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「イスラム世界の女性達」―インドネシア海外青年協力隊活動を通じてー

 加治佐 智美

あいさつ

 国際協力事業団青年海外協力隊帰国隊員進路カウンセラーの田口カウンセラーよりご紹介を受けまして、本日、お話しをさせていただくこととなりました加治佐と申します。先ずは、このような貴重な機会を与えて下さったことに深くお礼申し上げます。

 私が、青年海外協力隊員として、インドネシアにて日本語教育分野における協力活動を終えて帰国いたしましたのが、昨年の4月でした。現在は青年海外協力隊(広尾訓練センター内)、クロスロード編集室の方に勤めております。帰国からすでに1年以上経っておりますので、記憶をたどりつつ、協力隊活動における体験談をお話しさせていただきたいと思います。

青年海外協力隊に参加した動機・背景

 私が青年海外協力隊(以下、協力隊と略)に参加しましたいきさつからお話しさせていただきます。

 大学卒業後、民間の広告会社に就職しましたが、それ以前より関心のあった日本語教師という職にいつか就きたいという気持ちから、昼間働きながら、夜間の日本語教師養成講座を受けたのがそもそもの始まりでした。

 コーズ終了後には、日本語教師の第一歩として、協力隊への道を選んだのです。

もともと「海外で何か役に立つ仕事をしてみたい」という思いがあったものですから、"国際協力の一端を担うことができる"という協力隊は、自分の希望に沿うものでした。

 そこで、思いきって選考試験を受けてみると、運良くパスしました。約80日間の国内派遣前訓練生活を経て、インドネシアに日本語教師隊員として赴任しましたのが、1998年4月のことでした。

 配属されたのは、ジャワ州西部にありますバンドンという地方都市の観光高等専門学校でした。ホテル学科やガイド学科、料理学科など7つの学科を有する学校で、学生数、約2000名のうち、第2外国語として日本語を選択する学生約300名ほどが教授対象でした。ご存知のようにインドネシアはバリ島を筆頭に、観光資源に恵まれ、毎年多くの外国人観光客が訪れます。観光産業はインドネシアにとって外貨獲得のための重要な柱のひとつです。

 とりわけ日本人観光客が占める割合は非常に高く、観光業界にとっては上得意客です。それに伴なって、観光業界における日本語のニーズは年々高まってきており、観光業従事者にとっては、日本語ができるイコール収入アップという図式ができあがりました。私が、日本語を教えていました学生たちも、将来、日本語ができるホテルマン、ガイドなどを目指し、日々、学んでおりました。

 しかしながら、観光日本語教育という分野は、まだまだ未開拓な部分が多く、その整備を教育機関レベルで行うということが、大きな活動目標でした。

 ちなみに、インドネシアの教育事業を少し述べさせていただくと、6・3・3制は日本と同様なのですが、その就学率に大きな差があります。

 初等教育における就学率は97パーセント、中等教育においてはその半分の42パーセントで、高等教育においては約10パーセントとありますから、その意味でもバンドン観光高等専門学校で学んでいる学生たちは非常に恵まれていると言えましょう。

 実際、彼らの多くは経済的に裕福な家の子たちが多く、決して少なくない仕送りをもらって寮や下宿に住み、学んでいました。小中学は義務教育になっていますが、少しばかりの学費や文房具費が払えず、学ぶことのできない子供たちが路上でお金をねだったり、大人同様、働いている現実を考えると、それはもう大きな格差があるわけです。"すべての子供達が平等に教育を受けられる体制作り"が、インドネシアの未来にとって最も急務なのではないかと3年間の活動を通して考えていました。

 インドネシアに赴任した1998年は、おりしもスハルト政権が崩壊した歴史的な年でした。4月に赴任し、現地語学訓練を1ヶ月受け、いざ配属先に赴いたものの、まだ日本からの荷もほどかぬうちに、国内の治安悪化に伴い緊急一時帰国となってしまいました。厳戒体制がしかれ、戦車や武装した軍人で緊張しきった雰囲気にまだ右も左も分からなかった当時は、ただただ恐ろしく、臨時便の全日空に乗り込んだときは心底ほっとしました。

 その後1カ月、日本で避難生活をし、インドネシア国内情勢が落ち着き始めた頃、再赴任いたしました。

 配属先は国立の学校で、教職員全員公務員でした。勤務は月曜から金曜まで、朝8時から夕方4時半までです。

 ちなみに、生徒同様、職員も制服があって、男性は紺スーツ、女性は白のブラウスに紺のスカートというものでした。

 女性はスカーフなどで個性を出し、ささやかなおしゃれを楽しんでいました。ちなみにインドネシアにおいては制服着用がよく好まれています。

 自分の所属する団体への帰属意識が強く、また、団体行動を好みます。

 例えば、昼休み、ひとりで食事などしていたら大変です。『どうして一人なんだ、一緒に食べよう、友だちはいないのか』と騒ぎ立てらてしまいます。

 彼らの親切で、3年間さみしく食事をするなんていうことはありませんでした。

 私の活動は、学生への日本語指導だけではなく、現地の日本語教員たちとともに教材を作成したり、勉強会を行ったりと、技術移転的な面もありました。

 各学科に合ったシラバス(授業スケジュール表)や教材がまだ不十分で、現地教員の日本語レベルも十分ではないといった状況で、なにから始めればよいのかと、しばらくの間とまどいもしました。最初の1年くらいは現場の状況と、何が必要とされているのかを把握するのに費やし、結局2年目以降本格的な活動に入りました。

 自分自身、クラスを持って学生に教えながら、問題点を探り出し、それに対する解決策を現地人教師、いわゆるカウンターパートと一緒に練っていきました。

と、言えば順調そうに聞こえると思いますが、ほとんどはまったくその逆でした。

 宗教が生活の中で最も優位にあるインドネシアでは、1日に5回もあるお祈りの時間や、宗教行事、年に1カ月もある断食期間などで、授業や勉強会が中断になったリ、学校が休みになったりで、計画通りに活動が進むことなどほとんどありませんでした。 限られた期間の中で、何か活動成果をあげなければいけないと焦る中で、いたってマイペースなカウンターパートたちに時には苛立ち、衝突したとこともあります。

 何事も『神のいうまま』と言ってすませてしまうことに、あきれてしまうこともありました。

 それにしても、結局はなんとかなってしまうというお国柄、その後も感心してしまうことしばしばでした。

異文化理解;インドネシア女性と日本人女性

共通点;
 イスラム教の女性だからといって、特に目立って日本人女性と異なる点はなかったように思います。もしかしたら、3年というまとまった月日、イスラム社会にどっぷりつかって生活していたせいで、感覚がずれてしまったのかも知れませんけど。

 ただ、自分の周りには働く女性が多かったということで、いろいろ感じたところはあります。

まず、結婚しても仕事を続ける女性が多いということです。若い世代は特にそうで、自分の専門を持ち、手に職を持ち、経済的に自立していたいと考える女性が多いように思いました。

 ですから、結婚についても現実的で、なにも早く結婚する必要はない、自分のやりたいことが大切、という意見も聞きました。これは、日本の若い女性たちに共通するものがあると思います。

 ただ、インドネシアでは特に裕福な家でなくても普通にお手伝いさんやベビーシッターを雇っています。そのため、子どもを持つ母親は、お手伝いさんに子どもを任せ、外で仕事ができるという環境があるということも事実です。

 日本のように、小さい赤ん坊を託児所に預けて仕事をする母親をあまりよしとしない風潮もインドネシアにはありません。良い意味での手抜きができるんですね。

相違点;
 何と言っても、家族を大事にするところでしょうか。

 日本では少し希薄になってきた家族の強い絆が、インドネシアでは今でもしっかりと残っています。親を尊敬し、兄弟をとても大切にする彼らを見ていると、いつもあたたかい気持ちになりました。また、子どもは周囲のみんなで育てます。家族だけでなく、親類、近所の人々みんなに愛されて育つ子どもたちは、本当に幸せだと思います。

活動を通して学んだこと;

 "郷に入らば、郷に従え"の精神を身をもって学びました。

 押しつけの協力活動は反感を買うばかりか、相手にとって失礼だということです。

 その国その国には、違う価値観や、やり方があって当然なのですが、それを頭で理解していても、実際、かみ砕くまでに時間がかかりました。

 例えば、インドネシアにおいて一般に、人に対して怒ってはいけないという常識があります。これは、あきらかに相手に非があり迷惑を被ったとしても同様です。

 この常識をやぶり、感情むき出しで怒ってしまっては、逆に自分の方が、未熟な人間だとみなに軽視されかねません。

 また、"顔の見える協力"はとても大切だということがわかりました。

 その国の人を知り、理解することから始めるということです。

 協力隊はその点、現地の人と同じレベルで生活し、共に感動し、助けられて活動していくわけですから、まさに顔の見える協力活動です。

 一緒に活動していれば、その内、信頼関係も生まれ、互いに手を取り合ってがんばっていこうという気持ちも生まれます。

 私個人の意見ですが、このような関係においては、訳の分からない争いや、傷つけあうようなことは決してないと思います。

 個人タイ個人でよい関係がもっとたくさん結べれば、国タイ国での争いなど無くなっていくのではないかとも考えます。

 私は鹿児島県の知覧という町で生まれ育ちました。戦時中、多くの若者が空へと飛び立ち帰らぬ人となってしまった特攻隊基地のあった場所です。

 今では、記念館が建ち、当時の彼らの写真や遺書、遺品などが展示されています。

特攻平和会館)  帰国してしばらくは実家におりましたので、久しぶりに記念館を訪ねてみました。

 何度訪れても、涙が止まらず辛い場所なのですが、改めて平和のありがたさを確認しました。同じ『隊員』と呼ばれながら、片や自国を守るため、片や国際協力のため、と時代は変わりましたが、何とも言い表せない複雑な気持ちでした。

JICAボランティアについて

 最後に、青年海外協力隊を始めJICAボランティア事業について少し御紹介させていただきたいと思います。青年海外協力隊員は現在、60カ国以上の開発途上国で活動しています。職種は農林水産部門や保健衛生部門、教育文化部門など併せて170種類ほどあり、みなそれざれの技術を生かして活動しています。また、シニア海外ボランティア、日系社会青年ボランティア、日系社会シニアボランティアの方たちもそれぞれの分野で活動しております。

JICA
海外青年橋梁力隊
シニア・ボランティア
日系社会ボランティア
以上

加治佐 智美さん略歴; JICA,『クロスロード』編集室
     1972年8月、鹿児島県知覧生れ、北九州大学商学部経営学科卒、
     1998年4月〜2001年4月、3年間インドネシア日本語教師として活動。