第34回未来構想「教育改革を如何に進めるか?PartU
  「教育改革を如何に進めるか?PartU
            
           平成16年11月9日(火)、港区商工会館  

 夕食:フリー・ディスカッション 

   私の主張:田中毅嗣氏(東大・法4年)中東訪問記ほか、富樫英介 早稲田理工大学院建築学科
        山本隆之 東京海上日動火災海上保険褐レ問

 フォーラム: 開会の辞   大脇  司会:新谷文夫

 「今求められる指導者論」 鈴木博雄氏 
筑波大学名誉教授・常盤大学教授

 「私の実践してきた青少年育成」大貫啓司氏 倫理法人会専任幹事・ソーシャル・ワーカ

 フリー・ディスカッション中西、奥井、高林

 閉会の辞        江島

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発題者略歴

  大貫啓司氏 略歴1945年(昭和20年)神奈川県生れ、小・中・高校時代は野球少年として活躍、
      全国郵便友の会会長として「はがき・手紙道」を今も毎日20通も投函を実践、早大文学部
      出身、会社・団体に勤務の傍、早朝3時起床、
30年間、下北沢駅周辺の清掃ボランティア
      活動を継続。その現行一致の奉仕活動に感化された青少年は数知れない。倫理法人会生みの親、
      丸山敏雄師の生まれ変わりと噂される。昨年、
千葉県房総半島に移転、雄大な自然を背景に
      “一隅を照らす”後継者育成に邁進中。


  鈴木博雄氏 略歴;1929年(昭和4)大阪生まれ。58年東京教育大学大学院教育学研究科博士課程修了、
         横浜国大に勤務。
67年東京教育大学講師。76年筑波大学教授。企画室長、
         82年より同大学付属小学校長を兼任。現在常磐大学教授。筑波大学名誉教授。
         専門は教育史、教育学。

著書:『日本教育史研究』(第一法規出版)『人間の生き方の探究 近代から現代へ』(図書文化社)
  『人が育つよろこび』(ノートルモンド社)、『親が知りたい子どもの心と思考の育て方』
  (ぱるす出版)『高校生になった息子・娘へ
今、話しておきたい』  (ぱるす出版)
  『近世藩校に関する研究』(振学出版)『我々はいかに生きるか、現代道徳教育の課題』編(振学出版)
  『父親は息子に何を伝えられるか。偉人たちの手  紙』(
PHP研究所)『最新教育原理要説』
  (振学出版)『筑波大学附属小学校の教育  』(向学社)、『育つ親なら子も伸びる』
  (サクラクレパス出版部)、『原典・解説
  日本教育史』(日本図書文化協会)
  『東京教育大学百年史』(日本図書文化協会)
「教育の探求」(現代情報社)ほか多数
                                   

今,求められる指導者像  講演要旨 

      筑波大学名誉教授 鈴木 博雄 氏
     2004年11月9日   東京都・港区商工会館・ホール
             第34四回『未来構想フォーラム』より



「教育は交わりである」

今日、私は 教育ということの中で ―指導者と呼ばれる人に必要な条件、あるいは、役割に
ついて、お話したい思います。

 まず最初に〈人が育つ喜び〉について、ぜひ考えていただきたいのは―教育は交わりである
 ということで、自由学園の羽仁もと子さん(教育家。『婦人之友』を創刊、一九二一年に自
由学園を創立。文部省令によることを意識的に避けて女子教育を行な。一八七三〜一九五八七
年)は「教育は交わりであり、よく交わるのは最もよく教育される。大人が子どもを教えるの
ではなく、共に交わりつつ相互いに教育される。

 人間のよき交わりは、相互いに心を込めたよき生活の中にある。人の地上の生活は、造られ
たものの造物主を慕う真情が、導かれつつ育ちつつ、それに向かって高まっていくものである」
とおっしゃっています。 世界的に見て、著名な方々の教育についての名言は数多くあります
が、日本人が日本語で表現されたこの一節は、それに匹敵するたいへん素晴らしい言葉で、こ
れは、要するに「親が子どもに教えるのではなくて、先生が生徒に教えるのではなくて、親と
子ども・先生と生徒が、生活とか学校の交わりのなかで、自ずから教育というものはできるの
です」 という意味で、私はいかにも日本的な素晴らしい発想だと思います。


 ―去稚心―

 ご存じのように『論語』の〈学而篇〉に「十有五にして学に志す」とあって、ここで言う 
―学に志す とは、人間としての生きる道を学ぶことで、昔から十五歳という年は人生の大切
な節目として考えられてきました。 橋本左内(福井藩士。緒方洪庵に蘭学と医学を学ぶ。安
政の大獄で斬罪。一八三四〜一八五九年)は十五歳のとき『啓発録』という日記の中に ―去
稚心 と書いて、子ども時代の幼い自分への決別を宣言しております。 教育史が専門の私が
関心を持ち続けているのは、青少年が自分の生き方を求めて、いかなる魂の遍歴をたどったか
で、十代には性の目覚めがあって、それが心理的に親から離れたいという気持ちを強め「どう
すれば親から独立できるか」「自分には異性に好まれる資格があるのか」 などと考え、自立
に向けて、次々に疑問が湧いてきて、真面目な人ほど思い詰めます。

 それまでの夢見る世界にいたのとは違って、複雑な難問題ばかりで、思い詰めればノイロー
ゼになり「人生は不可解なり」 という一語を残して自殺する学生もいるのが思春期の煩悶で
あって、疾風怒涛の時代とも呼ばれております。 このように、人間は魂の彷徨を経て、成人
としての精神的土台が形成されますが、成人後は社会人として生きていく上で苦労が絶えず、
自己の魂を汚すことはあっても、青年のときのように、無心に魂を磨く機会に出会うことは稀
です。 それ故にこそ、汚れのない純真な青少年の時期に魂を磨く教育が重視されるわけです。

 昔からの道徳的規範で裁くことができなくなっている
 ところが、今の日本はどうでしょうか。 一九九八年の末から九九年にかけて、宅急便で届
けられた青酸カリで女性が自殺をした事件、あるいは、出会系サイトで十数人の女性を誘って
睡眠薬強盗をしていた事件などが起こり、世間に大きな衝撃を与えました。 この二つの事件
に共通しているのは、他人同士がインターネットや携帯電話を通じて知り合って、それが犯罪
の手段に利用されたことです。

 しかも、ただ単に「犯人が情報システムを悪用した」 ということだけではなくて、犯罪の
背景に「情報ネットワーク社会における新しい人間関係の危うさ」 をうかがわせるものがあ
ります。 今までの常識では、女性が見ず知らずの人に声をかけられたら警戒するのが普通で
したが、この事件の被害者は、顔を知らず、住所や職業も知らない人と、危険な交渉に応じて
おります。 これを、誘いに応じた女性が不注意だとか軽率だなどと、個人的責任を問うのは
容易ですけれども、私はそれたけではすまないものがあるように思うのです。

 なぜなら、そこには情報化社会の発展を先取りしている若者たちが、情報ネットワークの利
便性を評価するあまり、それを介しての見知らぬ人からのアクセス(access連絡)に驚くほど
無警戒に対応し、あるいは、進んで新しい人間関係を結んでいる現実があるからです。 これ
に反して、若者たちの人間関係は〈一人で過ごす〉が〈仲間と過ごす〉より増えて〈ふだん家
族とよく話をする〉が最低になっていて「現実の人間関係が希薄になったから、情報ネットワー
クによる新しい人間関係作りが進んだのか、それとも、その利便性が現実の人間関係を希薄に
したのか」 は即断できませんが、このような若者たちの行動を、昔からの道徳的規範で裁く
ことができなくなっていることだけは確かです。


 感動的な体験をさせる

 私自身、最近の不就学児との話し合いや非行歴のある生徒との接触の経験から、これら情報
ネットワークによる新しい人間関係つくりが、子どもたちの世界でも急速に進行していること
を痛感させられております。 一昔前、子どもたちの社会認識の形成に影響を与える新たな問
題として、テレビが作り出すバーチャル・リアリティー(virtual reality 仮想現実感)が注
目されましたが、情報ネットワークによる人間関係作りにも同じような問題があって、それは
「人間臭さのない透明な人間同士の結びつきのもつ危うさ」 ということであります。

 ―透明な人間 これは『神戸事件』の中学生が新聞社に送った声名文にあった―透明な存在
 と同じニュアンス(nuance 調子)の言葉です。

 今の子どもたちは、親子の深い絆、友だちとの友情、心触れ合う師弟愛、自然の美しさ、あ
るいは、社会で生きることの厳しさなどについて、テレビの知識としては知っていても、体験
として味わったことは少ないわけです。 そのために、身近な親のアドバイスや学校の教えを、
テレビと同じ建前の知識として受け取り、自分の人生に直接かかわってくるものとは感じてお
りません。

 彼らが実感できる世界は、自分だけの閉じた世界か、少数の仲間で作り上げた小さな世界で
あって、それ以外の家庭、学校、社会などは〈関係のない〉外的存在として捉えています。 
したがって、道徳的規範とか社会の法律は、彼ら自身が納得して受け入れているのではなくて、
社会生活をする上での必要悪というくらいの感じで受け取っております。

 この〈透明な人間〉たちに生命を吹き込むには、何か感動的な体験をさせるしかなくて、そ
こにおける生身の人間の触れ合い、できれば人間愛の情熱を持った人との〈交わり〉があれば、
私はなおいいのではないかと思います。


 「悪貨は良貨を駆逐する」

 さて、昭和の初めに日本で暮らした某イギリス外交官夫人は、当時の日本人の印象として
「日本人には、私たちにない落ちつきがあります。人生が彼らの中や傍らを流れていきます。
彼らは焦って人生を迎え入れたり、人生の舵を取るようなことはしません。 流れが運んでく
るものを受け取るだけです。流れてくるものが富や高い地位であっても、驚いたことに、彼ら
はなにげなく利用するだけです。

 その後も依然として地味な生活を好みますし、他の国民のように気取ることもないので、た
とえ運が傾いたとしても、私たちのようにショックを受けることはありません。高官や金持ち
の質素な暮らしと身分の低い者の暮らしは大して違いません。どちらも優雅で無欲です」 と
いうふうに書いております。

 たしかに、あの頃は、すべてがゆったりとしていました。あくせくと忙しげ
に歩く人はいませんでしたし、働くときには身を粉にして働きましたが、楽し
むときは皆でゆっくり楽しみました。 そして、人々の生活にけじめがあり、
メリハリがありました。

「悪貨は良貨を駆逐する」 との喩えどおり、世の風俗も放任すれば、悪いほうが良いほうを
追い払いますし、文化や芸術も同様で、そうならないために努めているのが教育の働きではな
いでしょうか。 教育というのは、まだ悪に染まっていない子どもに善悪の区別を教え、とも
すれば易きにつきやすい人間の弱さを、道徳的な鍛錬によって乗り越え、道徳的に強い心を育
てることです。 この道徳的に強い心を育てる教育は、家庭においてその基盤が作られますが、
聖書に「汝の若き日に、汝の造り主を覚えよ」とあるように、道徳的価値観を形成する青少年
期の教育が、その人生にとって決定的な意味を持っております。


 『開智学校』

 一九九九年四月の末、私は日ごろ一緒に勉強している仲間と信州に出かけました。

 先ず、松本市にある重要文化財の旧『開智学校』を見学して、次に、近くの穂高町にある私
学校『研成義塾』の創立者、井口喜源治の記念館と、碌山美術館を訪ねました。 『開智学校』
というのは、明治六年に創立され、同九年に建造された我が国最古の洋風近代学校で、望楼風
の塔を中心に、玄関上にバルコニーのあるモダンな洋風建築です。 当時の新聞は「『開智学
校』の打ち鳴らす鐘の音が、文明開化のシンボルのように、松本平にこだました」 と伝えて
おります。

 展示の中に、幼児を背負った おしん のような少女たちが、輪になって授業を受けている
写真があって、その側に「先生やご主人様のおかげで学校を卒業できる恩は一生忘れません」
 という、卒業式での答辞がありました。 穂高町にある井口喜源治の記念館には、彼によっ
て創立された『研成義塾』の関係資料が展示されておりました。 井口喜源治という人は、県
立松本尋常中学校に在学中、英語教師で婦人宣教師であったエルマーによってキリスト教に開
眼し、その後、内村鑑三(宗教家。教会的キリスト教に対して無教会主義を唱え、『聖書之研
究』を創刊。一八六一〜一九三〇年)に出会って、一層その信仰を深めました。

 この人が創立した『研成義塾』は「地方青年子女のために好学の気風を養う」ことを目的と
して「その目指すところは文明風村塾である」 と述べております。

 『研成義塾』 その教育内容として 

一、吾塾は家庭的ならんことを期す。
 二、吾塾は感化を永遠に期す。
 三、吾塾は天賦の特性を発達せしめんことを期す。
 四、吾塾は宗派の如何に干渉せず。
 五、吾塾は新旧思想の調和を期す。
 六、吾塾は社会との連携に注意す。
 という六つの目標が掲げられていますが、この背後には〈明治以降の学校教育が、官僚的・
画一的に偏向して、知識の伝達に終始している〉という井口喜源治の批判が込められいるわけ
です。

 そして、近代的な知識の伝授を重視しながらも、家庭的な温かみのある雰囲気のなかで人格
的な感化に力を注いで、一人ひとりの個性を伸ばす塾教育の長所を活用しております。

 昭和七年まで続いた『研成義塾』の卒業者は六百余名を数え、その中には、荻原碌山(彫刻
家)、清沢冽(戦争反対を貫いたジャーナリスト)、手塚縫蔵(信州教育の精神的指導者)、
松岡弘(信濃教育会会長)などがおります。 さらに、注目されるのは、この信州の片隅から、
『世界市民』の理想を掲げて、北米に農業移民した青年たちがいて、彼らはさまざまな困難を
乗り越えて、生活の基盤を築き、シアトル日本人会の先駆者となった偉大な業績です。 私は
この事実を噛み締めながら、一人の教師によってまかれた〈一粒の麦の尊さ〉を、改めて深く
教えられました。

 内村鑑三は『研成義塾』の教育について「慶応義塾とか早稲田専門学校とかいう私学に較べ
たら見る影もないが、これを維持する精神は、万水の水よりも清いものがある」 と激賞して
おります。


 教える側と制度と環境とこの三つを一緒に

 さて、ここで教育の現状を視野において ―教育の改革 という命題について言えば、一つ
は教える側、親とか先生という人間の問題があります。

 もう一つは、制度(仕組み)の問題、さらには、世の中の雰囲気(環境)の問題がありまし
て、親や先生がどんなに頑張っても、教育の仕組みが悪かったり、世の中の風潮が頽廃的だと、
教育はなかなかうまくいきません。 この制度については、文部科学省が一生懸命に考えて、
何度も教育改革をやっていますが ―制度に魂が入っていない というか、思ったほどの成果
が挙がっていないのが事実です。 実は、ここ二十年くらい前から〈教育改革〉が政治と行政
の日程に上って、何回も答申が出ましたけれども、丹念に読むと、同じ内容の繰り返しになっ
ております。

 いったいなぜ、このようなことが起こるのかというと、いろいろな答申が出されても、現状
が一つも変わっていないからです。 このようなことを考えると、いったい教育改革というの
はどこを改めればいいのか。人(親、教師)から改めるのか、制度から改めるのか、世の中の
風潮そのものを改めるのか……。 具体的な〈手のつけ具合い〉ということになってくると、
本当は、この三つを一緒にやらないと、どこか片一方が足を引っ張るために、一つ一つではダ
メだと思うのです。 この三つを一緒にやるには、説得力のある指導者が存在しなければダメ
で、文部科学省の役人が何や彼や立ちはだかっても「これでやり給え!」 って命じると「は
いっ!」 と答えて、頭を下げるくらいでなければ、とても制度の改革はできませんが、今こ
の世の中に、そんなリーダーは存在しますか。


 明治維新

 それじゃ、このように突出した人物が現われないと、世の中の改革は不可能かというと、歴
史的に見ると、そうではないと思います。

 皆さんは口を揃えて「いま日本は、たいへんなところに来ている」と案じられていますが、
私に言わせると、今よりも昔のほうがもっとドン底を何回も体験して、今日に至っているわけ
です。一番のドン底は ―明治維新 ですが、何と言ったって、それまでの社会の仕組みがみ
んなバラバラに崩壊したのですから、これは非常事態でした。

 今から約六十年前、一九四五年の敗戦時もたいへんな混乱に陥りましたが、あのときは世の
中の全てがバラバラになったわけではありませんでしたが、明治維新というのは、本当に何も
彼もがバラバラになりました。 経済的に言っても、一文(お金)もなくて政府を作ったので
すから……。このように無一文でどうにもならない中で「お金は貸してあげます。頑張りなさ
い」 と言って、助けてくれたのが、イギリスであり、フランスであって「混乱に乗じて奪う
ものはないか」 と虎視眈々だったのがロシアで、これが明治維新の状況した。

 そういう困難な状況下で、約三十年間、アジアの中に日本という独立国があって
「ちょっとやそっとでは妥協しない。なかなか根性があるぞ」 というふうに、ヨーロッパの
国々に認めさせる
だけの日本国を創ったのは、これは凄い指導力だったと私は思います。


 ―明治天皇―

 しかも、そのリーダーは、薩摩藩だ、長州藩だ、土佐藩だというふうに、全国バラバラだっ
たのでして、例えば「西郷隆盛は偉い」と言ったって、全国の人々が「ハハッ!」 と言って
平伏したわけではありません。 そういう三十年間に、日本の国をまとめて、一応の近代国家
に仕上げたというのは、これはまさに、素晴らしい指導力がなければ出来ないことだったろう
と思います。 この時の政府の教育については、一言も書いてありませんし、われわれもそう
簡単には思い付きませんが、それを成し遂げたいちばん偉かった人は誰かというと、私に言わ
せれば ―明治天皇 だったと確信しております。 例えば、戦前の教育の中で ―天皇のご
聖徳 とか言って、天皇の良いところを教えてもらうことは、たくさんありましたが、本当の
意味の天皇のパーソナリティー(personality人格)というか、個人的な魅力とか能力、具体
的な個々のことまで含めて、天皇というものを人間的な魅力として教えられたことはありませ
ん。 昭和天皇に至っては、特に戦前は雲の彼方に上ってしまって、行幸という名のお出まし
があっても、一般庶民は頭を下げているいるばかりで、お顔も拝したことがないくらいでした。


 明治天皇の養成」

 私は最近、いろいろ調べてみて、明治維新から明治時代にかけて、大久保利通が偉い、西郷
隆盛が偉い、伊藤博文が偉い………等々言いますけれども、彼らは明治天皇の前に出ると、本
当に頭を下げております。

 それは〈天皇という地位〉に対して頭を下げたのではなくて ―明治天皇の人格に対して、
心から頭を下げておりまして「それだけの人物だったのだな」 ということが分かります。

 逆に言うと、西郷隆盛、山岡鉄舟、大久保利通、など、当時の偉い人たちが、天皇になられ
た十六歳から二十六歳くらいまで、必死になって育てたせいであろうと思われます。

 そういう意味で、われわれは「近代日本を創ったのは明治天皇である」と思っておりますが、
個人的な人格というか、心から頭を下げるという意味で、私が明治天皇を再発見したのはごく
最近です。

 実際に、そういうことを書いた資料はなくて、それは〈天皇のことを書いてはいけない時代〉
でしたから、当然だったのかも知れません。

 ところが、西郷隆盛や山岡鉄舟を初め、あの幕末において、弾丸と刀の中を潜り抜け、命が
けで戦った猛者たち共通の認識は「維新において一番大事なことは、中心になる指導者を養成
しなければならない。それにはこの人(明治天皇)しかない」 ということで、みんなが本気
になって育てたに違いありません。


 西郷隆盛

 当時は天皇になると、観兵式に乗馬して臨まれますから、馬術の練習が大事だというので、
明治天皇は指南役の西郷隆盛と一緒に、馬に乗って武蔵野を駆けておられました。

 途中、ふとしたことから、明治天皇は落馬され「あっ、痛い!」と、叫び声を上げられまし
た。
 普通だと、天皇が落馬され悲鳴を上げられたのですから、西郷は馬から飛び降りて「お怪我
は?」 というふうに声をかけて、助け起こすところですし、周りにいる侍従たちも駆け寄り
ますが、そのとき馬上の西郷は「男は 痛い など叫ぶものではない」と、たった一言、鋭く
声をかけ、励ましたということです。

 そのときの西郷の言葉が身に染みた明治天皇は、ご存命中に一度も「痛い!」とおっしゃっ
たことはなくて、ご病気になられた最期の日にも〈痛い〉という言葉はなくて身罷れたという
ことで、そういうところは、指導者がしっかり叩き込まなければならないわけです。

 また、明治三十七、八年の日露戦争のときには、大本営を広島に進めて執務されましたが、
一つの部屋、一つの椅子で、七ケ月間を過ごされたということです。

 昼間は机の前の椅子で過ごされ、後ろのカーテンの向う側の簡易ベッドで夜を過ごすという
ふうに、一つの部屋で全てを間に合わされました。

 侍従が「今日は寒いから暖房いたしましょう」など申し上げても、明治天皇は「戦地に暖房
はあるのか」 というふうに、戦場で戦う兵士の身の上を案じておられたということで、これ
は「国民と苦楽を共にするようでなければ、国家の指導者にはなれない」ということで、その
意味で、私たちが真の指導者を見つけることはたいへん難しいのでして「指導者は自分からな
るものか、人々が押し上げて指導者になっていくものか」 そういう問題もありましょう。


 明治時代


 もう一つは ―明治の時代 というものがあって、それが、大正、昭和、平成の時代になっ
ても、同じような指導者像でいいのかどうかという問題もあります。

 あるいは、今日のような組織社会の時代になってまいりますと 組織 と 個人 という問
題が出てきます。

 いま私たちは〈企業倫理〉の問題を勉強しておりまして「企業倫理をしっかりやっておかな
いと、日本の企業はダメになる」と、お互いに戒め合っておりますが、最近、私がいちばん驚
いているのは、銀行がダメになってしまったことです。 もともと銀行というのは、人(企業)
のお金を預かっているのですから、業界の中でいちばん大事な部分で、その銀行が勝手にいろ
んなことをやって不良債権を抱えたのですが、それに対して、どれだけの批判の声が上がった
でしょうか。 このように、銀行がダメになってしまうということは、日本の実業界がダメに
なってしまい、あるいは、経済界がダメになってしまうのと、ほとんどイコールでしょう。

 例えば、この間、鐘紡が破綻しましたが、この鐘紡という会社は、明治、大正、昭和にかけ
ての日本の代表的企業、まさにナンバーワンと言っていいくらいの企業でした。 これを育て
上げたのは、武藤三治(尾張生まれの実業家で、鐘淵紡績会社社長。のち政界革新を標榜して
代議士となったが、暗殺される。一八六七〜一九三四年)という人で、この武藤さんが命をか
けて創り上げた鐘紡でしたが「いったい、どうして破綻に追い込まれたのか」 と、涙が出る
くらいの想いです。 今の日本の様相は、政治も経済も教育も思想も、何も彼もが〈危機だ〉
なんてものではなくて〈ドン底〉もいいところではないでしょうか。 戦後、泡沫のように伸
し上がってきた企業がダメになるというのは理解できますが、しっかり

した土台を造った伝統のある企業が破綻するのですから、何をや言わんやの感しきりです。 
そういうことを考えると、人間の土台を培う教育においても、教師がどうの親がどうのと言っ
ている問題ではなくて、日本人の生き方そのものから、根本からやり直さない限りは、どうに
もならないのではないでしょうか。


 ニクソン

 今日は、そういう意味で「指導者として共通する条件は何が必要なのか」について、お話し
たいと思います。

 アメリカの第三十七代大統領であったニクソン(Richard Milhous Nixon 一九一三〜一九九
四年)という人は、本当に立派な指導者であったかどうか意見の分かれるところですが、この
人に『指導者とは』という著書があって、この中で、指導者に共通する条件として一、偉大な
る人物、 二、偉大なる国家、 三、偉大なる機会 の三点を挙げております。 一つ目は、
どんな立派な国家があっても、偉大な人物でなければ、歴史に名を残すような指導者になるこ
とはできないというわけです。 二つ目は、どんな立派な人物がいても、偉大な国家がなけれ
ば、立派な指導者になることはできないというわけです。

 三つ目は、偉大な人物と偉大な国家の二つが揃っていても、チャンスがなければ、偉大な指
導者にはなれないというわけです。

 私は歴史上の数多くの人物を勉強していますが、〈ニクソンという人はうまいことを言って
いるな〉と感心をしております。

 この著書の中には、なお幾つかご紹介したい言葉があって、例えば、指導者に共通する条件
として、〈各自に至高のものとする目標と眼力と主張を持っている〉と書いております。 ニ
クソンという人はアメリカの第三十七代大統領になった人ですが、あちらこちら世界中を回っ
て、多くの国々の指導者と出会っておりまして、その感想をまとめたのが、この『指導者とは』
という著書です。 彼はこのなかで「それぞれの国の指導者というのは、自ら至高とするもの
と、至高とする目標と、それを何とか達成したいという願いと、それについて自分の明確な主
張をしっかり持った人であった」 というふうに書き留めております。


 〈誠実さ〉

 さらに、このニクソンという人は「経営力と指導力とは別である」 と書いております。

 つまり、経営をする能力に優れているからと言って、イコール指導力ではない。指導者とい
うのは、それ以上に一回りも二回りもスケールの大きい人間でなければならないというわけで
す。 もう一つ、これは後で皆さんから異論があるかも知れませんが、彼は「世界の指導者、
国家の指導者と言われる人は、必ずしも善良な人ばかりではないことを、自分はあちこちの人
々と出会って感じた」 と書いております。 私は同じような問題について「個人的な資質と
いうのは、能力とか、信念とか、誠実さとか、意欲とか、清濁合わせ飲む器の大きさが、指導
者の条件ではないだろうか」と考えております。

 とくに日本の場合、いちばん尊重されるのは ―誠実さであります。
 日本という国は、思想的なもの、あるいは、利害的なもので、敵味方に分かれても、それを
超えて、お互いに相手の誠実さを認めれば友だちになることができます。

 このことは、日本という国の良いところだなと、私は思うのでして、たとい利害関係が違っ
ていても〈それはそれ〉で、人間同士の態度を認めるという気持ちは格別です。「あ奴はあ奴
で、一生懸命にやっているんだ。立派なもんだよ」というふうに相手を認めていく。 そうい
う意味では、日本人の場合には〈誠実さ〉というようなものが、指導者になる条件として、非
常に大事であります。


 後ろを振り返る

 それから、今日いろいろ言われている―組織と個人という問題について申しますと、やはり、
組織の中での協調性が大事です。

 しかし、それは組織の中に埋没することでもなければ、組織のムードに馴れ親しむこともな
くて、自ら持っているものをきちっと確保し、なお組織の中で協調することは、指導者として
欠かせない条件だと思います。 このように考えていくと〈指導者の条件〉と言っても、別に
難しいことではなくて、以前から日本で言われていること、あるいは、昔の中国から教えられ
てきた人間の生き方のいちばん根本の部分、そういうものを、もう一度しっかり踏み固めてい
くことが、指導者を育てていくいちばん大事な条件ではないかと思います。

 この戦後五十余年の間「後ろを振り返り見れば悪いことばかり」 といった歴史観に左右さ
れて、前を見たり横を見たりばかりして来ました。

 しかし、前を見るにしても横を見るにしても、後ろを振り返らなくてリアリティ|
(reality 迫真性)な前や横を描き出すことはできません。

 われわれが今日あるのは、後ろを振り向いて「こういう経過があって、こういう体験があっ
て、今日の自分がある」 ということが、大事ではないでしょうか。 他所の国を見て「立派
だな」 と感服したって「自分の国がどうやってきたか」 ということを知らないで、他所の
国の真似をしたってはじまらないわけです。


 〈変わらないものと変わっていくもの〉とがありますが
        人間の生き方の根本は絶対に変わりません。


 そういうことを考えると、明治の初年なんて、どの国を見たって、みんな日本の国より立派
だったに違いありません。

 そういう中で、必要なことは外国から学ぶけれども、しかし「日本には日本の行き方がある」
 と言って、頑張り通して来たのでして、その根性は立派なものでした。

 ところが、戦後の日本には、そのいちばん大事な部分をなくして
「これからは国際化社会だから、いろんなことを学んで国際貢献しなければいけない」
 と言われています。

 そのとおりに違いないけれども、それには、自分たちが押し付けていくのではなくて、向こ
うから尊敬される日本人になって、初めて可能になるわけでしょう。 われわれ自身が尊敬さ
れる国民にならないで、どうしてボランティアで出て行くことができますか。私はそのように
思っております。 ご承知のように ―不易と流行という言葉があって、私たちの生き方の中
には、〈ぜんぜん変わらないものと、時代によって変わっていくもの〉とがありますけれども、
人間の生き方の根本は絶対に変わりません。 これはヨーロッパでも、アメリカでも、どこで
も通用するもので、昔から日本人が大切にしてきたところの ―誠実さ というものです。 
それを、われわれ日本人は、もう一度、呼び起こし、いちばん大事にして、出直して行くこと
をしなければならないと思うのです。


 日本近代史指導者人物評

 ちょっとエピソードみたいですが〈政治家のタイプ〉ということで、小島一雄(戦前の政治
家で吉田茂元首相の政治指南役。一八六五〜一九五二年)人物評の中に「直言断行は観樹(三
浦悟楼=長州藩士、政治家、陸軍中将、子爵、大正政界の黒幕。一八四七〜一九二六年)也。
 立言即行は木堂(犬養毅=国民党・革新倶楽部の党首を経て政友会総裁、三一年首相、五・
一五事件で殺害される。一八五五〜一九三二年)也。 聖言躬行は天台(杉浦重剛=明治から
大正時代の教育家、思想家、東宮御学問所御用係。一八五五〜一九二四年)也。 不言実行は
立雲(頭山満=今日で言うところの右翼の巨頭、大陸進出を唱え、政界の黒幕。一八五五〜一
九四四年)也」 というふうに書いております。

 あるいは、毎日新聞刊行の『近代日本を創った百人』という本の中に、次のような政治家と
か、実業家とか、思想家とか、数々の名前が挙げられております。

 一、政治的指導者: 伊藤博文、山形有朋、星亨、大隈重信、原敬、犬養毅、田中義一、
          近衛文麿、吉田茂(大久保利通、尾崎咢堂)

 二、実業界の指導者: 松方正義、渋沢栄一、中上川彦次郎、山辺丈夫、金子直吉、野口遵、
            高橋是清、池田成彬、岩崎小弥太、松下幸之助、益田孝

 三、教育界の指導者: 福沢諭吉、加納治五郎、新渡戸稲造 
   この中には、本当に指導者として立派な人もいるでしょうし、なかには首を傾げさせら
   れる人がいるかも知れません。 
 ―昔の人は偉かった ちなみに、私の意見を加えますと、政治的指導者としては、大久保利
 通、伊藤博文、山形有朋、犬養毅、原敬、吉田茂といった方々を立派な人として挙げたいと
思います。 また、実業界の指導者としては、松方正義、渋沢栄一、高橋是清あたりを立派な
人として挙げたいのですが、戦後ということになると、松下幸之助さんも傑出した人物だと思
います。いずれにしても、戦前と戦後五十余年の日本のリーダーと較べると、戦後のほうが遥
かに ―やりたいことが思い切ってやれるはずなのに、条件に恵まれると本当の意味の指導者
は出て来ないのかも知れません。

 この日本には「艱難汝を珠(たま)にす」という言葉がありますが、そういう条件の中でこ
そ、本当の意味で磨かれ鍛錬されて、珠が光ってくるのかも知れません。

 といっても、戦後の日本に、立派な指導者がいなかったとは申しません。なかには立派な指
導者がいたと思いますが、歴史の流れの中で見ますと―昔の人は偉かったというふうに、つい
思ってしまいます。


 福沢諭吉

 最後に教育界を見ますと、やっぱり、飛び抜けて偉かったのは ―福沢諭吉でして、これは
声を大にして断言できます。個人として〈こんなことをやった、あんなこともやった〉という
偉さ以上に―人を育てたという偉さは抜群でして、福沢諭吉が育てた人というのは、本当に近
代日本を担った人になっておりまして「才能ある人物が、福沢諭吉の下に集まった」と言えば
それまでですが、逆に言うと「才能ある人物が、福沢諭吉の下に集まったのは、福沢諭吉が偉
かったからだ」ということになります。 とにかく、福沢諭吉というのはスケールが桁違いに
大きな人で、例えば、この人の著書 『学問のすゝめ』『文明論之概略』『西洋事情』 『脱
亜論』『福翁自伝』等々は、いま読んでも違和感を覚えません。これらは、今から百数十年も
前、明治初年に書かれたものですが、今でも実に清新な感じで読むことができて〈ああそうか〉
と納得でき、教えられるところがあります。 私は、福沢諭吉という人は、近代日本が生んだ
―突然変異と思うくらいの偉大な人物だと思います。


 「将に将たる人が指導者」

 次に、目を引くのは―加納治五郎という人で、この方は戦後になって「講道館の柔道をやっ
た人だ」ということで広く知られていますが、いちばん大事なのは、日本の教育の総本山であ
る東京高等師範学校の校長を二十五年間続けられたことです。 その間に、何回か自分で辞め
られ、直ぐにまた復職されていまして、なぜかというと、当時の文部次官と意見が対立するた
びに、加納校長は黙って辞表を提出されました。 ところが、一年たつと、今度は文部次官が
辞任され、加納さんが復職されるという格好で、これを二〜三回繰り返されています。それく
らい、堂々とした人、悠々とした人物で、同時に講道館の柔道を創立した人ですから、身体は
小柄でしたが、体力には自信を持っていた立派な人物でした。 そんなこんなで、東京高等師
範学校の先輩たちはみんな「加納治五郎先生が校長だったから、自分は教育に情熱を注ぐこと
ができた」と述懐しております。 例えば、私があちこちの方に「加納治五郎さんって、どん
な人だったのですか」と聞いて回ったところ「将に将たる人だった」 ということで、つまり
「大将のもう一つ上の器量を持った大将だった」ということでありました。 そして、日本の
歴史上 ―将に将たる人という表現が、政治的意味で一番ピッタリするのは、私は大久保利通
ではないかと思います。要するに、誰だとか彼だとか言うのではなしに「将に将たる人が指導
者なんだ」と言えるのではないでしょうか。


 杉浦重剛

 それから、杉浦重剛さんも教育界の重鎮でして、校長をなさっていた日本中学校に、岩波茂
雄(岩波書店を創立し、学術書の出版を通じて日本文化の向上に寄与した。一八八一〜一九四
六年)が「どうしても杉浦重剛さんが校長である日本中学校に入りたい」と言って、熱烈あふ
れる嘆願書を添えて、試験を受けましたが、結果的に不合格になったので「もう一回、試験を
受けさせて下さい。そうでなかったら、ここから動きません」と言って頑張りました。 日本
中学校では仕方なく「校長が直接に試験をやる」と言って、面接試験をやり、特別の計いで入
学したというエピソードがあります。 逆に言うと、この岩波茂雄という人も、杉浦重剛さん
の人格に打たれて、日本中学校に入学して、発奮して勉学に打ち込み、あの岩波書店を創立し
たのではないでしょうか。 それから、小坂順造、吉田茂、小村欣一といった人たちはみんな、
一度は杉浦重剛さんが校長だった日本中学校で学んでおります。このように、杉浦重剛という
人は教育者として―聖言躬行の人であったということで、だからこそ、多くの人々に影響を与
えられたのだろうと思います。


 先を見ることができる

 私は今日、指導者というものについて、あれこれ申し上げましたが、最後にもう一度、ニク
ソンの言葉を引用させていただきます。

「私の会った真の意味で強い指導者は、すべてきわめて英明、自己を律するに厳しかった。

 しかも、勤勉で、満々たる自信を持ち、夢に駆り立てられ、他人を駆り立てる人であった。
 全員が地平線よりも先を見通すことができた。ただし、視力には個人差があった」 この最
後の言葉―全員が地平線よりも先を見通すことができた*というのは、これは指導者にとって、
いちばん大事な能力でありましょう。 たしかに個人差はあると思いますが、普通の人よりも
ちょっと先を見ることができるということ、そうでなければ人の前に立てないということであ
りましょう。                (文責 栗山要・大脇準一郎)

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パーソナル・データ:鈴木博雄(すずき・ひろお)氏。

一九二九(昭和四)年、大阪市に生まれ。五八年、東京教育大学大学院教育学研究科博士課程
終了。横浜国大に勤務。七六年筑波大学教授。八二年同大学付属小学校長を兼任。現在は常磐
大学教授、筑波大学名誉教授。専攻は教育史、教育学。 主な著書に『日本教育史研究』
『人間の生き方探求』『人が育つよろこび』『高校生になった息子・娘へ今話しておきたいこ
と』『われわれはいかに生きるか―現代道徳教育の課題』『父親は息子に何を伝えられるか―
偉人たちの手紙』等。



11月「教育改革をどう進めるか? PartU」を前にして

                           大脇準一郎  
e-miraiご愛読いただいている皆様、こんにちは、

 小生、日常性の中に埋没している日々ですが、先日は思い切って喫茶店に篭り、最近思うと
ころの一部を書き上げ、ご披露しましたが、幾人かの先生から思いもかけない激励を賜り、恐
縮でした。命をこめただけはやはり反応もあるものだと感じるところがありました。さて先日
の「政策構想に必要な3つの視点」「文明的視野・学際的アプローチで比較文化論の展開を!」
の記事を書き上げ、一段落した後、黒川清先生からご指摘いただいていた先生のサイトを開き、
論文を読ませていただき、主張されていることが、小生が書いたことと全く同じであるのに驚
くとともに、意を強くした次第です。自然科学分野では普遍・妥当性ある法則・真理が容易に
発見されやすしようですが、社会科学や人文科学の分野でも特殊性の背後に普遍的な原則を見
出す努力が重要性と再認識させていただきました。


リーダー論

黒川先生は日本の今の最大の課題はリーダー不在であるとされる。そしてリーダーには歴史観、
世界観、志が必要であるとされ、歴史の時代のうねりに無頓着、無責任、志の高さ、潔さの見
られない政・産・官指導者層に快刀乱麻、外科手術のメスを振われています。
黒川先生の主張される歴史観・世界観、志の内、3つ目の志は価値観とも置き換えることが
出来、上記の3つは思想形成の3要素、一言にして言えば、思想(哲学・見識)が必要とのご
意見と拝聴した。
 
 
「「文明的視野・学際的アプローチで比較文化論の展開を!」でもご紹介した「新しい文明を
語る会」、「歴史的リーダーシップ論」で児島襄氏(作家)は指揮官を4つのタイプに分け、
日本には
@、俗史型(責任を取るが権限を行使するのが不得意)。

A、行司型(部下に任せっきりで統率力が無い)が多く、西欧には、

B、侍大将型(陣頭指揮型、権限を行使しないのは罪悪)、

C、タレント型(PR型、自分の実績より評判の方が優先、組織に有効な効果を与え
る)が多いと述べている。

糸川英夫氏は、「現代における指導者の条件」の条件として@、女性も含めあらゆるタイプの
人に対応できる能力を備えること、その応急措置として副社長を多くする集団合議制を採用、
A、自分の弱みを敢えて人の前に出すことにより返って人々の共感と協力を受けることが出来
ると述べている。
 「国際環境と国内環境にリンケージ」で衛藤瀋吉氏は国際環境を無視して、国内環境に合わ
せて外交を行うことは日本では一般的であるが、国を誤らせることになるとして戦前の山東出
兵、三国同盟の例をあげている。今も国や会社のトップに要請される重要条件であろう。

先生の小論文を基に、この11月9日、発題頂く予定の鈴木博雄筑波大名誉教授とお話した。当
初、20分程と思っていたら2時間も話が弾んだ。日本教育史を専門とされるだけあって、近代
日本史の人物の名前が次々に出てきてとどまるところを知らない。

ではどすればそのような指導者が育つのか?鈴木先生は、「指導者は机上からは生まれない。
百戦練磨の国際的、社会的修羅場を経験した中から生まれている。人工的にでもそのような環
境を作らなければならない」と主張された。「豊曉の海、過保護の日本で果たして可能であろ
うか?」というのが小生の疑問。「関東大震災か米軍に再占領して貰うか、北鮮にテポドンで
も打ち込んでもらうか」強烈な外的ショックが無ければ難しいと言う自嘲の声は鈴木先生だけ
で無く、最近、日本の有識者層にちらほら聴かれる。ペリーの黒船が来航した当時日本には軍
艦は1隻も無かったことを思えば、当時の日本人の驚きようは想像に難くない。

日本国内で思考させるだけでなく、「青年よ!世界の荒野を目指せ!」とすべからく青年を海
外の世界の修羅場に押し出すことこそ日本を元気にする秘策であると本会は、発足当初より主
張してきた。 「可愛い子には旅をさせよ!」で数千人のボランティアから数十万、数百万の
レベルの国際貢献を国策としては如何であろうか? その際、海外ボランティア経験を外務省、
文科省の課長以上の高級官僚の優先資格条件とすれば優秀な青年がこぞって参加することが期
待される。先日、日本でも人気の高い韓国の有名俳優兵役回避の偽装がニュースとなっていた。
お隣の国でも(これが世界の常識であるが)自分のやりたいことと国家的義務との公私の試練
がある。日本では官僚を始め国家指導者層においてさえ公私の分別の無い不祥事を頻繁に報道
されるのを耳にするにつけ、防衛の義務・徴兵制に変わる何か国家のバックボーンになるもの
が必要に思われる。その1つが日本の世界平和戦略の目玉としての平和部隊の派遣である。

 物資の援助を中心としたODAは、その援助過程でもまた結果においても幾多の問題を生じ、
その改善に努めてきたが、ODAを物の援助から人の援助、教育援助にシフトすれば、途中で
お金がどこかに消えることも少なく、何よりも人材資源の開発という無限の価値の源が相手国
だけでなく、日本に蓄積されることが尊いと思うが皆様の人材育成論は如何でしょうか?


未来構想のために!
未来構想の3つの視点(未来性、国際性、戦略性)のうち、「新しい文明を語る会」で強調さ
れた未来性の発言を付記して諸氏の未来創造への奮起を促したい。

○ 「日本型社会は、原則、組織的権限の無い話し合い社会であり、西欧型社会は組織的
で宗教体制社会である。従って日本人は未来がわからない体質を持っている。体でわ
かるまでは言葉で言っても信用しない。 映像は見るという現在のものであり、未来
を構成できない。新しい文明を築いて行くには未来を構成できる「エリート教育」の
準備こそ新しいことであり、懐疑、すなわち物事をあらゆる角度から徹底的にかつ本
質的に究明して行く姿勢が大切である。」         山本七平

○ 「生物史と人類史を通じて、文明は試練に出会ったが、イノベーションによって切り
抜けて来た。現代、我々の前に立ち込める憂鬱な問題を解決するためのイノベッショ
ンを自発的ポリシーとして作っていかなければならないのだということをコンセンサ
スにして行く必要がある。」                小松左京

○ 「エネルギー問題の解決は、石油に代わる新しいエネルギーを造る他無い。原子力・
地熱等あるが、ことごとく反対論がある。今日本を救う唯一の方法は、住民の感情的
な反対の中で、論理的な正しい結論を住民感情に中にどう溶け込ませるかということ、
ヒューマンウエアの開発に成功するかどうかにかかっている。」堺屋太一

○ キリスト教的真理は人の為に尽くすことにより発展することを教示している。他国の
為に奉仕しない民族・国家に未来は無い。日本は第三世界に対する態度を改善して行
かないと豊かな未来を建設できない」           謝 世輝

○ 「近代化の家庭における価値観、豊かさ、便利さ、自由、福祉、平和、平等などそれ
らを志向することは善と考えて進んできたが、病理的状況も呈している。「西欧に追
いつき追い越せ」という国家目標が既に実現され、その次の目標を見失った状況が、
この十年くらい深刻に続いている。」            香山健一

○ 「今後の日本にとっての最大課題は、十年後の総合的な国家目標を立て、政治、経済、
社会、文化等にわたって、幅広い国民的コンセンサスを得るようにすることである。
その目標に従って5年計画、年次計画といった政策提言をする。そのためには、学界、
言論界、政界、財界等の相互協力が必要である。」      福田信之

○ 「自由主義社会は精神的魅力ある何ものかを与えているか?生活水準を高めて来た技
術革新が伝統文化を破壊し、宗教の主観的価値観が揺らいで社会が不安が増大、この
空白に宗教的政治体質を持った教条主義、イデオロギーが蔓延ししている。日本が明
治以来近代化に成功した4つの条件、@、文化の地区性、A、民族国家理念形成
    B、勤勉さ、C、高い教育水準 それが今どうなっているかを改めて考えて見る必要
     がある。」                        村松 剛

Who is Ohnuki?

11月の最初の発題者、大貫啓司氏を紹介したい。
先日、大貫氏に誘われ、千葉の房総半島の海岸沿いの新居を始めて訪問した。大貫啓司氏は、
昨年末、長年住み慣れた世田谷から千葉へ引越し、自然生活を満喫しながら、人助け、人を喜
ばせることを最大の趣味として暮らしている。この夏も全国から家族連れの人々が何家庭も訪
れ、子供達も海岸で思い出深い夏休みを過ごしたとのことです。一度に4家庭、30人は泊まれ
ます。

彼の言行一致の生活ぶりは、倫理法人会でも創設者丸山師の生まれ変わりではないかとうわさ
されるくらい模範的人物とのもっぱらの評判とのことです。半月の明かりの中、彼と海岸を散
歩しながら、先日、自殺しようとした青年と出会い、すっかりその青年が立ち直った話、また
若者の集会で「兎と帝釈天の話したことを話してくれました。国際協力、物資の援助も悪くあ
りませんが、身をもった奉仕の重要性(以前ご紹介した明治3年、和歌山県南端の樫野崎灯台
でおこったエルトゥールル号の遭難と村人の心の篭った奉仕のような)を痛感しました。教育
改革も先ずは成功事例の研究から。

大貫啓司・洋子

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昔、インドの帝釈天(たいしゃくてん)と呼ばれた神様が、ある村に大変仲の良い、やさしい
動物が住んでいると聞き、誰が一番やさしいかテストしようと、年とった汚い旅人に化け、出
かけたときの話です。最初に出逢ったサルに「腹がへって死にそうじゃ、何か食べさせておく
れ」と言うと、早速、山から果物をいっぱい取ってきてくれました。次にキツネが現れたので、
同じことを頼むと、今度は川から魚を捕まえてきました。木の陰に隠れていたウサギは困った
顔をして「僕は弱虫で臆病者だから何も捕まえられない。でもいい考えがあるから、一緒にた
き木を集めて火をつけて」その上に飛び乗ると「僕の肉はとってもおいしいから、全部食べて
早く元気になってね」と。感動した神様は、このウサギを連れてお月さん(天竺:てんじく)
に戻っていったそうです。
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この話は仏教七布施の内、最上級の「捨身施(しゃしんせ)」ですが、現代でも私達が日々、
挑戦(テスト)されている内容ではないでしょうか。天国には愛とその実績しか持っていけな
い事と、目の前で起きる事は全て天の配剤。地位や能力に関係なく、自分の生命を他の生命の
為に捧げ切る「生き方の本質」が含まれている。(大貫啓司さんのコメント)
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*帝釈天 :古代インド神話における代表的な神、インドラ(サンスクリット語)が仏教にと
り入れられたもの。諸天中の天帝という意味で天帝釈,天主帝釈, 天帝などという。釈迦
の一生においても,たびたびその修行を守り,仏陀となって後は 説法の場に登場するなど
釈梼との関係が深く,梵天とともに仏法守護の善神とされている。
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