報道2001へ緊急提言!!
もっと国民に夢と希望を与えるビジョンを語ってください!
小手先のコップの中の嵐の議論に思われます!!


4人の総裁候補者に共通に欠けているのは明日を導くビジョン、思想性です。

1、 日本を元気にするには経済問題も重要ですが、人間は経済的動物、社会
的動物であるとともに意味的動物です。後孫に自信を持って伝承し得る民族的誇
り、価値観とは何なのか?悠久なる人類史的展望、歴史観に立脚した粋に感ずる
夢を手どなたも論じていません。経済・生命第1主義からこれを超える何かの価値を
探しているのではないでしょうか?

2、 世界の常識、悲惨な現状を無視した日本国内だけのお祭りに終わってい
ます。党派・省益を超えた地球市民一体の世界観に立つことが重要です。日本の
外交姿勢には命を賭けた責任感が感じられません。

3、 地球環境問題は永続する地球環境を求めています。道具としての科学技術の
位置づけ、自然観の確立が重要で東洋思想は大いに貢献できると思われます。
この点もっと日本政府は主導すべきではないでしょうか?

以上3点、価値観、地球村人類一家族の世界観、自然観の確立を申し上げました。
このような要素こそ新しい時代の思想、ビジョンの核心であると思われます。
ぜひ国民を元気にし、世界に注目される夢をもっと語ってください!

    未来構想戦略フォーラム 大脇準一郎


【 竹 村 健 一 こ れ だ け メ ー ル 】 9.26.2003 VOL.242
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□ 何より重要な教育改革 □  
         
評論家  竹村健一
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 中曽根康弘元総理というと、高齢でありながら現役の国会議員として、また元総理という立場から
様々な国際会議に精力的に出席されている、名実ともに日本を代表する政治家である。

 そればかりではなく、私がいつも驚かされるのは、その表現力である。北朝鮮の瀬戸際外交
について、はからずもこうおっしゃった。「求愛を脅迫(というかたち)でやっている」 小泉総理を
「瞬間タッチ断言型」とひと言で表現しておられたが、そのひと言で内容がよく伝わってくるから不思議だ。

 私が中曽根元総理の話を常に聞きたいと願うのは、日本という国の将来を見据えた「国家観」が
しっかりとできあがっているからである。

 たとえば、北朝鮮問題について話し合う6カ国協議を、単に核問題や拉致問題の解決のためにだけで
終わらせるのではなく、やがてはASEANに匹敵する会議に持っていくことが大事である、といった広い
視野からの話は、なかなか日本のマスコミからは出てこない。

 あるいはイラク問題についても、「国際協力を堂々とやれる国」に日本がなることが大事であると
おっしゃる。これを日本防衛とともに、自衛隊の二大任務とする。それによって、やがては日本の
国際的発言権を増すことに役立つだろうと断言する。

 こうした話をされる中曽根元総理が、「総理大臣の仕事でもっとも重要なのは、次の日本をどう
するのか、という国家像を国民に示すこと」 とされ、その一番に教育問題を示された。普通の
人間は、いまの日本を見ると教育よりも経済だろうと思うところだろうが、小泉総理もいまだ何も
手をつけていないとはいえ、就任演説では「米百俵」の話を持ち出したし、第一、考えてみてもらい
たい。日清・日露戦争が終わって20世紀の初めから半世紀、日本人は好戦的な民族になった。
ところがその後の半世紀で、日本人は戦争が嫌いになった。

 戦争をしないに越したことはない。だが、世界のどこかで戦争・紛争が起こっている事実に耳を
ふさぎ、その話を公の場ですることすらタブーであるなどと馬鹿げたことを唱えたのである。
右の端から左の端まで振れる、しかもこれがひとつの民族に1世紀のあいだに起こったことだ。
これは何がそうさせたかというと、教育なのだ。あるいは憲法がその方向であったから、とも言える。
 こうした問題に比べると、郵政の民営化なんて、ある意味小さいとしか言えない。

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■人格は教育によってつくられる■□   評論家  竹村健一
           

 世界的にリーダーとなる人材が不足しているといわれる。
 日本のみならず、アメリカでも起きている大企業の不祥事はその表われなのかどうか。京セラの稲盛名誉会長は、嘘をついてはならない、人を騙してはならないといっ
た、宗教的にいえば戒律、人としてやってはならないこと、こうした生きていくためにとても大事なことを皆が見落としてきたツケが回ってきたのではないか、といった
話をされていたが、リーダーになるべき人間こそ、自分自身に対して厳しい戒律を持つべきなのだろう。

 マークス寿子(としこ)さんから伺った話だが、イギリスのリーダーには、神学部を出た人が多いそうだ。日本のように、神の話を少しするだけでも世間から「戦前の
日本に戻す気か」などとあらぬ疑いをかけられるような国では信じられないことだが、私も人格をつくり上げるには根幹に宗教が必要だと思う一人だ。戦後は、宗教を横に
除けて経済の繁栄ばかりを追い求めてしまったから根無し草みたいな日本人ばかりになってしまった。

 宗教に固執し過ぎると、イスラムの原理主義者のように世の中と大きな摩擦を起こしかねないが、神を敬う心、厳かな心というものを持ち合わせている人間こそ、人と
して尊敬できるのではないだろうか。
 以前この稿で、広い“知識”を持ち、それを“見識”にまで深く高めることが大事だ。しかしながら最後には“胆識”という度量が必要である、という話をしたことが
ある。

 特に政治家には“胆識”が必要だ。何しろ、私のような商売は“見識”があって皆の商売に役立つような良い話をすればすむが、政治家は結果が全てであり、それには
実行力が伴わなければならない。ところが、いまの日本でそれを持ち合わせる政治家がいるのだろうか。早い話、私は日本で見識と胆識を持って政治を行うには大きな問
題があると考えているのだ。

 たとえば小泉総理は構造改革や行政改革には熱心だが、経済問題にあまり詳しくないと言われている。1人で何もかも考えるには、いまの社会は複雑になり過ぎている。
これを補うのが、シンクタンクなどだ。あるいはイギリスの内閣のように、与党の実力者を内閣に全部入れてしまえば、日本のように内閣と与党の二重構造に悩まなくて
すむし、強引に総理が自分の考えを押し進めようとして「独裁者」などと、自分を選出した与党の政治家から批判されるということもなくなるだろう。総理大臣がリーダ
ーシップを発揮でき、日本の国が良くなる道はこれしかない。

 また“見識”と“胆識”だけではなく、先に述べた通り、リーダーの基礎となる人格というものは、宗教や自分自身の戒律から精神を高めることによってつくられる。
こうしたものは教育なしにはできあがらないことを、誰もが知っておくべきだ。


【社会】人格教育の継続が必要 ボストン大のライアン名誉教授語る 

 米国で九〇年代に導入された人格教育について学ぶ講演会が七日、東京・平河町の都市センターホテルで開かれ、参加した教育関係者や国会議員ら約二百八十人が、今後の教育のあり方について論議を重ねた。「『人格教育』特別講演会実行委員会」(代表世話人・上寺久雄・兵庫教育大元学長)の主催。
 「アメリカ教育改革の新しい潮流―『人格教育』とは何か」と題した講演会で、トニー・ディヴァイン国際教育財団副会長は、生徒に自分自身で価値観を見つけさせる「価値の明確化」が七〇年代に定着したことによって、伝統的道徳観を軽視するようになったアメリカ公教育の問題点を指摘。失敗だったとみなされた「価値の明確化」は、九〇年代初めまでにほぼ放棄され、新しい道徳教育運動として人格教育が注目されるようになった経緯を説明した。
 続いて、ケヴィン・ライアン・ボストン大名誉教授は「宗教や文化、国家の違いを越えて、すべての人が同意できる徳目を子どもたちに教え、実践できるように助けてあげることが人格教育だ」と語り、その継続した努力の必要を指摘した。また、親子のきずなが弱体化し、教師の権威喪失の現状を危惧(きぐ)した上で、子どもたちに多くの影響を与える家庭の重要性を強調した。14面 社会2 2003/06/08 The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan


【持論・時論】宗教教育の取り組み方敬和学園大学学長・北垣宗治氏に聞く 人格教育は「究極的関心」から 異文化理解が愛国心生む

 「宗教教育」を求める声が強まっている。今国会に提出される見通しの教育基本法改正法案をめぐる議論では「引き続き検討」(※注)として棚上げされたが、人間の尊厳性を軽視した、宗教性の欠如からくる少年犯罪は増える一方にある。宗教教育にどう取り組めばいいか。敬和学園大学(新潟県新発田市)で十二年間にわたって学長を務め、宗教教育を実践してきた北垣宗治学長に聞いた。(聞き手=吉原正夫)

 ――敬和学園大学が教育理念として掲げている「キリスト教主義に基づく教育」の意味を説明してほしい。
 キリスト教に基づく人間観、世界観、社会観、女性観といった価値観を、教育の基礎に置くことによって、これから先、社会を背負って立つ人材を養成したい、という考えだ。

 教育には、人間をつくるための原理原則が必要だ。キリスト教は、人間は被造物で、創造者は神である、と教えている。被造物には限界があるが、創造のための自由を与えられている。その自由をできる限り活用して、創造に参加していく。その目指すところは世界の平和、人類の幸福ということになる。
 逆に、神に背く時には、その自由は阻止される。そうした人間としての限界を謙虚に受け止める素養を持った人間をつくっていけたらと思っている。

 ――宗教教育への取り組みはどうあるべきか。

 宗教教育は私立学校の特権だ。かといって、公立校でできないかといえば、そんなことはない。個人の教師が個人である学生に向かって、人格的な影響を与えるという形で、宗教教育は可能だ。例えば、東大では、内村鑑三の影響を受けた、弟子でクリスチャンの南原繁先生や矢内原忠雄先生が、総長になっていた。矢内原総長は毎日曜日の朝、自分の集会で聖書講義を続けた。 東北大学の宮田光雄先生は、自分の家に学生を下宿させ、奥さんが食事を作り、二十四時間教育を行ってきた。単なる下宿ではなくて、毎週プログラムを決めて、先生と一緒に礼拝もし、読書もする。これを二十年、三十年とやってきた。
 「宗教教育」を定義し直せば、公立校でも扱える。どの人間でも、究極的に価値を置くものがある。究極的に関心を抱かざるを得ないもの、それを神と呼んでいい。そういうものの存在は否定できないわけだから、「あなたにとって究極的に大事なものは何ですか」という哲学的な問い掛けをすることはいいことだと思う。これを「宗教教育」と呼ぶかどうかは見方による。

 ――そういった議論を道徳教育ではできないか。

 道徳は、人類が伝統的に築き上げてきた社会生活をするための必要最低限のルールだ。親に孝行する、兄弟や友人と仲良くする、忠誠を尽くす、うそをつかない、約束を守る、といったことが道徳になる。宗教も人を殺すな、敵を愛せよと言い、宗教と道徳とは重なる面がたくさんある。しかし、道徳には限界がある。なぜなら、道徳は「究極的に大事なもの」について扱わないのだから。

 ――アメリカでは人格教育が重視され始めた。

 人格教育は道徳教育の範囲内でもできるが、人格教育の最後の仕上げは、学生の人格に影響を及ぼすというところまで持っていくべきだ。先生の人格に接して、学生はそこから影響を受けて自分の人格を培っていく。そうなってくると、そこに宗教的なパターンが生じると思う。私は、イエスの影響を受け、イエスの香りを発するような人間が、人格を磨き上げた人間だと思っている。

 ――以前から「宗教教育」は話題になっているが、国民の間にアレルギーのようなものがあって、なかなか具体化しない。

 それは、戦争中の誤った宗教教育からくるアレルギーだ。この国は天皇の国、天皇は神だ、という考えを植え付けてきた。宗教教育が、国家のためのものになってしまった。あのような宗教教育をしてはいけない、といった敗戦後の反省がある。
 ところが、その段階に安住していて、本当の意味での宗教、つまり個人が人間である限り持っている「究極的に大事なもの」に対する畏敬の念といったものが顧みられなくなった。そこに日本の教育の怠惰や間違いがある。

 ――宗教教育を具体化させるには。

 個々の人間には、忠誠心が行きつく最後のよりどころのようなものがある。それが一体何なのかを議論したり、そして、なぜ人間は幸福になれないのか、なぜ生きることを喜べないのか、なぜ自殺するのか、といった問題を投げ掛ける。せっかく生まれてきたのに、こんな生き方をしていたら損だな、と考えさせる。道徳教育と呼びたい人はそう呼べばいいが、私は宗教教育だと思う。
 私は、金曜日のチャペルアワーで、出席した学生みんなと握手をしている。そうやって触れ合うことが大事だと思う。日本の学生は握手することを必ずしも喜ばないけれど、学長が個々に接する機会はあまりないのだから。聖書にあるように「機(おり)を得るも、得ざるも」ということで、チャンスを得ようが得まいが、その瞬間その瞬間が教育の機会だとみなしていきたい。

 ――「心の教育」と叫ばれて久しい。

 「心の教育」の基本は、人間観にあると思う。それを突き詰めると、人間はなぜ価値があるか、ということに行きつく。生命は神様から与えられたもので、生きていること自体に価値がある、と考える。たとえ、その人が身体的、精神的な障害を持っていても、生きているゆえに価値がある。つまり「存在価値」。これが「心の教育」の基本だ。
 その全く反対の考えは、所有することに価値を置く考えだ。「存在価値」に対する「所有価値」。なぜ大東亜戦争に突入したかというと、日本はもっと世界の強国になるために、資源を確保しなければならない、と考えた。帝国主義的な方法に走って、満州を支配し、南方に進出して石油資源を得ようとした。それで戦争に突入した。
戦争に負けて反省したが、戦争で得られなかったものを、今度は経済で追求した。世界が驚くほどリッチな国になり、それに満足したが、バブルが崩壊し、借金にあえぐようになった。
 もう一つ「所有価値」の例を挙げれば、偏差値の高い人が偉い、という偏差値信仰だ。日本人はいい学校に行こうとして目の色を変えてやってきた。東大出身者がどんなに悪いことを重ねても、それでも高校生は東大に行きたがる。学歴信仰の奴隷になっている。これがどれだけ日本を不幸にしているか。

 ――価値観教育に取り組むべきでは。

 実物教育で行くしかない。例えば、車いすの学生が修学旅行に参加したいと言ったら、参加させ、車に乗せ、二階にみんなで担ぎ上げ、排便の手伝いもする。そういうのが教育だ。なぜ彼のためにそこまでやるのか、ということになるが、それこそが教育なのだ。

 ――若者の愛国心は薄れてきている。

 愛国心の教育をしようと思うなら、学生を外国に連れて行けばいい。外国で一週間なり一カ月なり生活させたら、日の丸を見た時、どんなにうれしいことか。その気持ちこそが愛国心だ。私自身、日本を好きになったのは、外国にいた時だ。日本にいると「日本は困った国だ、なんて変な国なんだ」と思っていたが、外国に行ってみると「日本はいい国だ」と次々と思えるようになった。

 ――異文化に接する機会が、愛国心を強めることになる、と。

 「外国語を知ることは、一つの新しい世界を知ることだ」。これはゲーテの有名な言葉だ。日本語オンリーだと、人生や世界の限られた面しか理解できない。異文化と接触すれば、自分を相対化させられ、謙虚にさせる。異文化を大事にする、異文化に敬意を持つことが大事だ。
 同志社を創設した新島襄について、デイヴィスという宣教師が伝記を書いている。それを私が翻訳したのだが、その中に、同志社英学校がスタートする前の一八七五年に、新島とデイヴィスが京都を見物して回った時のエピソードが書かれている。
 三十三間堂を見て回った時、新島は「デイヴィス君、この仏像は書生たちが冬の寒い時に、暖をとるのにちょうどいい」と言って笑ったという。デイヴィス宣教師はこれを「新島襄という人はユーモアを解する人だ」として、そのユーモアの例に挙げている。
 これは困った例だと思う。私は新島を尊敬するが、これを言った新島には、「先生そんなこと言っていいんですか」と言いたい。日本にいるたくさんの仏教徒が尊敬の対象にしている宗教的芸術作品に対して、クリスチャンである新島は、なんらの尊敬の気持ちを持たなかった。若かったからだろうが、キリスト教が世界を制覇するというキリスト教中心主義がそこに表れている。
 すべての宗教が、自分の宗教こそ一番だと主張するようになれば、イスラム教対キリスト教といった問題になる。仏教には仏教の良さがあり、イスラムにはイスラムの良さがあるのだから、お互い尊敬の念を持たないと、世界の平和は来ない。異文化の背景にある“異宗教”について理解する必要がある。
 

 (※注)中央教育審議会が昨年十一月十四日にまとめた中間報告に盛り込まれた「宗教に関する教育」の要旨は以下の通り。

 「宗教一般に関する教育は、重要性を指摘する意見が多かったが、いかなる場でどのような内容で行うべきかについて意見が集約されておらず、引き続き検討。国公立学校では、特定の宗教のための宗教教育や宗教的活動が禁止されることは今後とも大切である」 16面 オピニオン 2003/02/17 The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan


【正論】お茶の水女子大学名誉教授・森隆夫 教育改革は目的と手段を混同するな
[2003年08月30日 東京朝刊]

 ■目指すは心の教育と確かな学力
 ≪“改革の為の改革”の危険≫

 教育改革が進行中である。教育改革国民会議では十七の提言を行い、それを受けた文科省の改革プランも多岐にわたる。例えば「二十一世紀の未来を拓く教育改革」(二〇〇二)では、基礎学力の向上等七つの重点戦略が示されている。しかし、改革が多岐にわたり、細部に至れば至るほど改革の「目的」と「手段」が混同され、改革のための改革になる危険がある。

 したがって、そうした混同を避けるために、教育改革全体の目的と、それを実現するための個々の改善策(手段)との関連を常に総合的に考える必要がある。例えば、子供や保護者の判断で通学先を選べる学校選択制は、自由化路線に沿ったものと考えるだけだと、自由化のための自由化に陥ることになる。それは「手段の目的化」以外の何物でもない。同じことは民間人校長の登用、開かれた学校、情報開示、絶対評価の導入、二学期制、総合的な学習、学校評議員制度等々についてもいえる。個々の改善策(手段)自体が目的化して行き過ぎていないかということである。そうした行き過ぎを防ぐためには教育改革全体の目的(大目的といってもいいが)を常に認識しておくことである。

 ≪学力は成績評価にあらず≫

 教育改革の大目的、それは端的にいって二つある。第一は「心の教育」の充実であり、第二は「確かな学力」の向上である。そのことは文科省の「学びのすすめ」(平成十四年一月十七日発表)によっても明らかだ。そこでは、この二つが特に重要であると次のように述べている。

 「『心の教育』の充実と『確かな学力』の向上とが教育改革の特に重要なポイントであり、とりわけ、今の学校教育における大きな課題であると考えております」

 このように「心の教育」と「確かな学力」が教育改革(学校教育改革)の大目的といえるのだが、「学びのすすめ」では、専ら「確かな学力」の向上策にふれ、肝心の「心の教育」にふれていないのは残念である。最近の少年事件の多発を思うにつけ、「心の教育」の充実策が講じられるべきである。

 ちなみに「確かな学力」とは何かというと、それはよく議論される学力低下論でいう学力とは異なっている。学力低下論争での学力は、評価可能な一部教科の成績低下を問題にしている。これに対して「確かな学力」というのは、四つの要素があり、それは(1)知識・技能(2)学ぶ意欲(3)思考力・判断力(4)表現力である。これらの総体を「確かな学力」とみなしている。それにつけても学力という言葉については、かつて文科省が文部省といわれていたころ、「新学力」という表現で「生きる力」の育成を図ろうとした。「新」や「確かな」という表現には、学力を単なる成績評価と考えず、学力向上の活性化を図る狙いがこめられていると考えたい。

 ≪効果薄い「手段」は見直せ≫

 改革の大目的は以上の二つだが、目的と手段の混同を招きやすい要因に「市場原理」の導入がある。よく教育改革を論ずる場合、特に経済界の人は教育にも「市場原理」を導入し競争で活力を、という。確かにマンネリ化した教育界を活性化するには、市場原理の導入もある程度は必要かもしれないが、それはあくまでも、前記二つの大目的である「心の教育」の充実と「確かな学力」の向上のための市場原理の導入でなければならないのである。ところが現実を見ていると、導入のための導入(手段の目的化)といった感じが否めない。例えば、改善策が目新しいと、バスに乗り遅れるなとばかり、民間人校長の登用に走るのはその例といえる。

 五月二十七日付の本欄「民間人校長自殺に学ぶ制度運用の問題点」でも書いたが、民間人校長の登用で問われるのは、どれほど「心の教育」が充実し、「確かな学力」の向上に寄与したかである。学校選択制についても同様だが、学校選択制で「心の教育」がより充実し、「確かな学力」の向上に役立ったということを聞かない。聞こえてくるのは、教師の意識改革のために学校選択制を導入したという声だが、ならば教師の意識改革の結果、「心の教育」の充実と「確かな学力」の向上のために、次にどういう手が打たれたかが問題なのである。

 要するに、現実に個々の改善策を実施する現場では、常にこの二つの大目的をまずは念頭に置いて考え、実施した結果、二つの目的達成にどれほどの効果があったかを検証することが必要なのである。効果がないと思えば、手段の方を再検討する必要がある。手段の目的化だけは避けたい。(もり たかお)

■正論 国民的教育改革運動をおこそう 平成国際大学学長 中村 勝範

愛国心の喚起を徹底するために必要

≪民族の精神を荒廃させた≫
 一九四七年に制定された教育基本法は、その後の日本民族の精神を荒廃させ、日本の国家社会の頽廃を招く原因となった。

 この法律は、わが国がいまだ連合国軍の占領下にあった当時、GHQ(連合国軍総司令部)の干渉を受けながら制定されたものであるから、日本民族を腑抜けにし、日本を再び世界のトップクラスの国家に上昇させないことを目的としていた。

 そこには「個人の尊厳」「人格の完成」など、一見人類に共通した教育理念がうたいあげられているが、日本人としての愛国心、日本の伝統・文化、家族愛等を尊重する項目は抹殺されている。

 兄弟(けいてい)に友に、朋友相信じることのない「個人の尊厳」は身勝手な人間を群生させた。 恭倹己れを持し博愛衆に及ぼさぬ「人格の完成」は独善的人間を簇生(ぞくせい)させた。

≪反日的人間を「再生産」した罪≫
 日本人としてのアイデンティティーを欠いた個人主義は短絡的な国際的連帯主義者を生みだした。そのよき例は早稲田大学教授古賀勝次郎氏の指摘(時事評論 02・11・20)で教えられたのであるが、東大名誉教授である坂本義和氏である。氏は二年前に「横田めぐみさんの両親が外務省に行って、まず、この事件の解決が先決で、それまでは食糧支援をすべきでないと申し入れた。これには私は怒りを覚えた。自分の子どものことが気になるなら、食糧が不足している北朝鮮の子どもたちの苦境に心を痛め、援助を送るのが当然だ」と発言しているという。

 北朝鮮の工作者まがいの坂本氏の発言はまさに山鹿素行が拒否した「近くを捨てて遠くを取る」者の言といわざるを得ない。横田めぐみさんの北朝鮮による拉致と、多くの北朝鮮の子らの餓死は二年前でも良識人の常識であったが、日本を捨てて「共産主義」を取っていた氏には見れども見えず、聞けども聞こえぬのであった。

 坂本氏は教育基本法により育った典型であるが、氏自身が教壇に立って以後は、この法律の熱心な同調者として反日的人間を精力的に再生産しつづけてきた。氏と同様な工作者は個人としても、また組織的にも今日わが国のいたるところでうごめいている。

 たとえば「ふりーせる保育」(以下本紙11・24による)である。千葉県松戸市の保育園では子供は大人と対等であるとし、園児の意思を最大限に尊重する。その結果、おやつや食事の時間にも選択の自由を認める一方、言葉遣いやあいさつ、箸の持ち方などへの指導がないがしろにされている。

 そもそも園児に大人と対等の意思があるとすることがわからないが、それほど対等にこだわるのであれば、いっそのこと園児たちにも父親たちと対等に働かせてはどうか。

≪教育の目的は国運の扶翼≫
 「ふりーせる保育」論者はいうまでもなく教育基本法路線上を走るものであるが、ひな祭や鯉のぼり等の伝統行事を否定的にとらえている。

 ところでこの保育方針は文部科学省の委嘱を受けた日本女性学習財団が作成したものである。この方針を作成した財団と、財団の作成した方針を印刷したパンフレットの使用を認めた文科省はいかに反日的・反日本民族的徒輩(とはい)の巣窟(そうくつ)と化しているかがわかる。

 痴呆症者は自分の痴呆に気づかないように、文科省もまた教育基本法下の戦後教育行政の誤りに気がつかないようである。省外から行政の誤りを指摘されても自己点検、自己評価を行う能力もなければ勇気もない。中央教育審議会に教育の見直しを委ねるのであるが、審議会は審議会で教育基本法を根本から点検評価し直すことをせず、こそくなつぎはぎを施しているだけである。

 個人の尊厳をひねもす説いても、実質的な国家の独立なき国の民は拉致国家の餌食にされるか、追い剥ぎのような国家に終りなく貢ぐ以外に身の安全を保つ道はない。教育の目的は国運の扶翼である。そのためには教育基本法をどう振ってみても絶対にでてこない愛国心の喚起を骨の髄までしみ込ませることである。

 「郷土や国を愛する心」というがごときたるみきった文字は甘ったれた餓鬼のたわごとである。愛国心といい切らないところに中央教育審議会委員中に、教育基本法の同盟軍が潜んでいることがわかる。

 地の底から国民的教育改革の運動を興さねばならない。幸いにして「教育界における戦後」の清算を期す民間有識者からなる「日本教育有識者懇談会」(略称「民間教育臨調」)の設立が近い。燭光(しょっこう)を感じる。
 

20面 オピニオン 2003/01/01

【ビューポイント】国民が自ら「考える世論」を メディアに煽られる危うさ、世論に従う外交も危険なものに
(財)フォーリン・プレスセンター理事長 波多野 敬雄
国際問題への関心低い日本人

 グローバライゼーションの世界において、各地域ではまず地域協力が進んでいる。欧州はEU(欧州連合)、東南アジアはASEAN(東南アジア諸国連合)、北米・南米は米州機構が出来上がっている。こうした地域協力から取り残されている国が三つある。ロシア、中国、そして日本である。ロシアと中国は大国であり自分の国をとりまとめるのに手一杯で、地域協力には手が回らない。しかし日本こそ、一国では生きてゆけない国である。この日本が生きてゆく道は、国際協力にのみあると私は思う。となれば、国際問題に対する関心が高くなくてはならないはずなのに、残念ながら、日本において、国際問題への関心は非常に低いのが現実である。

 日本で大新聞と言われる朝日・読売など、朝刊は四十nあるが、国際面はわずか二n、それも六面、七面あたりにある。一面に国際問題が載るのは、せいぜい中国、朝鮮半島以外は特に日本に関係深い事件を報じる場合である。パレスチナ、ユーゴ――こうした地域に関するニュースは、世界の有力紙では連日一面をにぎわした。パレスチナ問題などは、現在のイラク問題の真因となっているかもしれないほどの重要な内容である。しかし、パレスチナのニュースが日本の新聞の一面を飾ることはほとんどない。

 私が出演しているテレビ番組でも、話題がユーゴやパレスチナへと及ぶと、とたんに視聴率が下がるという。新聞は部数を、そしてテレビは視聴率を常に意識しているから、当然視聴者が関心を持つ内容ばかりを報道することになる。そして国際問題は置いてけぼりになってしまうのだ。国民の関心と国際問題は、いわば「ニワトリと卵」の関係であり、メディアが報道しないから国民が関心を持たない、国民が関心を持たないからメディアが報道しない、という悪循環に陥ってしまっている。

日本の教育に大きな原因

 しかし一方で、現在のメディアは、まさに日本の国を支配しているといっても過言ではない。四十年以上前、私が外務省に入った頃は、メディアはニュースを求めて役人を追いかけ、役人は予算や法律を通すために政治家を追いかけ、政治家は宣伝のためにメディアを追いかけるという“三すくみ”のような状態が存在していて、それが案外うまくバランスを取っていたように思う。ところが今は、役人も政治家もメディアを追いかける。夜のテレビ・ニュースでキャスターが悪く言おうものなら、反論や説明をする機会もないまま悪いイメージが決定的になり、是正する手立てもない。まさに「言われたら終わり」の状態である。しかも日本のメディアは外国と違って批判を自らの存在意義と観念しているから、ほめることをしない。役人も政治家も、いかにメディアに批判されないかということばかりに気を使い、「メディア恐怖症」になっている。

 なぜそうなってしまっているのか、は日本の最も基本的問題かもしれない。それは、国民が自ら考えることをせず、新聞、テレビをうのみにするところに大きな要因があると思われる。これは、日本の教育によるところが大きい。外国では、教育とは自分で考えさせることであるが、日本の教育は、自分で考えるよりも「覚える」ことが中心であった。「学ぶ」とは「まねぶ」のが語源だと言われるが、こういう国だからこそ、メディアの世論支配も可能だったといえよう。

 私が外務省で最初に勤務したのは安全保障課という課で、まず六〇年安保を担当した。当時の世論は安保条約反対が強く、連日のように外務省の周りでデモが行われて、私は「自分の仕事は国のためになっているのだろうか」と思ったこともあった。しかし当時、安保条約交渉を統括して、のちに米国大使になった下田武三氏は、「世論に追随した外交は、歴史を振り返ると、日本では失敗した例が多い。ポーツマス条約をまとめた小村寿太郎は家を焼き討ちにされ、国際連盟を脱退して帰国した松岡洋右は大歓迎を受けた。この安保条約が正しいことは歴史が証明する」と言ったのを憶えている。

 国連安保理常任理事国入りについても然り。今までに常任理事国入りのチャンスはあったかもしれない。しかし日本のメディアには慎重論が多かった。常任理事国というのは頼まれてなるものだ、という理論らしいが、英国の国連大使は日本が銀のお皿に乗せて常任理事国が提供されるのを待っている、と苦笑していた。今にして思えば、日本が常任理事国入りしていれば、北朝鮮の問題も、もっと別の解決方法があったのではと思う。

 北朝鮮の拉致問題への対応も、世論に動かされすぎの感がある。拉致されていた五人が帰ってきてから、映画館の入場者数が減ったといわれるほど、人々は、帰国した拉致被害者の動静に異常な関心を持つ。それも理解できるが、国際常識からも日本の安全保障にとっても最も重要なのは、北朝鮮の核とミサイルの問題である。外国ではなぜ日本が今になって拉致問題にばかり関心を持つのか、また、なぜメディアがこれほど世論を煽るのか、不思議に思っている。

時間をかけても改善の努力を

 このような世論のままで、このような過程で世論が作られるのなら、その世論に従う外交は危険なものにならないかと私は危惧する。購読者数と視聴率にばかり重きを置いたメディアと、またそれに左右される人々が作る世論では、正しい方向性を示せない。国民が自ら「考える世論」ができる時にこそ、それに従う外交も正しいものになるだろう。教育のあり方が変わり、メディアの姿勢が変わるのは、一朝一夕になされることではない。しかし、変える努力の積み重ねによって、時間をかけても日本が変わっていくことを願っている。(談)

The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan

「教育危機と改革」テーマにシンポ
 「教育の危機と改革の焦点」をテーマにした公開シンポジウム(日本の教育改革を進める会主催、読売新聞東京本社後援)が17日、東京・有楽町のよみうりホールで開かれた。
 基調講演では、中曽根康弘・元首相が「教育基本法の改正を早期に実現することが危機打開の第一歩。その改正では、日本の歴史、伝統、文化に合った固有の運用の精神を盛り込まなければならない。次の政権は経済国家から教育国家への転換が課題だ」と訴えた。

 続くパネルディスカッションでは、小田村四郎・拓殖大総長が「がまんすることを教えるのが教育。ゆとり教育はその理念に反する。授業時間を増やして学力低下を防ぐべきだ」と強調。

 岡崎久彦・岡崎研究所長は「戦後、国家的にものを考えることとエリートを否定したのが誤り。一流の人間を作るために、かつての旧制高校の良さを見直すべきだ」と述べた。

 高橋史朗・明星大教授は「男女共同参画社会基本法のもとで、男女の特性を否定するジェンダー・フリーの動きが広がり、家庭教育が危機にある」と指摘した。

2003.05.23
シンポ「教育の危機と改革の焦点」 人づくり教育へ回帰を=特集

 「教育の危機と改革の焦点」をテーマにした公開シンポジウム(日本の教育改革を進める会=代表・飯島宗一元名古屋大学学長、西沢潤一岩手県立大学学長=主催、読売新聞東京本社後援)が、今月十七日、東京・有楽町のよみうりホールで開かれた。教育基本法改正や家庭教育のあり方について、各界有識者から活発な意見が出され、約七百人の聴衆が熱心に聞き入った。
 
 《基調講演》 ◇中曽根康弘氏 ◆感動得られる環境作り基本
 教育基本法をできるだけ早期に改正させることこそ、国家危機を打開する第一歩だ。
 現在の教育基本法は占領政策を背景に生まれ、過去の価値を否定したうえで、非常に強い個人主義と平和志向を国民に教え込むことになった。だが最近の社会的規律の崩壊や経済不況、政治状況は、こうした教育に根源があると見ざるを得ない。国民世論にも大きな変化が起き、教育基本法改正に賛成論が強くなってきた。
 教育基本法は、その法律も大事だが、もっと大事なのは、それを支持し運用していく精神である。(改正案を審議した)中央教育審議会の答申は非常に網羅的で羅列的。教育というものを貫く指導精神が垣間見えない。教育の課題とは、日本という国民国家に育つ世界的日本人をつくることだ。それには自然と文化が大きな影響を及ぼす。私自身、小中学校のころは上毛三山を見るのが大好きで、郷土の感化というものが人間形成にいかに大事かはわかる。
 担任の落合先生という人は、「この子は将来西郷隆盛みたいになるぞ」とかわいがってくれた。私は結婚する時、内務次官や東大の先生を断って落合先生に仲人になってもらった。そういう関係が本当の教育ではないか。崩壊した学校体系を直そうというのが今の教育改革の発動点だが、一番基礎になるのは、感動を得ることのできる環境づくりではないか。
 教育改革の方針として、文科省や中教審に欠けているものがある。まず、各学校ができるだけ全寮制をとること。その次に、例えば高校生に一定の期間、公共奉仕を義務的にやらせる時間を設けること。もう一つは、旧制高校のような環境を学業の体系に埋め込むこと。旧制高校は大学入試に余裕があり、寮で議論したり旅行したり、自分で哲学や思想を深めたりすることができた。
 結論として、速やかに日本は経済国家から教育国家に前進しなければいけない。次の解散総選挙も、教育論で競うものでなければいけない。
 ◇なかそね・やすひろ(元内閣総理大臣、衆院議員)
 1918年、群馬県生まれ。科学技術庁長官、通産相などを歴任し、82年から5年にわたり首相。現在、財団法人世界平和研究所会長なども務める。著書に「二十一世紀日本の国家戦略」など。
 
 〈パネリスト〉
 ◇小田村四郎氏(おだむら・しろう)拓殖大学総長
 1923年、東京都生まれ。防衛庁経理局長、行政管理事務次官などを経て78年退官。95年から現職。著書に「占領後遺症の克服」など。
 ◇岡崎久彦氏(おかざき・ひさひこ)岡崎研究所長
 1930年、和歌山県出身。外務省に入り、駐米公使、タイ大使などを経て92年退官。現在、読売新聞東京本社調査研究本部客員研究員。
 ◇高橋史朗氏(たかはし・しろう)明星大学教授
 1950年、兵庫県生まれ。臨時教育審議会専門委員などを経て、現在、感性教育研究所長。著書に「臨床教育学と感性教育」など。
 〈コーディネーター〉
 ◇石井公一郎氏(いしい・こういちろう)元臨教審専門委員、明成社社長
          ◇         ◇   
 石井 今、教育の危機を招いているが、どういう問題点があるか。それをどのように改革すべきか、考えをうかがいたい。
 ◆新指導要領、改訂を
 小田村 まず「ゆとり教育」について話したい。授業時間数の削減に対する批判が、学力低下の問題として強く取り上げられている。文部科学省が定めた授業時間数を見ると、昭和四十年代に比べて大体、主要教科で25%から30%も削減された。授業内容も少なくなり、基礎基本の養成すらできない。また、高校では、選択科目が増え、例えば、大学工学部の新入生が物理を教わっていない、というようなこともある。国語教育も漢字が制限され、朗読、音読も少なくなり、文語文、漢文もほとんど教えない。だから、明治時代の文学でさえ読めない。
 教育というものは、欲望を抑制し、目前の利益より将来に備えて自己を錬磨することだ。ゆとり教育はそもそも教育の本来の理念に相反するもので、一刻も早くやめるべきだ。具体的には、新学習指導要領を速やかに改訂して、授業時間数を大幅に増加させることが必要だ。週休二日制は特例を設けて停止しても差し支えない。現に私立では、土曜日に休んでいない学校はたくさんある。
 国語は一番に重視すべきで、(教える)漢字数や文語文、漢文を増やし、古典に親しませる。音楽も削減された昔の名曲を復活させ、地理も系統的な学習に戻す。道徳も正規の学科にして、立派な教科書をつくるべきだ。
 学力テストは全国のすべての公立学校で実施すべきだ。それによって、学力の地域差、学校差が明らかになり、先生が教育に取り組む熱意を向上させることにもなる。それから、教科書を教えることが基本になるべきで、そのために、編さん、検定を今以上に重視して、しっかりした教科書をつくってもらいたい。
 ◆エリート教育必要
 岡崎 日本には、江戸の終わりから明治時代の初めにかけ、世界最高の文教社会をつくったという歴史がある。しかし、戦後、国家的にものを考えることとエリートを否定したことが、世界における日本の競争力を危うくしてしまった。国家の指導者になろうと勉強し、どうすればお国のためになるかを考えることはいけないという教育が戦後、何十年も続いた弊害を今、感じる。
 世界で勝ち抜ける独創性のある人間、指導力のある人間をつくるには、エリート教育以外ない。かつては旧制高校教育で、そういう一流の人間をつくってきた。文科に進む人は国家の責任を担おうと、理科の人は世界的な大発明をしようと、それぞれものすごく勉強する。大学受験の負担がゼロだから、中学のころから受験に関係ない勉強をして、中には、ものすごい優秀な人間も出てくる。そんな人間は年に百人できればいい。優秀な生徒だけ集めて、初めの敷居をうんと高くして、あとは大学までほとんど試験なしという制度を復活すべきだ。いい人間だけ集めて自由にさせたら、非常に優れた人材が出てくると思う。
 ◆日本の知恵、再認識
 高橋 この十年で子どもが大きく変わったことは、大人が変わったことと相関関係がある。子どもの問題は、大人の子どもへのかかわり方の問題だと認識する。家庭教育の危機について問題提起したい。
 男女共同参画社会基本法が成立したことで、男らしさ、女らしさを否定したり、結果の平等を求めたり、という動きが教育界にも広がっている。同法が、ジェンダーフリーを目指しているとの誤解があると思う。
 男らしさ、女らしさと人間らしさは、対立する概念ではない。人間らしさというものは、動物と人間の違いだ。人間は、生殖の作法や子育てというものを、文化的に社会的に受け継いで確立していく。男らしさ、女らしさを否定して人間らしくなるのではなく、男らしさ、女らしさの上に、人間らしさ、自分らしさというものが付け加えられてくるものだ。
 男女共同参画社会というものは、男女共創(きょうそう)社会、ともにつくる社会だ。男女の特性を認め合い、その違いを生かし合い、欠点を補いながら補完、和合の文化をつくりあげていくものだ。欧米の男女同権システムを取り入れながら、日本人が大事にしてきた和合の文化を破壊しないように、バランスをとっていくことが大事だ。
 日本では、「三つ子の魂百までも」と言ってきたが、三歳までは子どもを常時家庭に置いて母親の手で育てないと成長に悪影響を及ぼすという「三歳児神話」は、合理的根拠がないとして、否定されようとしている。母性のかかわり、父性のかかわりの上に自立があるという日本の伝統的な子育ての知恵というものを、もう一度再発見していくことが必要だ。
 小田村 教育基本法が掲げている根本の中に、個人の価値、個人の尊厳を至上なものとみる考え方があって、だから、国家は、個人の人権のための手段だという風潮が教育界にもある。
 しかし、人間は他とのつながりの中の存在で、家族や国家の一員として生きている。個人人格の錬磨、向上と国家、社会への奉仕は決して分離できるものではなく、一体のものだ。
 中学生以上の未成年者五千人を対象にした読売新聞の世論調査で、日本が外国に侵略された場合、武器を持つ、持たないの違いこそあれ交戦、反撃すると答えたのは、42%にしかならなかった。昔なら、逃げる、降参するとかは、口が裂けても言えなかったのに、今は、戦う、抵抗すると口にすることが、何か恥ずかしいような雰囲気があることが問題だ。
 学習指導要領には、国を愛する心を育てるという言葉はあるが、国を守るという言葉がない。だから国を愛することと国を守ることが結び付いていない。
 岡崎 愛国心は、人為的に否定的な教育をしない限り、自然に生まれてくるものだ。オリンピックで高橋尚子が勝てば、うれしくない日本人はいない。それを抑え、無理やりに消しているのが戦後の教育だ。
 高橋 ジェンダーフリーということが教育界を独り歩きしている例として、「桃太郎」は差別になるから、桃から「桃子ちゃん」が生まれたとする発想の教科書がある。また、富山県には、父のような立山連峰、母のような神通川というのが差別だという小学校もある。固定的な役割分担意識を否定する風潮が広がり、雌雄同体のカタツムリが理想として出てくる。
 家庭教育を崩壊させているのは、保育サービスの充実に代表される子育て支援策だ。働く母親の都合を優先する子ども不在の支援策は、子育て放棄や、親との心のきずなの崩壊につながるもので、見直さなければならない。外国では、教育者としての親を支援するのに対し、日本は、労働者としての親を支援しているのが大きな違いだ。
 小田村 教育基本法は、本当を言うと、全面的に改正しなければいけない。簡単にはいかないだろうが、愛国心の問題や、歴史、伝統、文化の尊重という言葉は、どうしても入れておいてもらいたい。そうすれば、少なくとも現状よりは一歩前進になる。
 宗教的情操のかん養も当然、道徳教育の基本として入れるべきだ。今の規定は、非常に政教分離の厳しい言葉で書かれているが、ぜひ緩和してもらいたい。今、社寺を巡る修学旅行がずいぶん減っているようだが、日本の伝統文化として、ぜひ子どもたちに見学させるようにしなければ。
 男女共同参画社会基本法の言葉を入れることは認めてはならない。それから、教育基本法一〇条の「不当な支配に服することなく」という言葉も削除する必要がある。
 岡崎 国家的にものを考えなくていいということで育った厚い世代が日本にある。これで物事が動かないので、非常に憂慮している。私は、竹下(登)首相(当時)に「中央官庁の課長までは、自分の省のためと言っていいが、局長になって『省のため』という言葉を一言言ったら首にする、と宣言されたらどうか」と言ったことがある。外務省の局長になって、外務省のためということはない。日本の外交のためというならまだいい。やはり「お国のため」と、どんな理由をつけてでも言ってほしい。
 高橋 一般の常識と教育界の常識がずれている、それをどう正すかが大事なポイントだ。中曽根さんが恩師を例に、感動とか探求心をはぐくむことが重要とおっしゃったが、人づくりということが大きな課題なのではないか。どんなに美しい理念を掲げても、だれがどのように教えるのかという壁がある。オックスフォード大学の学長が、親になるための学び、親としての学び、つまり「親学」が一番欠けているという提起をされたが、まさにその通りだ。
 教育荒廃の実態というものを国民に情報公開して、国民大討議を起こしていく、そして、いい意味での下からの教育改革を起こしていくことが、この国の教育を良くしていく一番の課題ではないかと思う。
 
 
2003.09.05 [総裁選・政策を競え](4)教育改革、指針示せ 江崎玲於奈氏(連載)
 ◇芝浦工業大学長 1973年、ノーベル物理学賞受賞。本社客員。78歳。
         ◇
 私が座長を務めた教育改革国民会議(森首相=当時=の私的諮問機関)が二〇〇〇年十二月にまとめた最終報告の大きな柱は、教育振興基本計画の策定と教育基本法の見直しだ。だが、その後、教育改革の動きは停滞している。総裁選では、具体的に教育をどう改革するのか、大いに論じて指針を示し、国民の関心を高めてもらいたい。
 教育改革国民会議の最終報告も踏まえて、今年三月に、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)が基本法見直しを求める答申をまとめた。しかし、基本法改正案の国会提出に向けた与党の作業は進んでいない。与党内に、基本法改正に慎重な政党もあり、与党三党で教育基本法問題協議会を作って検討を続けるということで、法案提出を先送りしているからだ。
 教育基本法の改正問題で与党内の足並みの乱れや対立が露呈するのを避けたいという、政権維持を優先した結果だ。政略を優先し、本当に必要な政策を推進しないのは政治の怠慢だ。
 日本が社会や経済の停滞から脱却できないのは、独創的で創造力のあるリーダーが不足しているからだ。そうしたリーダーや幅広い人材を育成するための教育改革を一刻も早く実現しないと、日本は衰退するばかりだ。
 二〇〇〇年三月に小渕首相(当時)に教育改革国民会議の座長になってほしいと頼まれた時、小渕さんに二つ言われた。創造性が重要だということと、少年犯罪の増加、いじめや不登校など教育環境の荒廃の改善ということだった。
 一見、かけ離れた問題のように見えるが、実は、それぞれの子供の才能を認めて伸ばすということ、「天性を見いだし、育成に努める」ことが大切だという点で通じるものがある。
 来年度から法科大学院が作られるが、大学院や博士課程の研究・教育をもっと重視すべきだ。知識が大事な社会になって、新たな知識を作り出す創造的な研究や科学者育成を奨励すべきだからだ。
 わが国の高等教育の財政的裏付けは非常に乏しい。対国内総生産(GDP)比の学校教育費(公財政支出)は、初等中等教育では米国3・5%に対して日本は2・7%、高等教育では米国の1・1%に対して日本はわずか0・5%だ。
 このため、科学研究費や奨学金などを具体的に定めた教育振興基本計画を作る必要がある。
 一方で、犯罪の低年齢化や小中学生の非行という問題もある。その問題解決のためには、もっと子供たちに関心を払うべきだ。
 日本では、数学や英語が出来るという基準だけで評価するとか、子供たちに画一的に対応している。そうでなく、学校や地域が協力して、カウンセリングなどで子供たちと向き合い、学科に限らず、それぞれの多様な才能を認めてあげるべきだ。そうすれば、子供たちが非行に走ることも無くなると思う。
 国立大学の法人化や株式会社の学校経営参入など、教育の自由度を高める改革の方向性には賛成だ。
 私はかつて筑波大学長を務めたが、民間企業ならつぶれておかしくない。先生の待遇は平等で、できる先生も、できない先生も給料は変わらない。事務局長は文部科学省から任命されて来る。各大学が自主自律性を持ち、もう少し市場原理が働かないと、先生たちにいい意味での緊張感が生まれない。
 国民会議では、「伝統・文化の尊重」を言っている。しかし、お題目として「愛国心を持ちなさい、命を大事に」と口先だけで言うだけではだめだ。日本人が愛するに足る日本を作るということが大事だ。
 停滞している教育改革を前進させるよう、政治家がリーダーシップを発揮し、国民のコンセンサスを得てもらいたい。そのために、総裁選はよい機会だ。(聞き手 政治部 前木理一郎)


社会】人格教育の継続が必要 ボストン大のライアン名誉教授語る 
 米国で九〇年代に導入された人格教育について学ぶ講演会が七日、東京・平河町の都市センターホテルで開かれ、参加した教育関係者や国会議員ら約二百八十人が、今後の教育のあり方について論議を重ねた。「『人格教育』特別講演会実行委員会」(代表世話人・上寺久雄・兵庫教育大元学長)の主催。
 「アメリカ教育改革の新しい潮流―『人格教育』とは何か」と題した講演会で、トニー・ディヴァイン国際教育財団副会長は、生徒に自分自身で価値観を見つけさせる「価値の明確化」が七〇年代に定着したことによって、伝統的道徳観を軽視するようになったアメリカ公教育の問題点を指摘。失敗だったとみなされた「価値の明確化」は、九〇年代初めまでにほぼ放棄され、新しい道徳教育運動として人格教育が注目されるようになった経緯を説明した。
 続いて、ケヴィン・ライアン・ボストン大名誉教授は「宗教や文化、国家の違いを越えて、すべての人が同意できる徳目を子どもたちに教え、実践できるように助けてあげることが人格教育だ」と語り、その継続した努力の必要を指摘した。また、親子のきずなが弱体化し、教師の権威喪失の現状を危惧(きぐ)した上で、子どもたちに多くの影響を与える家庭の重要性を強調した。14面 社会2 2003/06/08 The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan


【持論・時論】宗教教育の取り組み方敬和学園大学学長・北垣宗治氏に聞く
人格教育は「究極的関心」から 異文化理解が愛国心生む

 「宗教教育」を求める声が強まっている。今国会に提出される見通しの教育基本法改正法案をめぐる議論では「引き続き検討」(※注)として棚上げされたが、人間の尊厳性を軽視した、宗教性の欠如からくる少年犯罪は増える一方にある。宗教教育にどう取り組めばいいか。敬和学園大学(新潟県新発田市)で十二年間にわたって学長を務め、宗教教育を実践してきた北垣宗治学長に聞いた。(聞き手=吉原正夫)

 ――敬和学園大学が教育理念として掲げている「キリスト教主義に基づく教育」の意味を説明してほしい。
 キリスト教に基づく人間観、世界観、社会観、女性観といった価値観を、教育の基礎に置くことによって、これから先、社会を背負って立つ人材を養成したい、という考えだ。

 教育には、人間をつくるための原理原則が必要だ。キリスト教は、人間は被造物で、創造者は神である、と教えている。被造物には限界があるが、創造のための自由を与えられている。その自由をできる限り活用して、創造に参加していく。その目指すところは世界の平和、人類の幸福ということになる。
 逆に、神に背く時には、その自由は阻止される。そうした人間としての限界を謙虚に受け止める素養を持った人間をつくっていけたらと思っている。

 ――宗教教育への取り組みはどうあるべきか。

 宗教教育は私立学校の特権だ。かといって、公立校でできないかといえば、そんなことはない。個人の教師が個人である学生に向かって、人格的な影響を与えるという形で、宗教教育は可能だ。例えば、東大では、内村鑑三の影響を受けた、弟子でクリスチャンの南原繁先生や矢内原忠雄先生が、総長になっていた。矢内原総長は毎日曜日の朝、自分の集会で聖書講義を続けた。 東北大学の宮田光雄先生は、自分の家に学生を下宿させ、奥さんが食事を作り、二十四時間教育を行ってきた。単なる下宿ではなくて、毎週プログラムを決めて、先生と一緒に礼拝もし、読書もする。これを二十年、三十年とやってきた。
 「宗教教育」を定義し直せば、公立校でも扱える。どの人間でも、究極的に価値を置くものがある。究極的に関心を抱かざるを得ないもの、それを神と呼んでいい。そういうものの存在は否定できないわけだから、「あなたにとって究極的に大事なものは何ですか」という哲学的な問い掛けをすることはいいことだと思う。これを「宗教教育」と呼ぶかどうかは見方による。

 ――そういった議論を道徳教育ではできないか。

 道徳は、人類が伝統的に築き上げてきた社会生活をするための必要最低限のルールだ。親に孝行する、兄弟や友人と仲良くする、忠誠を尽くす、うそをつかない、約束を守る、といったことが道徳になる。宗教も人を殺すな、敵を愛せよと言い、宗教と道徳とは重なる面がたくさんある。しかし、道徳には限界がある。なぜなら、道徳は「究極的に大事なもの」について扱わないのだから。

 ――アメリカでは人格教育が重視され始めた。

 人格教育は道徳教育の範囲内でもできるが、人格教育の最後の仕上げは、学生の人格に影響を及ぼすというところまで持っていくべきだ。先生の人格に接して、学生はそこから影響を受けて自分の人格を培っていく。そうなってくると、そこに宗教的なパターンが生じると思う。私は、イエスの影響を受け、イエスの香りを発するような人間が、人格を磨き上げた人間だと思っている。

 ――以前から「宗教教育」は話題になっているが、国民の間にアレルギーのようなものがあって、なかなか具体化しない。

 それは、戦争中の誤った宗教教育からくるアレルギーだ。この国は天皇の国、天皇は神だ、という考えを植え付けてきた。宗教教育が、国家のためのものになってしまった。あのような宗教教育をしてはいけない、といった敗戦後の反省がある。
 ところが、その段階に安住していて、本当の意味での宗教、つまり個人が人間である限り持っている「究極的に大事なもの」に対する畏敬の念といったものが顧みられなくなった。そこに日本の教育の怠惰や間違いがある。

 ――宗教教育を具体化させるには。

 個々の人間には、忠誠心が行きつく最後のよりどころのようなものがある。それが一体何なのかを議論したり、そして、なぜ人間は幸福になれないのか、なぜ生きることを喜べないのか、なぜ自殺するのか、といった問題を投げ掛ける。せっかく生まれてきたのに、こんな生き方をしていたら損だな、と考えさせる。道徳教育と呼びたい人はそう呼べばいいが、私は宗教教育だと思う。
 私は、金曜日のチャペルアワーで、出席した学生みんなと握手をしている。そうやって触れ合うことが大事だと思う。日本の学生は握手することを必ずしも喜ばないけれど、学長が個々に接する機会はあまりないのだから。聖書にあるように「機(おり)を得るも、得ざるも」ということで、チャンスを得ようが得まいが、その瞬間その瞬間が教育の機会だとみなしていきたい。

 ――「心の教育」と叫ばれて久しい。

 「心の教育」の基本は、人間観にあると思う。それを突き詰めると、人間はなぜ価値があるか、ということに行きつく。生命は神様から与えられたもので、生きていること自体に価値がある、と考える。たとえ、その人が身体的、精神的な障害を持っていても、生きているゆえに価値がある。つまり「存在価値」。これが「心の教育」の基本だ。
 その全く反対の考えは、所有することに価値を置く考えだ。「存在価値」に対する「所有価値」。なぜ大東亜戦争に突入したかというと、日本はもっと世界の強国になるために、資源を確保しなければならない、と考えた。帝国主義的な方法に走って、満州を支配し、南方に進出して石油資源を得ようとした。それで戦争に突入した。
戦争に負けて反省したが、戦争で得られなかったものを、今度は経済で追求した。世界が驚くほどリッチな国になり、それに満足したが、バブルが崩壊し、借金にあえぐようになった。
 もう一つ「所有価値」の例を挙げれば、偏差値の高い人が偉い、という偏差値信仰だ。日本人はいい学校に行こうとして目の色を変えてやってきた。東大出身者がどんなに悪いことを重ねても、それでも高校生は東大に行きたがる。学歴信仰の奴隷になっている。これがどれだけ日本を不幸にしているか。

 ――価値観教育に取り組むべきでは。

 実物教育で行くしかない。例えば、車いすの学生が修学旅行に参加したいと言ったら、参加させ、車に乗せ、二階にみんなで担ぎ上げ、排便の手伝いもする。そういうのが教育だ。なぜ彼のためにそこまでやるのか、ということになるが、それこそが教育なのだ。

 ――若者の愛国心は薄れてきている。

 愛国心の教育をしようと思うなら、学生を外国に連れて行けばいい。外国で一週間なり一カ月なり生活させたら、日の丸を見た時、どんなにうれしいことか。その気持ちこそが愛国心だ。私自身、日本を好きになったのは、外国にいた時だ。日本にいると「日本は困った国だ、なんて変な国なんだ」と思っていたが、外国に行ってみると「日本はいい国だ」と次々と思えるようになった。

 ――異文化に接する機会が、愛国心を強めることになる、と。

 「外国語を知ることは、一つの新しい世界を知ることだ」。これはゲーテの有名な言葉だ。日本語オンリーだと、人生や世界の限られた面しか理解できない。異文化と接触すれば、自分を相対化させられ、謙虚にさせる。異文化を大事にする、異文化に敬意を持つことが大事だ。
 同志社を創設した新島襄について、デイヴィスという宣教師が伝記を書いている。それを私が翻訳したのだが、その中に、同志社英学校がスタートする前の一八七五年に、新島とデイヴィスが京都を見物して回った時のエピソードが書かれている。
 三十三間堂を見て回った時、新島は「デイヴィス君、この仏像は書生たちが冬の寒い時に、暖をとるのにちょうどいい」と言って笑ったという。デイヴィス宣教師はこれを「新島襄という人はユーモアを解する人だ」として、そのユーモアの例に挙げている。
 これは困った例だと思う。私は新島を尊敬するが、これを言った新島には、「先生そんなこと言っていいんですか」と言いたい。日本にいるたくさんの仏教徒が尊敬の対象にしている宗教的芸術作品に対して、クリスチャンである新島は、なんらの尊敬の気持ちを持たなかった。若かったからだろうが、キリスト教が世界を制覇するというキリスト教中心主義がそこに表れている。
 すべての宗教が、自分の宗教こそ一番だと主張するようになれば、イスラム教対キリスト教といった問題になる。仏教には仏教の良さがあり、イスラムにはイスラムの良さがあるのだから、お互い尊敬の念を持たないと、世界の平和は来ない。異文化の背景にある“異宗教”について理解する必要がある。
 

 (※注)中央教育審議会が昨年十一月十四日にまとめた中間報告に盛り込まれた「宗教に関する教育」の要旨は以下の通り。

 「宗教一般に関する教育は、重要性を指摘する意見が多かったが、いかなる場でどのような内容で行うべきかについて意見が集約されておらず、引き続き検討。国公立学校では、特定の宗教のための宗教教育や宗教的活動が禁止されることは今後とも大切である」 16面 オピニオン 2003/02/17 The Sekai Nippo Co.,Ltd. 1975- Tokyo,Japan