことを知らないはずはない。ただし、もしこれが戦死者の数である
とすると、全カジュアルティーズは、6万5500人×4または5=26万2
千または32万7500に膨れあがる。

 トルーマンのあげる数字が、いつも「25万」とその倍数であることに注意
しておこう。トルーマンの(イ)の「25万」という数は、おそらくこの6月
18日の会議の記憶によるものであろう。トルーマンが数字を膨らませていっ
たプロセスは以下のようであろうと推測される。

(0)カジュアルティーズ=6万人あまり(1945年6月18日の会議の記
憶。唯一の根拠ある数字)

     ↓
(1)戦死者約6万人=カジュアルティーズ25万(カジュアルティーズを戦
死者と読みかえることによって、カジュアルティーズをその4倍とし、細
かい数字を省略して約25万という数字を作る)     ↓
(2)戦死者25万(カジュアルティーズを戦死者と読みかえる。「イ」の妹
への手紙に対応。1948年)     ↓
(3)戦死者が25万なら、カジュアルティーズは100万になる。(「ハ」
のケイト教授への手紙に対応。1953年)     ↓
(4)戦死者50万人(戦死者数をさらに2倍に膨らます。「ロ」の回顧録。
1955年)

 驚くべき数字の水増しだが、トルーマンが意識的にこういう数字の操作を行
なったとは考えられない。意識的に数字を操作したのであれば、あとから嘘が
すぐにばれるような矛盾した数字をあげるわけはない。仲氏は、

「トルーマンが次々と数字を膨らませたのは、広島と長崎での原爆による大量
の死者に対する内心の動揺を鎮め、日本への原爆攻撃の妥当性について、19
50年代に聞こえるようになった批判の声を沈静化させるためであった、とす
る見方が多い」(上巻130頁)

と述べている。

 トルーマンは日本への18発の原爆投下を承認していたという。しかし、広
島・長崎の惨状を知ったとき、彼は内心、原爆投下による民間人の大量虐殺に
強い罪の意識を感じ、3発目以後の使用を禁じた。彼にも一抹の良心が残って
いたのである。原爆投下の直後、リチャード・ラッセルという上院議員がトルー
マンに、この機会に日本を徹底的に破壊してほしい、という手紙を出したとき、
トルーマンは、

「日本人が野蛮であるからといって、われわれも同じように振る舞うべきだと
自分の信じさせることはできません。ある国の指導者が「一徹」だからといっ
て、その国のすべての人たちを抹殺する必要に迫られることは、私としては間
違いなく残念に思っており、絶対に必要にならない限り、自分はそれをやるつ
もりはないことを、あなたにお伝えしておきます」と返答した。(下巻239
頁)

 8月10日の閣議でトルーマンは、「今後さらに〔原爆で〕10万人の人間
を抹殺するなど、考えるだけでも恐ろしすぎる」と述べた。(下巻254頁)

 しかし彼は、原爆投下の誤りを正直に認めるよりも、自分の罪の意識を和ら
げ、非人道的な原爆投下を世界人類に対して正当化するために、無意識からの
衝迫に突き動かされて、原爆によって救われた米兵の数を、戦死者とカジュア
ルティーズを混同することによって、次々と水増しせざるをえなかったのであ
る。

 ところがその後、アメリカでは、トルーマン自身が直接は述べていないにも
かかわらず、

(5)原爆によって100万人の米兵の命が救われた。

という新たな神話が生まれた。これは(3)の「100万人のカジュアルティー
ズ」が「100万人の戦死者」にすり替えられて出てきた数字である。そこで
はいつでも、戦死者とカジュアルティーズの混同という同じインチキ計算式が
使用されている。

 この神話を宣伝しているのは、軍事史研究家のエドワード・ドリアやD・M
・ジャングレコなどである(仲氏著書)。これは、トルーマンではなく、アメ
リカ国民が、みずからの行為を正当化し、罪の意識を和らげるためにつくり出
した神話である。この神話にさえも安住できず、アメリカ国民は、「原爆は何
百万人もの日本人の命を救った」という新たな神話まで必要としているのであ
ろう。

 だが、事実を直視しないで、虚構で罪の意識を隠蔽しているかぎり、アメリ
カ人の心に永遠に平安が訪れることはなく、次から次へと新たな神話を必要と
するのである――ちょうど、次々と数字を膨らませていったトルーマンと同じ
ように。

 ■朝鮮戦争のとき

 1950年11月、国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーは、朝鮮戦争
に早期に勝利するために、朝鮮半島と中国への核攻撃を主張した。当時、アメ
リカの議会もマスコミも原爆の使用を求めていた。トルーマンも一時、原爆の
使用を示唆する発言をしたが、これに対して全世界から激しい反対の声が湧き
あがった。結局、トルーマンは戦争の途中でマッカーサーを解任したが、それ
はトルーマンの人気を下げた。

 トルーマンが国内世論に逆らい、自分の政治的立場を悪化させる形で、朝鮮
戦争での原爆の使用をやめたのは、

(a)国際世論の反対
(b)広島・長崎への罪の意識
(c)原爆を所有していたソ連との対立を激化させることへの恐れ

などが重なったためだと思われる。これらのいずれの理由の背後にも、広島・
長崎で明らかになった原爆のすさまじい破壊力に対する恐怖があった。言い換
えれば、広島・長崎の犠牲が、トルーマンに朝鮮戦争での原爆の使用を断念さ
せたとも言えるのである。

 その後の冷戦期にも、米ソの指導者は何度か核ミサイルの発射ボタンに手を
置きかけたことがあったらしい。しかし、それを押すことを最後のぎりぎりの
ところで思いとどまらせたのは、広島・長崎の犠牲者の姿ではなかっただろう
か。広島・長崎は、朝鮮半島や中国大陸に原爆が投下されることを防いだだけ
ではなく、60数億の世界人類を核戦争による破滅から救ってきたのである。