文明評論家 金容雲氏 紹介

金容雲先生はユニークな日韓比較文化論を展開されています。ここに紹介する記事はまさに
預言者的メッセージです。

 トインビー流に言えば、真理に命を賭ける学者は“現代的預言者”、愛に命を賭け、神と人、
人と人の和解を仲保する宗教家は“現代的祭司”、正義に命を賭ける政治家は “現代的国王”です。
かつて国王と祭司と預言者の三者は歴史のキーパーソンであったように,
現代も政治家・宗教家・学者は国家や世界の命運を握っています。

利益(経済)よりは正義(政治)を、正義間の闘争には真理の審判を、しかし人生に意味を深め、
完全なる勝利は愛以外には無いようです。ホモ・ファーベル(工作人間)からホモ・エコノミックス
(経済的動物)、社会的動物、ホモ・サピエンス(知性人間)からホモ・エイムス(愛人間)へ、
個としの人間から連帯としての「人間」(ジンカン)へ、今、時代は人間がその人間本性を100%
発揮できる本性人の時代へと移りつつあります。

金容雲先生は真の学者として、時代に対する預言的メッセージに最大の関心を払って来た尊敬する
お一人です。                 (大脇 準一郎・記)

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金容雲 (Kim Young Woon キム・ヨンウン)
 1927年、東京生まれ。47年、早稲田大学を中退し、解放後の韓国に帰国。
58年、渡米。カナダのアルバータ大学から位相数学で
博士号を受ける。69年,帰国、漢陽大学で教鞭を執る。韓国の著名な数学者,文明評論家でもあり、
国際日本文化研究センターなどで客員教授を務めるなど、たびたび来日。
前韓国MBC放送文化振興会理事長。

【著 書
「鎖国の汎パラダイム 日韓文化の異質性」 (1984/11)
「訪れる没落―「原型史観」が示した日韓米の盛衰」(1988/8)
『かしこ型』日本人と『かちき型』韓国人(1994/6)
「日韓民族の原型 同じ種から違った花が咲く」 (1986/10)
「韓国人と日本人 双対文化のプリズム」(1983/7)
「日韓歴史の理解」(1997/8)
「突破口の三国史―21世紀を生きる 日本・中国・韓国」陳舜臣/金容雲 (1999/6)
「民族と統一を想う」 金大中/金容雲 (1997/4)
「醜い日本人―「嫌韓」対「反日」をこえて」 (1994/9)
「韓国人、大反省―「エセ韓国人論」はもう要らない」 (1993/12)
「日本の喜劇―「のらくろ国家」の成長と限界の構造」 (1992/12)
「日韓の宗教意識と天理教―崇りの神 恨の神 救いの神」 (1985/7)
「21世紀アジアの突破口」
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「激論・日本型経営は正しい」船井 幸雄・陳 舜臣/ビル・トッテン/田原総一朗/金容雲 (1999/3)
 加藤周一対話集 5 加藤周一/金容雲 かもがわ出版 (2005/2)
 在日を生きる思想 『セヌリ』対談集 朴鉄民/編(2004/7)
 韓国数学史 金容雲/金容局/ 1978年11月


 

 
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東アジア共同体をめざして−母の愛の心を復権させようー
2004年12月24日 韓国漢陽大学名誉教授 金 容雲氏の講演(要旨)

 京都でこのほど「平和を創(つく)るオモニ(母親)大会」(主催・アジアの子ども達を育む母親の会)
が開かれ、韓日文化交流会議の韓国側座長で漢陽大学名誉教授の金容雲氏が「東アジア共同体をめざして
−女性・母親の役割」のテーマでの講演した。

○ 北朝鮮を変えるカギに/兄弟関係では和解できず

日本と韓国はエビとカニのような似通った間柄だ。どちらがエビでどちらがカニでも構わないが、昔は同じ民族であり、同じ言語と文化を共有していた。いつしかそれが違う言葉を使うようになり、文化も違ってきた。しかし、韓国語で母親のことをオモニというが、日本でも、天皇家が明治維新で京都から東京へ移るまでは宮中で母上のことをオモオ様と呼んでいた。母屋(おもや)という日本語も残っている。 韓国語では愛のことをサラン、人間のことはサラムと言い、よく似ている。初めは同じ意味から生まれた
のだろう。今私たちが生きていく上で何が一番必要か。あえて先に結論を申すならば、オモニという愛の心を日本でも復権させよう、サランという言葉の意味を考え直してみようということだ。 私たちは今、人類史的な大変な時代に生きている。次代を担う子どもたちがどうなるか分からないような非常に危険な時代だ。一つは中東のパレスチナ問題であり、もう一つは北朝鮮の核の問題。両者は人類の命運を左右する重大な問題であり、根源においては深くかかわっている。
 中東で生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教は根っこは兄弟関係だ。同じアブラハムの子孫であり、同じ神を信じている。なのに、人間のあさましさで紛争が絶えない。この問題を解決するには、もはや宗派であるとか、教会とかに固執している場合ではない。母という存在、その分け隔てない愛の姿を通じて、私たちは兄弟同士、仲良くでき、互いを理解し合うことができる。
 結局、問題解決のカギは母の心になることだ。彼の言うことも我の言うことも全部総合して、より高い次元から愛をもってお互いを見ることから和解が可能になる。その愛こそはオモニの愛、母親の愛である。
 愛は時には非常に醜い形をとる。美しい言葉だから、そこには毒もある。韓国動乱の時も、北と南は同族同士がお互いに愛国心で戦った。偏狭なナショナリズムに陥りやすい愛国心ではなく、そういう愛を超越したオモニの愛であったならば、兄弟同士で戦うことはなかったと思う。
 ここでついでに、最近のヨン様ブームについて考えてみたい。なぜ多くの日本女性、特に年配の女性の心を捉(とら)えたのか。一つには、その世代の女性は結婚の時に男性から、あまりストレートな愛の言葉を受けていないようだ。日本には古来、「目は口ほどに物を言い」とか「偲(しの)ぶ恋」という表現があるように、胸中の思いをはっきり伝えないのが美徳とされてきた。
 そこへあのヨン様のような美男が現れて、サランヘヨ(愛してるよ)を連発するものだから、そういう雰囲気を知らずに来た女性たちがコロッと参ってしまった。ただ、このブームがいつまで続くかは疑問だ。人間は飽きっぽいし、ヨン様だって年をとる。私が願うのは、日本人と韓国人との間でサランという言葉の本質への理解が広まることだ。ただ、ドラマの上での話ではなく、この危機的な現実の国際情勢を打開する上でサランというものがどういう意味を持つのか、その可能性について考えなければいけない。
 日本はどうして今まで韓国にサランの思いを持てなかったのか。サランの反対は憎しみだ。これは人を害し、歴史をゆがめ、物事を否定的に展開させる要素だ。いつから日本は韓半島に憎しみを抱くようになったのか。 飛鳥時代の六六三年、日本は百済を助けるため、国を挙げて大軍を派遣したが唐と新羅の連合軍に大敗した。その時のうらみ、つらみは大変なものだった。そもそもどうして新羅(しらぎ)と呼ぶのか。一般的な法則として、韓国語が日本語に変わる時は言葉が短くなった。たとえばクルム(雲)がクモに、シルムが相撲になった。 新羅もシルラからルが抜けてシラと言うはずなのに、シラギと言うようになった。韓国語では憎らしい場合、語尾にギをつける。シラギというようになったのは、それほど憎んでいるということだ。一方で、なぜ百済(くだら)と呼ぶのか。最初に奈良で国造りをした人が、自分の本国のことを偲んでクンナラと言った。それが、なまってクダラになった。だから、百済、新羅という言い方の中に、百済愛(いと)おし、新羅憎しという思いがこもっている。その思いが日本歴史に連綿と流れてきた。 憎しみというものは個人の場合もさりながら、民族同士で伝わっていくと、相手との絶え間ない攻撃、抑圧が繰り返される。イスラエルとパレスチナの問題も、もともとは兄弟関係なのだが、憎しみの連鎖になってしまった。

○――○ 半島の永世中立国化が理想/日本には大きな経済的効果

 韓半島の問題は単に北と南の問題ではない。周辺諸国の利害があの地域に複雑に絡んでいる。ユーラシア大陸の端にあるあの半島が平和にならなかったら、東アジアは平和にならない。これは韓半島の宿命でもある。韓半島を統一するには、それが誰のマイナスにもならず、必ずいい結果をもたらす、利益になると認めさせるしかない。だから韓半島から核が除去され、統一されるのは当然だけれども、統一し核をなくした後を誰が保障するのか。今ちょうど北朝鮮の核をめぐって六カ国協議をしているが、もっと高い
次元から考えていかないとこの問題の真の解決は図れない。 日本が真珠湾攻撃に踏み切った時のことが一つの教訓になる。あの当時、日本列島はいわゆるABCD包囲網で追い詰められ、石油も鉄も入ってこなくなった。事態を打開するため、日本は武力に打って出た。座して死を待つより、暴れ回ってやろうと。
 その事情は、現在の北朝鮮が置かれた状況にも通じる。北は日本の軍部と同じようなことをやりかねない。物理的な圧力だとか政治的、外交的な圧力をかけるより、もっと重要なことがある。人間同士としての愛・サランだ。彼らが私たちの愛を信じることができるならば、彼らだって譲歩するだろう。
 あの政権はまともな政権ではない。数百万人を餓死に追い込んだ。政治的な力学、単純な経済的な対応ではなく、愛の心によらなければ、あの国は変わらないと思う。現在継続されている六カ国協議も、単に核を放棄させるだけの会議ではなく、核をなくしたあと、韓半島のあり方をどうすべきかを考えていかないと絶対に北の問題は解決しない。双方の互いの理解を求めていく作業がもっと必要だ。
 韓半島の今までの過酷な歴史を振り返り、日本が新羅を憎み、その延長線上に韓半島を憎み、自分の生命線だと信じてきた場所に共存共栄の地域をつくり出すような発想にならなければいけない。貿易や安保の問題がかかわってくることはもちろんだが、基本的に私たちが信じ合える間柄になることが先決だ。
 もっと具体的に申し上げると、韓半島の問題は核をなくすよりも、なくしたあとをどうするかという理想が目の前に描かれていなかったら、核はなくせない。
その理想をあえて言うならば、韓半島は永世中立国になるべきだということ。さらに私たちが望むのは、東アジア共同体という構想だ。
 韓半島が統一され、南北がお互いに共存共栄の関係になれば、日本にとっても大きな利益になる。例えば、日韓を隔てる海峡の下に海底トンネルを通し、半島を経由してユ
ーラシア大陸に直結されれば、その経済的な利益はどれほど大きなものになるだろうか。
 日韓における文化の開放政策が今日のヨン様ブームを巻き起こした。それを考えれば、韓半島が中立国になって、周辺諸国がそれを祝してくれた時、どれほど大きな文化的、経済的効果が生まれることか想像するに余りある。
 だから、私は南北の統一、永世中立化、東アジア共同体の確立、そしてそれが世界平和につながると考えている。今の休戦ラインも平和ラインにして、過去の人間の愚行を展示して、世界平和を発信する特別の地域にすればいい。
 さらに、今後の日韓関係を考える上で思い起こしたいことがある。それは、二〇〇一年における天皇陛下のご発言だ。天皇は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」とおっしゃられた。そのオモニを思いながら、韓国にある武寧王のお墓に参っていただきたい。そのことによって本当に韓国人と日本人は一つになれるだろう。 結局、今私たちが信じられることは何か。それは難しい哲学ではない。経済的理論でも、国際的力学でもない。オモニサラン、母の愛の偉大さである。


21世紀の東アジア共同体を 平和慰霊祭・平和フォーラム/韓国国会議員ら出席  札幌市と清水町

 二十一世紀の日本と韓国など東アジア諸国の真の友好関係構築と世界平和を願う「平和合同慰霊祭と平和フォーラム」が十八日、札幌市と十勝郡清水町で開かれた。
 慰霊祭はこの日午前、韓国から国会議員や教授、文化人など二十人が出席、日本側からは約千人の道民が参加。第二次世界大戦下の犠牲者の霊を慰めるとともに、日本の過去の過ちを反省し、東アジアの和合と世界平和の構築を願った。 参加者はまず、元従軍慰安婦で今回の慰霊祭への参加を待ちわびていながら、今年六月三十日に他界した金順徳ハルモ二ムを全員で追悼した。このあと主催者を代表して谷口博北大名誉教授が挨拶。「過去の不幸な歴史を真摯(しんし)にみつめ、新しい日本と韓国そして東アジアの真の友好関係を作っていかなければならない」と語った。また、来賓を代表して韓日文化交流会議座長の金容雲・漢陽大教授が「恨は愚痴を語って超えられるものではない。より大きな目的を向かって乗り越えていくところに恨みが解けていく。今回の慰霊祭が日韓の新しい出発になる」と挨拶。
 続いて、この日のために韓国から来道した元従軍慰安婦を前に、参加者全員が日本の過去の過ちを謝罪、互いに心のわだかまりを解いた。また、午後のフォーラムでは、大学教授や文化人が出席し、未来に向けた日韓交流の場となった。2004/07/19
いま韓国で何が起こっているのか

金容雲・漢陽大学名誉教授に聞く<下>
劇的に変わる対日観“恐れ”のない若い世代――対日観はどう変わってきたか。

 私は日本大衆文化開放を検討する韓日文化交流政策諮問委員会の委員長をやっているが、五年前から比べても大変に対日観は変わった。全然日本に対する恐れがない。それから日本に対する特別な感情もなくなってきている。 盧武鉉大統領が訪日したとき(今年六月)の言動は、五年前だったら韓国で大変なことになっていただろう。韓国の英霊記念日に訪日し、日本の国会では有事法制が通過し、麻生太郎自民党政調会長(当時)が創氏改名問題を発言して、以前であれば絶対に訪日できるような状況ではなかった
。確かに韓国内で「腰抜け外交」と非難されはしたが、それだけで済んでしまった。大衆文化開放では、私はあまり開放していいのかと消極的だが、若い委員たちはいまさら禁止しても仕方がないと意に介さない。五年前のテレビ討論で「韓国の産業も保護しなければならないが、いまさら、文化について規制するのはおかしい」と発言したら、「日本びいきだ」と非難された。今は逆にこちらがブレーキを掛けるほどだ。彼らは日本の若者との差別感もあまり感じていない。

 ――その理由は何か。

 今の韓国の若者は芸能やスポーツ、コンピューターなど、日本の若者と同じ情報を共有し、同じ体験をしているからだ。彼らの日本の若者への近さは、私(日本生まれ日本育ち)よりも近いものがある。私の学生時代には確かに差別もあり、嫌な思いをしたこともあった。いまだに日本に対するある種の怖さは持っているが、今の若い人たちにはそういう体験がほとんどない。日本社会も変わってきているのだろう。 これで羽田と金浦が(シャトル便で)つながり、FTA(自由貿易協定)ができてしまったら、韓日はもっと近くなると思う。過去とは違った次元で韓日交流が進んでいる。巨大な中国に対抗して、アジアでバランスを取っていけるのは日本と韓国しかないと思う。

 ――韓半島での中国の役割はどうか。

 中国は歴史的に見て、絶対に韓半島を放棄しない。豊臣秀吉が韓半島に攻めてきたとき(文禄・慶長の役=韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱)、明(中国)が出兵している。東学党の乱(一八九四年)の時にも清(中国)が出てきた。そのとき、それがきっかけで二度とも国がつぶれている。国を懸けて応援したわけだ。韓国動乱(一九五〇―五三)の時には中華人民共和国を樹立して(一九四九年)から間もない一年目で参戦してきた。何も整備されていないときに、いわば国を懸けてやってきた。当時、銃もなかったから手榴弾一つを抱えて、敵の戦車に突っ込んだ。これらを見ると中国は絶対、自分に反対的な勢力が韓半島全体を治めるような状況になることを許さないということだ。

 ――歴史的に韓半島は周辺の強国の間で翻弄(ほんろう)されてきた。

そのため、どちらかの陣営に属さなければならなかったが、今後はどうか。 自分は理想主義者だからそうかもしれないが、韓半島は中立にならなければならない。中立国にならなければ答えが出てこないのだ。中立して中国には絶対反対勢力にならないことを明らかにする。そして武装しない。そこに日本の平和憲法が一枚加わって、非核三原則で韓半島一帯を平和な地帯とする。米国も安心させ、中国も安心させる。これはあまりに理想的過ぎるかもしれないが、そうするしかしようがない。

 ――日本もその中立平和地帯に入るということか。

 そうだ。そして日本と韓半島の間に海底トンネルをつくって連結してしまえば、韓日は中立地帯の中核となる。(聞き手=岩崎 哲)世界日報 総合003/11/22

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2002年10月7日金容雲氏が講演 アジアユニオン京都会議で
W杯がもたらした日韓新時代 新文明構築への共通ビジョン、理念重要
 アジアの平和と韓半島の南北統一を願って幅広い交流や情報発信を行う市民運動「アジアユニオン京都会議」
の初会合が先ごろ、京都市内で開かれた。同会議の呼び掛け人
(水谷幸正・浄土宗宗務総長、金容雲・韓国MBC放送文化振興会理事長、湯川スミ・世界連邦全国婦人協議会会長)
を代表し、韓日文化交流会議の韓国側副座長(当時、現 座長)でもある金容雲氏が「W杯サッカー大会後の韓半島と
アジア共同体構想について」と題して講演した。
金容雲氏の講演要旨は以下の通り。
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 日本史は古代から、韓半島とのかかわりを抜きにしては語れない。当時からこの半島の勢力が日本列島を侵略しようとしたことは一度もないが、日本は五、六世紀から少しでも力を持つと韓半島を目指した。 だから、豊臣秀吉による侵略(文禄・慶長の役)は決して突発的なものではなく、西郷隆盛に代表される征韓論も江戸時代から既にその萌芽が出ていた。半島と日本との間には、歴史的にそういう不公平とも言うべき落差がある。 一九四五年の敗戦まで、日本民族の基本的な価値観となっていたのは軍事的思考にほかならない。そこには日本独自の『和』の精神がある。力の強い者を中心にまとまって、弱い者を支配していくというもので、本来の和は『礼』の実践時に示すものなのに、その礼の精神が抜けてしまった、変容した形の和だ。ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』は日本文化の理解し難い面、矛盾性をよく突いていて、今読んでも非常に斬新な感じがする。 日本人には、刀に象徴される侵略性と菊に象徴される芸術、文化を愛する心が混在しているという指摘だが、六六三年以降、日本が韓半島に示して来たのはいつもその刀の部分だった。韓国人が日本人に見てきたのは、いつも刀に象徴される侵略性ではなかっただろうか。

▼ 日本は今こそ、菊の部分を韓国人に見せるべきであり、私たちが今年二〇〇二年を重大視するのもそこに意味がある。ワールドカップの日韓共催が決まったころ、マスコミから感想を求められて私は『これは天佑(てんゆう)だ。日本が菊の部分を見せてくれる千載一遇の好機になるだろう』と話した。

 できれば日韓両チームが決勝でぶつかり、韓国が勝てばいい。勝つことで韓国人の間で根深い日本への怨念が消える。そう希望していたが、実際はそうならなかった。だが決勝で対決したと同じくらいの歴史的な効果があったと思っている。 W杯は単なるスポーツの祭典で終わらなかった。 日本の天皇が、自分の体には百済の血が流れていると発言された(昨年暮れの「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」とのご発言)が、これはW
杯を通じて日韓が新しい時代に入ることをはっきりと感じられたためだ。 そういうかつてないムードが韓半島との間に造成されて、小泉首相の訪朝も実現し、今現在できる最大のことを決断して果たしたと思う。

▼ 改革あるいは新しい歴史を開くということは、往々にして不利益につながることが多い。しかし、それは目先のことだけを考えるからであって、そういう時期を耐え忍ばねば真の前進は図れない。北朝鮮との関係においても、韓国内の既得権者には南北統一は自分たちの利益にならないとして統一を望まない人々がいる。 しかし、このままでいいはずがない。重要なのは、南北統一を目指すとしても、それ以後の文明のあり方を策定するはっきりとしたビジョン、理念がなければいけないということだ。新しい秩序をつくり出す時には、その秩序に対して積極的に参与するという姿勢が伴わなければならない。 そこで日韓はこれまでの考え方を変える必要がある。日本人が貴んできたのは和の精神だが、韓国の場合は『正義』だった。しかし、最近は韓国もかなり変わってきて和の精神を見直している。日韓両国が共通して持つことのできる理念は何か。
 日本的な和が普遍的な和となり、韓国的な正義の観念がもっと広い正義になる。和と正義が一緒になるような哲学、思想を構築することができれば、それが人類に発信する普遍的な新しい文明のビジョンとなるだろう。
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 ◆アジアユニオン京都会議 2001年10月、京都市で開かれた「アジア友好親善フォーラム」の席上、金容雲氏が提案した「アジアユニオン構想」を受けて発足した。今後も日韓朝中の四カ国の連帯を軸に、真の国際交流と相互理解を深めるためさまざまな民間レベルでの活動を展開しいく方針という。 (C)Sekai Nippo Co.Ltd(1975-) Tokyo,Japan.

文化交流の未来 独立した「文明圏」めざそう金容雲座長 講演 (2006/9/8,プレスセンタービル)

 韓日文化交流会議の韓国側座長を務める金容雲氏は8日、日本プレスセンタービルで「韓・日文化交流の未来」という題の講演を行った。
 金座長は日本記者クラブの会員を前に、文学、歴史、文化などの幅広い話題を用いながら韓日文化を比較。万葉の時代から近代に至るまでを分析しつつ、これからの韓日関係の向かう方向について述べた。

 「公」と「サラン」。金座長は韓日の文化の違いをこの2単語に集約して講演を始めた。金座長は「公」に相当する韓国語はないということを例にあげ、日本には、個人を犠牲にしてまで公に尽くす文化があったと述べた。反対に韓国は個人の感情や先祖に対する祭祀を大切にするという。韓国語の「サラン」は日本語で「愛」としているものの正確に言葉の意味を表してはいない。国民国家の形成の段階で、この違いは最も顕著に表れた。金座長は韓国が日本の植民地下に置かれたのも、個人や家を重視する文化が
否定的に働いて、韓国が近代化に失敗したからだと述べた。現在の韓流ブームのきっかけとなった「冬のソナタ」の一節。日本のファンが最も好きだというせりふにこそ韓国文化が表れているという。「もし道に迷ったらポラリス(北極星)を探せばいいんだ」自分を信じてくれと頼む主人公の言葉や、ストレートな愛情表現は、今まで日本のドラマにはなかった。その新鮮さが受け入れられたと金座長は言った。このストレートな表現と、昔からの天水田(雨水に頼った稲作)によって培われた韓国人の国民性が、現代
の情報化社会で韓国が躍進する要因になったと金座長は述べた。韓国人のベンチャー精神、生命力が国を興し、国民の自信につながったというのだ。
 そのような成長を遂げた今の韓国に、反日教育を行う必要はないと金座長は説いた。解放後間もない時期とは違い、今の韓国は独自の文化と産業を持っているからだ。また、今後の産業の発展のためにも、「公」の精神など、まだ日本から学ぶところはあると考えを述べた。座長を務める韓日文化交流会議については、かねてからの念願であった高句麗遺跡の世界遺産登録がなされたことを報告。今後は韓日を独立した「文明圏」にするのが目標だと語った。講演が終わると質疑応答が始まった。今後の韓日関係につい
て意見を聞かれた金座長は、民間の交流が進んでいることと、天皇家の言動から、韓日の交流はますます盛んになると見通した。特に天皇家は百済の武寧王と関係が深いとし、いつか天皇に公州の武寧王陵をたずねてもらいたいと述べた。          http://www.onekoreanews.net/news-syakai03.cfm


 「歴史認識と友情」 金容雲「韓日友情年 2005」諮問委員 基調講演

■最近、韓日間の政治的な摩擦が起きています。果たして、韓国と日本の間には共通したものがあるだろうか。そのようなことについて考えてみたいと思います。

■1962年に仏独首脳会談が開かれ、ドゴールはボンの市庁舎のバルコニーに立ち、ドイツ国民に対してドイツ語で(演説を行い)、「これからは新しいヨーロッパを建設していこう」と勇気を与えました。しかし、日本語がよくできる韓国の外交官が日本に行って、日本人にだけ話をするときにも日本語を使うことはタブー視されている。先日、イスラエル出身の音楽家、ダニエル・バレンボイムがベルリンフィルハーモニーの指揮をし、ナチスが好んだワグナーの曲を演奏しました。彼らはヨーロッパ文化に共通してい
る思想を共有し、1つの価値を持って歴史的な事実を評価しているが、果たして韓国と日本の間に共通したものは何があるでしょうか。

■この 2つの国で古典だと言えるものは何があるでしょうか。韓国人が書いたものであれば『三国史記』『三国遺事』、というものがあります。日本には『日本書紀』と『古事記』、『万葉集』があります。果たしてこれらの間に共通した韓国と日本の文化的な遺産があって、お互いに吟味し、評価できるような文化的な雰囲気が醸成されているか
どうか、大変懸念をしています。

■特に『日本書紀』は、戦争が終わって 40年、50年の歴史を経て、720年に完成された世界であります。その中には、韓国と日本の好意的な関係を維持するようなことは書いていません。戦闘を通して行われた内容についてのみ書いてあります。唐と新羅に敗北してしまった残念さを克服しようという意図が明らかに出ています。

■戦闘の最後の部分には大変印象深い文章が書いてあります。「今日をもって百済の名は絶えた。どのようにしてふるさとに― 彼らのふるさとは熊津(クマナリ)というところですけれども― 再び帰られるだろうか」というような内容があります。戦闘に負けた日本の軍人たちは、3万2000人で、ほとんど全滅した状態でした。動ける百済の人たちはほとんど日本に行ってしまったという状態です。司馬遼太郎さんは、当時の百済の人口は約20万人であると推算しています。百済の人たちが果たしてどのようにして日本に
行っただろうか。当時の船の大きさを考えますと想像すらできないことです。皆がボートピープルになって百済を離れて、どれだけ大きな悲しみを持って日本に行ったでしょうか。韓国人はそれを理解できないのではないでしょうか。新羅の人たちもやはりそうです。その当時、新羅(シンラ)は日本について全く関心がなく、唐の国についてのみ関心を持っていたわけです。驚くことは、渤海が満州と 1つになると新羅が攻撃をするということがありました。その事実は、日本が武力を持ったらいつでも朝鮮半島を侵略
するという新羅の怨恨がその下に敷かれていたのではないかと思います。その結果、日本ではとても独特な朝鮮半島に対する目が形成されたわけです。文物が朝鮮半島を通して日本に来たことをみんな知っていますが、(日本の)学者が本を出版するときには、「朝鮮半島から来た」とは書かない。すべて「中国を通して日本に来た」と書くわけです。私は、反骨で知られた歴史学者の家永(三郎)さんの本を見て驚きました。その当時、「日本の文化はすべて中国を通して来た」と言う。本当に不思議に思いました。
百済の学者は仏教や儒教を受け入れるとき、中国やインドから直接受け入れたわけです。その人がそれを持って日本に渡っていきました。これがメイン・ストリームとなり、韓国から渡ってきたものを「中国から渡ってきた」というふうに表現するような傾向が今まで続いているわけです。韓国も口に出すのを避けておりました。唐(から)と言ったら韓国の「カラック」を意味したりもします。韓国を以前は「カラック」と言っておりました。唐国は韓国のことでした。これが時代を溯って、唐(から)という字がほかの国に変わってしまいます。この唐(から)は中国の唐(とう)になってしまいます。

■最近ですが、朝鮮通信使が日本に渡って遺したものも全部が「カラック」、つまり韓国の昔の名前ではなくて、中国の唐(とう)の国から来たものとなっています。ある地域に通信使が遺した踊りがあります。踊りの名前が「からっく踊り」です。学者が調べてみたら朝鮮通信使が遺していった踊りです。日本のこのような態度を私たちが非難するよりは、それ以前にあった日本の方々のルサンチマンを理解しなければなりません。

■新羅は最後まで日本を敵対視して、「倭」という言葉で日本で表現しました。韓国と日本の間では、お互いの国の名前さえも正式に呼ばない歴史がそのときにつくられました。日本はトラやヘビのようなやつということで新羅と呼び、韓国の人は日本ではなく、「倭」であって、礼儀作法も知らない変な国であるというふうに日本を呼んでおりました。お互いのイメージを正す機会がありませんでした。

■だから日本人が武力を持ったら攻撃するというわけです。それが豊臣秀吉であります。豊臣秀吉は韓国を侵略しましたが、口実は『日本書紀』にあります。『日本書紀』の「神功皇后の条」をもって豊臣秀吉は韓国に出兵したわけです。日本のものだから日本人が韓国に出兵するのは当然であるという発想から、朝鮮出兵を決めたわけです。韓国人からしてみると、とんでもないことですが、日本人には根拠があります。壬辰・丁酉の乱、つまり文禄・慶長の役が終わった後、日本は韓国の農民の耳を切って、鼻を切って、耳塚、鼻塚をつくりました。このような状況をどう表現すべきでしょうか。

■つい数年前まで韓国人が一番楽しんでいた話は春香伝(チュニャンジョン)*注:18世紀初めに唱物語として創作され、のち小説化された、朝鮮時代の代表的な文芸作品。と四溟堂(サミョンダン) *注:松雲大師。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際に、朝鮮の軍を率いて義僧将として戦い、その後外交僧として活躍した。です。四溟堂が特別なテクニックを使って日本に行き、日本の人々の皮を剥いで、その皮を10万枚持ってきたというとんでもない物語で、あたかも実話のように語っていました。幸いこのような内容は韓国の歴史の教科書に載っていません。韓国の新羅、高句麗の人々はみんなひざまずいて降伏して、朝貢を捧げる約束をしたというのが『日本書紀』の「神功皇后の条」でありますが、これもやはり歴史の架空の話です。歴史に残っているということで、代々教えられ、教育され、これが爆発的に影響を及ぼしたりもします。

■韓国の若者が数年前ベストセラーとして読んでいた本があります。『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』という題名の本です。本の内容は、韓国の天才科学者が日本を攻撃して、日本が木っ端みじんになるという話であります。日本の「神功皇后の条」の内容とほぼ同じだと言えるような内容であります。私はこのような内容を民族的なルサンチマンと思います。ルサンチマンを直さない限り、隣国同士で大変不幸な結果を生み出してしまうことになります。北朝鮮の核の問題が世界的なイシューとなっていますが、北朝鮮の人
々の心の底には「いつか私たちも原爆を持って、日本を攻撃する」というような考えがあります。実際、韓国の南部の若い人々も北朝鮮が核を持っていたら、いずれ統一したら韓国のものとなり日本が何か変なことをしたら、発射すればいい、というような考えがあると思います。民族主義的なルサンチマンがいかに難しいもので、深刻なものなのかを如実に表しております。

■韓国と日本に友好的な交流がなかったわけではありません。例えば朝鮮通信使。 200年もの間、12回にわたって毎回500人ぐらいが日本に行ったり、韓国に来たりしました。大変素晴らしいことだと思います。しかし、私たちが認識すべきことは、両国の体制が違うときはいくら交流をしても真実の文化交流は不可能です。この交流が行われたのは、徳川家康と韓国の李成桂がともにクーデターで政権を握り、軍事的な熱情を朱子学的な論理でもって冷却させるために儒学を国教としたからです。

■しかし、韓国の外交官が日本の高官と会ったときに出た話が、まだ記憶が生々しく残っていた文禄・慶長の役の話。日本は初め黙って聞いていましたが、自分たちは朝鮮に対しては軍事的にも優位な国でいろいろな面で成功している。朝鮮のものをそのまま受け入れる必要はないと思うようになりました。

■朝鮮の外交官が日本人を語るときの表現は「ウイノン」と言いました。直訳すれば「倭のやつ」です。日本人といわずに「ウイノン (倭のやつ)」という表現を使っておりました。外交官の口から出た日本人に対する表現がそういうものでした。豊臣秀吉が韓国に来て、あんなひどいことを言った。あなたたちは人間じゃない、というようなことを言っているわけです。初めから外交が成立するわけがありません。しかし、日本は必要性から受け入れていましたが、必要性がなくなったときはいとも簡単に閉ざされました。
断絶の理由を考えてみると、結局は朝鮮と当時の日本は体制が違ったことが理由になります。一方は、中央集権で、片方は幕府の社会でした。韓国の朱子学は日本にわたり、それが変形されて日本の朱子学として根付き、日本の天皇を讃えるための手段となりました。それでまた朝鮮半島に侵略をするという感じで、学問が影響を及ぼしました。

今年、 2005年、私たちは「韓日友情年」と定めました。私たちはこれを慎重に受け止めております。今年は韓日条約(第2次日韓協約=乙巳条約)100周年、そして韓国解放60 周年、また、韓日国交正常化40年です。私たちは『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』のような日本をぶち壊すという考えを選択すべきでしょうか。これは不合理なルサンチマンと解釈すべきでしょう。「友情年」とは、普遍的な価値のもとで相手の文化を尊重するような友情であります。両者のいい意味での緊張関係が保たれ、協力が行われること。その土台のもとで国家の間の友情が成り立ちます。

■今から 5年前の話ですが、韓日文化交流を始めるときに平山先生は「高句麗古墳の壁画をユネスコの文化遺産として指定しましょう。日韓の共同の名前で努力しましょう」という話をしてくださいました。しかし、実質的に私たちは力をそそぐ余裕はありませんでした。平壌にある古墳、文化的な遺跡を韓国の人が行って国際的な舞台に持ち上げて、文化遺産として指定する努力をするのは不可能です。北朝鮮が国際的な孤児となったような状況の中で、ユネスコに何かを言うことはできません。古墳はどんどん、どん
どんこわれています。平山先生は「これは高句麗のものではない。ここにあるものは東アジアのみんなのものである」と語っています。高句麗の家の中にある壁画、高松塚のもの、すべて同じような脈絡のものであります。私たち民族は扶余族というふうに言ったりもしますが、それを東アジアの民族の共同遺産である。これを世界の文化遺産として定めていきたいと思っております。

■世界文化遺産として指定されたら、ユネスコの文化遺産だから、軍事施設も全部取り払って、世界に公開しなければなりません。そうすると平壌にある程度、風が吹いていくと思います。平壌にも文化的な世界遺産があるということで、北朝鮮の人がプライドを持つことができます。それで一緒に努力することにしました。幸い、 2004年、文化遺産として指定されました。

■ときどき、「韓国人がいつこのようになったのか」と思います。私たちの先祖の持っている夢を正しく設定して、これから未来に向かっていくようなものが「韓日友情年」であります。私たちは「友情年」の意味を普遍的な価値という側面から見ていかなければなりません。日本の友人でジャーナリストがいますが、彼は命懸けで「独島(竹島)は韓国のものである。なぜ日本人は自分の領土だと言っているのか」と社説に書いて、危機にさらされております。日本人を 1つに括ってみてはなりません。教科書問題でも
、2002年に採択されたもの(扶桑社の検定教科書)は0.038%で、1万校のうち4つにもならない学校が採択しただけです。韓国の人は「私たちの見方」という表現をよく使いますが、普遍的な文化の土台のもとで同じような未来を夢みて、一緒に繁栄するような同志として見ていかなければなりません。友情は心だけでは成り立ちません。友情を実行する制度が必要です。朝鮮通信使が大々的な行事を行っていたにもかかわらず、一挙にそれが閉ざされてしまったのは両国の体制が違ったからです。過去40年間、長い歴史の
うち初めて、白村江の戦い以降、初めて韓国と日本が民主・資本主義という同じような制度を採択する国となりました。だからサッカーW杯の共同開催も可能でした。

私は5月20日東京のホテルで(日本の新聞の)朝刊を読みました。韓国の新聞ではないかという錯覚を呼び起こしました。新聞の第1面が韓国人の黄禹錫(ファン・ウスク)博士のES細胞の内容でした。東京大学とソウル大学校が共同研究をするという内容が、第1面でものすごく大きな記事として取り扱われていました。次のページには、韓国の現代自動車が系列社に製鉄工場をつくり、1年に10万台ぐらいを生産し、世界の市場を席巻する。日本に刺激を与えるような能力を韓国が持っているというような記事でありました
。その次のページはサムスン電子に関連した報道で、過去には想像もできなかったことです。日本がやっと韓国を本当の競争相手として見てくれるようになったわけです。自分の味方というよりは力のある相手国として尊重し、お互い緊張感を保ちながら、その緊張感の中で友情を築き上げていける。言い換えると友情は普遍的な文化、制度です。もちろん多くのしこりはあります。しかし、現在のこの大きな流れを変えることはできません。

■私たちが反省しなければならないことは、白村江の戦いと朝鮮植民地化の恨(ハン)、お互いに抱く恨み、ニーチェの言葉を借りればルサンチマン、これを清算していかなければなりません。恨みを持って、怨念を持って相手に原爆を投げつけて木っ端みじんにする。相手を占領して味方にする。このような考えよりは、お互い力を合せて新しい文明圏を一緒に築き上げていくこと。本当に健全だと思いませんか。

■日本の皇室にも、韓国に起源をもつ言葉が残されていると聞いています。また、サッカー W杯のときに日本の天皇は「私は百済の武寧(ムニョン)王の血が流れている」という話をしました。文化で西欧のような共通のものがないとしても、同じDNAを日本と韓国は持っています。理念的に同じです。オリジンが同じです。モンスーン地帯で稲作を2000年間やっていた。そのような歴史的な共有の経験があります。私は、いつかは日本と韓国の間の友情が培われて、日本の天皇が自分の先祖のふるさとだということで韓国
の古莫那羅(コムナル)に来て、お墓に参拝する日が来るのではないかと期待しております。私はこれを1つの韓日両国においてのルサンチマン、恨みを清算する1つの象徴的なきっかけになるのではないかと思います。私たちは「友情年」ということを重く受け止めて、過去の歴史の中から過去を反省し、また、未来を切り拓いていきたいと思います。
◇─────── 略歴 ────────────◇
金容雲 韓日友情年 2005諮問委員会委員:
漢陽大学校名誉教授。韓日文化交流会議委員長。韓国放送文化振興会理事長。米国ウィスコンシン州立大学助教授、東京大学、国際日本文化研究センター客員教授等を務める
。著書に「日本人と韓国人」「日韓文化論」等多数 https://www.jkcf.or.jp/friendship2005/japanese/symposium/lecture_k.html

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討論会(1/5ページ)

金春美・高麗大学校教授: 韓日国交正常化 40周年を迎え、「韓日友情年2005」の記念事業で、初めて「友情年」という言葉を使いました。「初めて」というのは、韓日両国は40年間、「友情」と言えるだけの関係がなかったという意味です。しかし、 2005年2月以降、日韓関係はぎくしゃくしています。韓日(日韓)歴史共同研究委員会は3年間の共同研究結果の中で、昨今の問題の根本的な理由は歴史認識の乖離にあると言っています。韓日(日韓)基本条約が内包している朝鮮植民地支配に対する歴史認識の乖離は、
日本における植民地支配の正当化発言や韓国での(韓日)協定改定論の台頭につながっています。 植民地化は韓国人の同意の下で、韓国人が望んでやったと主張する人たちは、韓国史の 1919年の3・1運動、伊藤博文狙撃事件など数多くの独立闘争を十分に認識し、発言しなくてはならないと思います。森喜朗前首相は6月3日、「両国が深く努力しなければ、日韓関係は簡単に崩壊しうる」と懸念を表明しました。希望的なのは両国の良識のある人々が今の状況を望ましくないと考え、対等のパートナーとして対話と交流を続けようとしているという事実です。吉田茂元首相が 1951年に日本外交の過去を振り返り、作らせた報告書「日本外交の過誤」の中で、日本の若い外交官は中国に対する政策を提案しています。対中国政策の基調は道義を重視しなければならい。道義を重視することとは、第1に、日本が中国を犠牲にし、強国の地位を維持しようとしないこと。第2に、中国の領土主義を尊重し内政干渉をしないこと。第3は、中国の経済的な繁栄を祝福する心を持って、中国の繁栄が日本に有害、脅威だと考えないこと。日本外交官の提案は実現されなかったが、私たちが追求すべき理想的な国際関係だと思います。上田秋成の『菊花の契り』や太宰治の『走れメロス』に書かれている信義を基にした友情が、 名実ともに「韓日友情年」に適合した言葉になることを期待します。

討論会(2/5ページ)
竹島 (独島)問題で友情は壊れない

権五g・元国務副総理:独島 (竹島)が何だとか、歴史認識が何だとか、韓日関係がこじれているとかなどで喧しいけれども、韓日両国の100年近くの歴史を見ると、最近の40
年はすごくいい。40年後の2045年は、今よりはいい状況じゃないかという期待を持ちます。  私は 40年前の6月22日、韓日国交正常化のサインの場面を東亜日報に報道しまし
た。調印式が大幅に遅れたのは、独島問題があったからです。日本側が備えた条約(案)の最後に「竹島問題を含めた日韓両国の間の未解決の問題を、外交ルートを通じて協
議する」という文言がありました。竹島を未解決の問題として見做そうとしない韓国代表団は抗議しました。その時、佐藤栄作首相(当時)が「問題は外交ルートを通じて協
議する」として、「竹島問題」を省いてサインしたわけです。独島論争は新しい問題ではありません。独島問題で40年の間に友情が崩れるようなことはありませんでした。

小倉和夫・国際交流基金理事長: 日本に対するデモが韓国で行われたとき、大使館で何が起きたか。最初は銃弾が打ち込まれ、次の時代は石が投げられました。その次の時代
は卵が飛んできました。(私の駐韓)大使時代、慰安婦の方々のデモがありました。どういうデモだったかというと、パンソリの『春香伝』の中の最も有名なくだり、「スッ
テマリ」という春香が頭の毛をふり乱して、苦しい恋の気持ちを訴えるシーンを、デモ隊の方が太鼓(ブック)を叩いて歌っている。銃弾が石に、石が卵に、卵が太鼓になっ
たわけです。このことは日韓関係を考えるときに非常に重要です。日中間の政治的摩擦が起きたとき、中国の日本大使公邸には相当激しい投石がありました。しかし、韓国で
は大使館に石は全く投げられていません。日韓関係が非常に悪いように言う人がいますが、歴史の流れの中で見ると良くなっている。政治関係も良くなっている。
 今回の小泉純一郎首相と盧武鉉大統領との首脳会談はほとんど報道されず、冷たい関係じゃないか、という言う人がいます。しかし、小泉・盧武鉉会談は良い会談だった。
日韓関係が新しい時代に入ったことを象徴する会談だったと思います。 これまで首脳が会談で率直に言うということは珍しいことでした。いわんや、意見の相違を表面化させ
ることはほとんどなかった。それほど日韓関係は虚弱だった。しかし今回、両首脳は共同記者会見で意見の対立があったことをはっきり言いました。小泉首相は「率直に」を
4回繰り返しました。意見の大きな相違を素直に認めた。それほど日韓関係は成熟してきた。決して悲観していないし、ますます良くなると信じています。

李長鎬・映画監督: 日本人はとても親切で、エチケットも心得ているけれども、失敗を大変恐れている。また、裕福な家庭で苦労せずに育った日本人は屈託がなく、多情多
感。でも簡単には見せてくれない心がある。反対に、韓国人は大変庶民的な気質を持っている。行き過ぎだと思うぐらいの他人への関心、好奇心を持っている。親しくなると
すぐ喧嘩する。 しかし、私は争うことを必ずしも否定的に考えない。喧嘩の数よりも 1つだけ和解が多ければ、肯定的と言える。韓国に「争うほど親しくなる」という言葉
がある。争いにあまり敏感になる必要はない。争いよりも1つ多い和解が必要だということです。争い、葛藤を埋め、和解させる力は文化と芸術。文化と芸術の中には自らを浄
化し、自ら和解をしようとする機能がある。文化と芸術を「韓日友情年」で改めて強調すべきです。 2001年の末、『黄真伊(ファン・ジニ)』という創作オペラを、東京の
新国立劇場で公演した。しかし、日本の政治家が歴史教科書で問題発言をしたため、天皇・皇后陛下はご臨席くださいましたが、韓国の国会議員は20人参加の予定が1人しか来
ませんでした。そのような状況を見ながら、文化と芸術は政治をサポートできるが、政治が文化・芸術をサポートするのは難しいと考えました。 韓日の子どもたちが、肯定
的、客観的な歴史と文化を理解できるように、映画や書籍を相互に出版するシステムを備えたい。日本語と韓国語はとても孤独な言語で、 2つの言語を日本と韓国両国の子ど
もたちが共有したらどうか。お互いに勉強する、学ぶ、そのような制度があれば、と考えました。  映画人として、韓国の初期の映画、羅雲奎(ナ・ウンギュ)監督の『アリ
ラン』を探し、復元するため日本の文化・芸術家の方が積極的に協力してくださればと思います。このことを通してお互いの友情を築くために大きな力となるのではないかと
思います。

討論会(4/5ページ)
◆韓流ブームは画期的事件


齋藤孝・明治大学教授: 最近の韓流ブームは実は大変な事件。日本女性が初めて自分の国以外、もしくは欧米人、白人以外の男性に本気で恋をし始めたという、大変な事件
です。日本女性が韓国男性にここまで本気で入れ込むというのは、日本の女性史の中で初の出来事ですね。実は日本の女性と比較したとき、日本の男性の価値が低いと私は薄
々思っていたのですが、そこに韓国人男性が現れ女性が目覚めてしまった。憧れは相手の体質をも受け容れること。相手の表情や感情の動き、あるいは本当に体そのものを受
け容れる。そういうセクシャリティを含めた受け容れ方からみて、韓国と日本の関係において分岐点となるブームなのじゃないかと思います。

小此木政夫・慶應義塾大学教授: パネリストの発言には、幸いに大きな意見の対立はなかったようです。日韓関係は、 1000年単位で見ても、40年単位で見ても、10年単位で
見ても、流れは非常に良くなっている。日韓が体制を共有するようになったからで、今の政治摩擦は体制摩擦ではない。体制を共有すれば、価値観が接近してくる。共通の未
来を持つことにつながり、意識の共有へつながっていく。私の家内は韓国に関心がなかったのですが、韓流にはまりました。「はまる」というのは穴に落ちて出られなくなる
ということで、定番の『冬のソナタ』から始まり、『秋の童話』、『夏の香り』にはまりました。日本人が韓国に憧れるのは、明治維新以来の現象で、革命的な出来事だと思
います。政治家や学者はそういう庶民レベルの意識変化に鈍感で、その意味に気づかない。今、日本男性にとって深刻な革命が起きているという点で、私は齋藤さんの話に同
調するものであります。   韓国の方が歴史問題を取り上げるのを聞いて、歴史問題は過去の問題ではなくて、未来の問題だと思います。韓国の人たちは「共通の未来」に不
安を持っている。本当に日本を信じていいのだろうか。過去の歴史を素直に認めようとしない日本と、本当に未来を共有できるのだろうか。未来への不安を克服できずにいる
のが、今の日韓関係の姿だと思います。

小倉理事長: 日本社会で一番問題なのは、歴史に対する関心を急速に若い人々が失っていること。水平思考になっている。韓国はまだ垂直思考で、歴史問題に対する関心が非
常に高い。このギャップが問題だと思うのです。 もう 1つは、日韓には民主主義や自由主義経済などの価値観の共有があるが、歴史的感情は共有していない。加害者と被害
者は完全には共有できないからで、認識の共有も難しい。しかし日本が韓国のそういう感情を理解して行動することは大事です。
 中国と韓国が日本軍国主義の被害者であったという価値観を共有していると日本人の眼に映っていること、これは非常に不幸だと思いますね。日本人は反省すべき点は反
省して、早くきちっと韓国の国民感情を理解しないといけない。日韓が、民主主義国家として、共通に持つ価値で何を共同でやるか、そこをもっと強化しなくちゃいけない。

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討論会(5/5ページ)
◆戦後を知らない韓国、戦前を知らない日本

権元国務副総理: 韓国の戦後世代は戦後の日本をよく知らない。戦前時代の日本だけを歴史教科書で学ぶ。日本が戦後どう変わったか知らない。日本の戦後世代は逆にあまり
にも戦前を知らない。戦前について教育が不十分です。それが歴史の問題です。 平山郁夫先生が話をしてくださいましたが、戦争が 1年前に、あるいは1カ月前に終わったら
、広島に原爆は落ちていないかもしれない。私は、日本が適時に戦争をやめていたら北朝鮮と韓国に分かれていなかっただろうと思っています。歴史の勉強を今は少し客観的
にできるのではないかと思います。首相が靖国神社に100回行くからといって、日本が軍国主義になるとは思いません。それぐらい日本は変わりました。この変化をなぜ韓国の
人は正しく見ようとしないのか、日本は変化した自分たちの様子をなぜ隣国に信じさせるように表せないのか。

小此木教授:日本の若者が近現代史を勉強していない、教えられていないことは確かに問題です。教科書の内容よりも、もっと重要な制度的問題です。近現代史という教科を
つくって、先に教える。世界史や日本史はその後に教えるぐらいの改革があってもいいのではないか。
 日韓関係が大変緊張しているが、最大のポイントは、指導者レベルで信頼が失われたということ。市民レベルで信頼が失われて、指導者が喧嘩をしているわけではない。そ
の信頼の回復をできるだけ早急にやらなきゃいけない。これが第1のポイントです。 第2は、中長期的な問題として、未来対話をあらゆる分野で行うこと。必要なのは過去対
話ではなくて、建設的な未来対話です。歴史の議論も、共通の未来を持っているところから出発したらいい。第3に、市民レベルの意識の問題。共同体の中で共有される市民意
識をこれから10年〜20年かけてつくり上げていかなければならない。日韓が最初に、そして中国や他のアジアの国も入ってもらう。未来の中には北朝鮮も入っている。韓国と
北朝鮮の統一問題は日本の未来にも深刻に関わる問題です。未来を共有するということは、日本にとっても大変リスクを伴う話です。そのことを理解していただきたいと思い
ます。(了)                     https://www.jkcf.or.jp/friendship2005/japanese/symposium/p-discussion.html


【日韓】 金容雲漢陽大名誉教授「日本語は全て古代韓国語から始まった」「お前がいくら嫌いダケド、私はお前が好きだ。」
ここで「〜ダケド」は「〜だとしても」を短く発音した慶尚道(キョンサンド)の方言だ。 「ダケド」は日本語でも同じ発音と意味で使われる。

金容雲(キム・ヨンウン)漢陽 (ハニャン)大学名誉教授は、現代日本語が慶尚道全羅道(チョンラド)の方言と似ており、日本語は韓国語に由来したと主張する。金教授は
最近 出版した著書『日本語は韓国語だ』(カナブックス)で「ダケド」のように現代日本語に残 っている慶尚道と全羅道方言を紹介する。日本語の「〜だっけ」と「申し」は
、全羅道方 言の「〜(ダンケ)」と「(マシ、言葉)」にそれぞれ由来したというのだ。

金教授は7世紀以前まで、古代韓国語の発音が日本語のようにパッチム(終声になる子音字)がなくて母音が単純で形態がそっくりだったと説明する。また嶺南と湖南地域で
は、 日本の東海(日本海のこと)隣接地域と往き来してお互いに意思疎通をしたはずだという 分析だ。金教授は「言語は文化」と言い「日本語は韓国文化を収容した歴史と
一緒に発展した」と強調した。慶尚道でよく使う方言である「(イパク、話)」が日本語の「イワク(曰く、おっしゃる)」と変形された例は、韓国人が書く言葉を高級語として
崇めた彼らの歴史が盛られているという説明だ。

日本の東京生まれである金教授は、両国の言語の類似性と差異を自分が体得した経験と該博な知識を土台に文化的意味を付与しながら解く。さらに具体的な証拠を探すために
韓国
「三国史記地理誌」と日本「古事記」「万葉集」など古代文書の古語を参照した。金教授は「百済人が日本に渡ってお寺を建ててあげて壁に刻んだ吏読(リトウ、漢字の音と
訓を用いた朝鮮語の特殊な表記法)が日本の‘カナ’文字の原型になった」「日本語は言葉とかな文字が全て古代韓国語から始まった」と主張した。
韓国語の「〜テムネ(だから)」が日本語では「〜為に」と変形されたり「転がる」と乗ることを意味する「マ」(‘お御輿’の‘マ’)が日本に渡って‘タイヤが付いたひく
も の’を意味する「(クルマ)」になったと言う解釈には首が自然にうなずいてしまう。

金教授は「今見れば全然似ていない韓国語と日本語の単語も時代をさかのぼると同根の言葉が相当数ある」と言い「古代韓国人が日本社会と文化の基礎を準備した結果」と主
張した。

いくら違ったと言うにも…日本語先祖は韓国語> ソース:東亜日報(韓国語)

「韓国人と日本人」金 容雲 サイマル出版会
辛口の韓国人日本人の比較

東京生まれで、戦後に韓国に帰り苦労しながら漢陽大学数学教授となる。データをもとに緻密に検証するという書きぶり。
主人が病死したことも知らず毎日退勤時間に出迎えに来たハチ。死ぬまで続けたハチを深く敬愛した日本人は渋谷駅に「ハチ公」の像を作った。

韓国の忠犬は以下のような話である。いつも主人について歩く犬のオオスがいた。
あるとき主人は酒に酔いつぶれ枯れ草の中で寝込んでしまった。やがて彼が吸い残したタバコの火によって火事になってしまった。
オオスは近くにあった水溜まりで体をぬらし火に飛んではいることを何度も繰り返し、ついに主人を助けたが、自分は焼け死んでしまった。
以後、忠犬の徳をたたえ、部落の名前をオオスと呼ぶようになった。駅名もオオスがつけられたという。

日本人は、いったん命令があれば、ほかの指示があるまでいかなることがあろうともそれを守り続ける。
愚直とも思われる行為を称えた例は、他にもフィリピンの密林の中で30年もの間隠れ続けた
小野田少尉の話がある。彼は日本やフィリピンの勧告を無視し、直接命令を下した上官の新しい命令を待っていたのである。

実は小野田少尉より数年前、韓国人軍属がグアム島の密林で小野田少尉のように隠れ住んでいたのである。
これまた日本なら感激するところだが、ほとんどの韓国人はその報道を感動どころか漫画でも読むような気持ちで
受け取ったという。
彼はその後、日本でも有名であった旧日本陸軍大佐の金錫源が経営する高校の守衛に採用された。おそらく韓国人の中で
一番感激したのが日本人的思考をもっていた金錫源だったのであろう。

柳宗悦は韓国の民族衣装である白衣を葬礼用とみなし、韓国文物から、哀しみのにじむ芸術性をくみとった。
柳宗悦は韓国文化の特徴を悲哀の文化ととらえたのである。
それに対して、金両基は「柳宗悦は植民地時代の支配者側の人間であり、韓国に同情したのはよかったが、勇み足になり、少し思いこみ
しすぎていた」と反論した。韓国人の白衣について、金はそれが陽の光のなかでは逆に明るく、陽気なものとみてとり、韓国文化の特性を、楽観的で生命力の強いものと主張
した。しかし、柳宗悦も金両基もそれぞれ正しく韓国文化とは「悲哀と楽観が裏表になっている文化」であると考えたい。悲哀はあるが、それで終わるのではなく、未来に対
して希望を失ってはいない。また陽気さもあるが、その大笑いのうちに一抹の不安が影さしているのも事実である。それは三寒四温に象徴される、韓国の変化の多い風土が韓
国の特性を作り上げたのである。(人間の心が環境や天候の影響を受けるのは世界みな同じ)中国の史書を読んで気がついた。新羅では、都を健牟羅(クンムラ)と称す。(
梁書新羅伝)クン(大きい)ムラ(村)→大きい村、都ムラを大きくしたらコウルとなる。日本の郡山はコウルから出た言葉。

韓国語           日本語
ウル           囲い・領域
マウム(新羅語でムラ)  村
コウル          郡
ソウル          都
ナラ(新羅語でナウル)  国=奈良 みんなウルがつくのに注意
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/korea/koreajapan.htm
歴史資料館開館>金容雲氏の記念講演 2005-11-30


 「しっかり生きよう在日同胞」金容雲氏

「恨」を生命力に…家族の絆を信じ合って

 「在日韓人歴史資料館」のオープニングセレモニーが23日、東京・南麻布の韓国中央会館で開かれ、金容雲・漢陽大学校名誉教授(日韓文化交流会議委員長)による記念講
演「韓日の理解と可能性」が行われた。多岐にわたる講演の中で、在日同胞に直接かかわる部分について抄録した。(文責・編集部)

果敢に飛び込む心

 近代以前、中央集権の律令体制であった韓国と幕藩体制だった日本では、教育内容にも自ずと大きな違いがあった。当時、日本人のいう「賢い」というのは、中国のいう賢
人の賢いではなく、「畏(かしこ)まる」という意味だった。自分の分を知り、人に迷惑をかけず自分の仕事だけを一生懸命するのが賢いとされていた。 一方の韓国人は、
日本人とは異なり自ら悩んだ末、必要とあらば渦中に飛び込んでいく、すなわち「誰にも頼らずしっかり者になって生きろ」という教育を受けてきた。 このことは、韓国で
「抗日の英雄」と言われている安重根と、明治を代表する政治家で1909年10月、ハルビン駅で安重根に射殺された伊藤博文の異なる世界観に、典型的に見ることができる。 
伊藤博文は、日本の評価では「明治期の偉大な政治家」ではあったが、果たして人類の文明史的な視野があっただろうか。彼は搾取をこととする帝国主義者であり、無謀に突
き進む日本の方向性を固めた人物だ。しかし、安重根は囚われの身になっても人類の大義を考え、アジアの文明共同体、あるいは危険な地域における永世中立など、現代に通
じる普遍的な哲学を捨てなかった。

北極星を見失わず

 韓国人は植民地時代に苦しめられても、何とか生き延びて教育の機会を自らつかみ世の中に出た。「恨」の世界は身世打鈴ではなく、新しい生命体を与えてくれた。それが
今の韓国人の持っている高い教育だ。 韓国人のいう「かしこ」をもう少し具体的に表したのが、韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」で人気になった台詞「ポラリス(北極星
)を見失わないで」だ。ポラリスは天球の北極の近くにあり、北極の位置を測定するための固定点となっている。この台詞の意味するところは、「私を信じて生きなさい」、
「自分たちを信じて生きていけばそれでいい」ということにつきる。 1997年、経済破綻に直面し、国際通貨基金(IMF)の管理下に置かれた韓国で、雇用主から解雇され
た人たちが続出したときに流行った歌がある。そのなかの「お父さん、元気出してよ。私がいるじゃない」という歌詞は、韓国人が最後のより所とする家族の気持ちを象徴す
るもので、どんなに困難な状況に置かれても自分たちを信じて、前を向いて生きなさいという精神性を表している。「ポラリスを見失わないで」の台詞同様、人と人との強固
なつながりを示すものだ。

在日よ国際人たれ

 この家族の絆によって、またお互いの信頼によって解放後、在日同胞社会は支えられたと思う。在日の人たちは在日以外に直接、信じられる仲間はいない。だからこそしっ
かり者になって、これまで生きてきた。韓国人の培ってきた「かしこ」精神は在日にも受け継がれてきたことは間違いないだろう。 いま一つ重要なのは、在日は国際人とし
て生まれていることだ。国民国家よりも、政権・政府よりも、また民族よりも、自らの共同体というものに私たちは関心を持っていくべきだ。在日はまさしくそう生きてきた
のであり、それこそが在日の生き方でないか。

■□ 金容雲(キム・ヨンウン)
 1927年東京生まれ。早稲田大学在学中に解放を迎えた韓国に帰国。東京大学客員教授、漢陽大大学院長など歴任。
現在、韓国数学文化研究所運営、韓日文化交流会議座長。
著書は「日韓民族の原型」「日本人と韓国人」(サイマル出版)、「韓国・中国・日本の歴史と文化」(韓国の出版社)、
「21世紀アジアの突破口」(徳間書店)など多数。
(2005.11.30 民団新聞)http://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=1549&corner=3