1954(昭和29)年生 栃木県今市市出身 、国連職員、既婚2児の父
1976(昭和51)年 上智大外国語学部ロシア語学科卒
卒論「中ソ対立の研究」コロンビア大学国際関係大学院に留学
修士号を取得, 政治学部国際関係論で博士号を取得
1982(昭和57)年 国連職員として採用される 国連事務局勤務
1992(平成4)年〜1994(平成6)年 国連を休職 国連日本代表部勤務
1994(平成6)年 国連に復帰
1994(平成6)年〜1999(平成11)年 国連事務総長報道官室広報官
1999(平成11)年6月 国連東チモール・ミッション(UNAMET)副報道官
事務総長準報道官
2000(平成12)年2月 広報局平和安全保障課課長
国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)、国連南アフリカ選挙監視団(UNOMSA)、
等に参加、青山学院大学、立命館大学も夏期集中講座を担当植木 安弘 氏
2002年11月、バグダッド国連イラク査察団の報道官というこれまでに考えられなかった職務を任されることになった。ここ数年、主にPKOを中心とした広報活動に従事してきていただけに、イラクの大量破壊兵器等の問題をバグダッドで、しかも唯一の報道官として扱うことは、同じ広報畑でも大きな転換だった。
イラクが国連と国際原子力機関(IAEA)による査察活動の再開を受け入れる可能性が出てきた2002年10月中旬に、国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)の報道官からバグダッドに1人報道官を置きたいとの電話が入った。そして早速、ブリクスUNMOVIC委員長のインタビューを受けることになった。アラビア語のできる人が良いのではないかとの声もあったと聞いているが、結局ブリクス委員長の決断で自分がこの大任を任されることになった。
私は、1994年10月から1999年3月まで4年半にわたり国連事務総長報道官室で勤務した。この時担当していたのが、PKO、安保理そしてイラク問題だった。イラク問題では、人道面での「石油と食料交換計画(オイル・フォー・フード計画)」に関する覚書交渉とその実施、そして大量破壊兵器等廃棄のための国連イラク特別委員会(UNSCOM)の活動を追った。その関係で当時UNSCOMの報道官(前述のUNMOVIC報道官でもある)と知り合いになり、3年以上にわたりイラクの大量破壊兵器問題を共に扱った。私は、その後広報局に戻った後、国連東ティモール派遣団(UNMISET)に参加し、その政務官兼副報道官となった。独立かインドネシアへの合併かをめぐる住民投票のプロセスは極めて困難な政治問題だったが、その国連の副報道官の仕事を何とかまっとうした。結局、私が国連イラク査察団報道官に選任された背景には、こうしたイラク問題を扱った経験や計5年近い国連報道官としての経験が評価されたこととともに、一緒に仕事をしたUNSCOMの報道官や3年半仕事を支えた国連事務総長報道官より強く推薦をいただいたことがあった。
イラクへの出発前の記者会見でブリクス委員長は私を記者団に紹介した際、既に実績証明済みの報道官経験者として評価してくれた。その信頼にこたえるべく、今バグダッドで仕事をしている。戦争になるか、これを回避できるかの瀬戸際で働くことはそうめったにない。東ティモールでも住民投票後に大規模な暴力を回避できるかどうかで、その対処に苦慮した経験があるが、今回は超大国米国を始めとする国際社会と地域大国イラクの真正面からの対立である。より深刻な事態だ。
国連の情報源はニューヨークとウィーンとバグダッド。私のバグダッド報道官としての一言一句が各国の主要紙やテレビで引用され、これまでに何度も状況判断の材料になっている。私個人の力というよりは、より大きな政治的な流れの力である。
国連職員として醍醐味のある仕事だか、同時にバランスのとれた判断力が要求されている。願わくば、査察を通じた武装解除が実現して欲しいものである。
執筆:国連イラク査察団報道官 植木 安弘
イラク訪問報告
1.はじめに
2002年12月16日〜24日にかけて、平和フォーラムをはじめ、「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」などの市民や国会議員など16人が、「悪の枢軸」と名指しされるイラクへ、その実態を確かめるべく訪問した。そこで出会ったのは、「悪の枢軸」とはうらはらに、厳しい経済制裁の中、必死になって生き続けている庶民の姿であった。確かに、主要な建物や軍事上重要な橋などの周辺には軍隊や秘密(?)警察官が固めていて、それなりに軍事国家を思わせたが、一歩町中で見る人々の生活は、戦争準備に忙しいといったところはなく、新しい家を建てていたり(戦争が起これば、せっかく建てた家も破壊されることも考えられる)、道路を清掃したり、近所では子どもたちが遊び、高校生たちの学校帰りは実に楽しそうだった。夜の繁華街も、人通りが多く、この国が、いまにもアメリカに攻撃されるのだろうか、と思わせる光景に出くわし、イラクへのイメージは、大きく変わった。
さて、私たち一行は、成田−アムステルダム−アンマンを経由してイラクに入った。特に、アンマン−イラクの飛行機は、戦争が近いと言われているにも関わらず、座席は満杯だった。これも意外であった。
2.イラク国民会議
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私たちは、まず在イラク大使館へ行き、イラクの現状と活動上の注意を聞いた。この大使館は、隣国のヨルダンから交代で2名づつ大使がやってきており、常駐ではない。その後、イラク国民議会へ向かった。
イラク国民議会では、この国NO.4に当たる、イラク国民会議議長アサドゥーン・ハンマーディーさんをはじめ、外交委員長、経済委員長などと意見を交換した。そこでは、査察について、これまでも査察を受け、どのような兵器も発見されていないにもかかわらず、いまだ経済制裁は解除されていない。むしろ、これまで国連査察団の中でスパイ行為がなされたりしており、必ずしもクリーンではないことが指摘された。
また、劣化ウラン弾の被害についても報告があり、湾岸戦争では7〜800トンもの劣化ウラン弾が使用されたと言われ、その影響はヒロシマ原爆の約7倍と言われる。一方、イラク政府は、劣化ウラン弾の被曝者の実態調査を国連に要請しているが、安全保障理事会によって調査がストップしている。現在経済制裁では、医薬品が輸入できず、176万人が影響を受けている。
最後に議長は、「私たちは、戦争を望みません。今回の査察が正当に行われることを望みます」と述べた。
バクダッド近郊にあるアムリエ・シェルターを訪れた。このシェルターは、フィンランド製で、対生物化学兵器用、放射能用として84年に完成した。大きさは50メートル四方の、地上1階、地下1階の建物で、コンクリートの厚さは2メートルもあったが、91年2月13日の米軍のピンポイント爆撃で、1発目が天井を破り、2発目のナパーム弾が建物の空調施設を破壊し、それにより408人が焼き殺され、今も建物内部には、その当時の様子を偲ばせる、人の焼けこげた姿が影として残っていた。彼らの断末魔の様子が今も私たちに訴えかけていた。ヒロシマの原爆ドームと重なった。
訪問団は、オーミード・ミドハト・ムバラク保健大臣とも会った。彼は、「経済制裁前のイラクは、中東でも有数の医学(医療)が進歩した国だった」と語った。制裁後は短期間で、医薬品も人材も不足し、1991年には医薬品が底をついた。新生児の死亡率も制裁前の1000人中25人が、制裁後1000人中108人に増加した。また4人に一人は未熟児だという。その他に、5歳児以下の子どもの死亡は、月550人だったのが02年の夏の時点で月7500人と急増している。ユニセフ(国連児童基金)も同様の調査結果を出しているという。経済制裁は、結局子どもなど力の弱い部分にしわ寄せが行くことを訴えていた。
また、劣化ウラン弾の問題にも言及し、イラク南部のバスラやナスリーヤで使用され、その影響について研究を進めている。2001年には、WHOと共同で調査を始めたが、アメリカの圧力で事業が進んでいない。
赤新月社でも医療の物資不足の話を聞いた。経済制裁は、イラク国民全般に渡る影響を与えているが、保健衛生の分野でも、医薬品不足を来たし、特に子供たちに不足している。ガンや奇形の発症率が高くなっているにもかかわらず、ガン治療に必要な医薬品が輸入できずにいる。
もともとイラクは、医療費が無料であったが、湾岸戦争後、一部有料になっている。元の医療の充実した国になるためにも、制裁を早く撤回するべきである。
150床ある核医学病院へも訪れた。イラク全土からガン患者が集まるこの病院にも経済制裁が襲って来ていた。放射線療法や化学療法を中心に行うにも、最新の機材が手に入らず、実際放射線治療器は1988年の機械を使っていたし、化学療法にいたっては、化学薬品そのものが手にはいらい。例えば、ガン治療で普通5〜6種類の薬品をつかうところ2種類ぐらいしかない、といったことが現場では起こっている。ガン患者は南部バスラに多いと語っていた。これも劣化ウラン弾の影響か?
サダム中央教育病院では、小児病棟を見学したが、湾岸戦争以降白血病やガン、感染症などが増えているという。患者が増え、継続的な治療も困難な状況にある。経済制裁で抗生物質が手に入らない。治癒率も、日本では75%あるが、ここでは2%だという。病室で見た子供たちが、あとどれくらい生きながらえることができるのだろうか。子供たちの死という現実を目の前にして、何もできない自分に情けなさが募った。子どもと付き添う親と目を合わせるの辛かった病院訪問だった。
国連の査察状況について、広報官の植木安弘さんより説明を受ける機会ができた。UNMOVICとIAEAの査察官113名が、国連職員として活動している。現時点で80〜90カ所を110〜120回査察したとのこと。12月8日には、12000頁のイラク報告書が提出されており、分析中であるとのこと。1月26日ないし27日ごろには、調査結果を安全保障理事会に報告する予定だという。現時点でイラクは、協力的で、査察は全部出来ているとのこと。 前回のように国連査察団の中にスパイを働くものがいた場合でも、なんらの罰則規定がなく、ただ国連職員としての契約を打ち切るだけというもので、甘い基準が残るのは問題だ。
12月はじめに来日したジョリ・マクリ教授をバクダッド大学に訪ねた。この大学から毎年1000人以上の医師を輩出しており、大学院を持つアラブ有数の大学である。
彼は、イラク攻撃について、@アラブ世界の中心(リーダー的存在)A石油資源Bテクノクラートなど人的資源があることなどがその理由と言う。
劣化ウラン弾の被害については、先の湾岸戦争では南部にが攻撃され、被害が広がった。食べ物については、国は放射能は検出されていないと報告しているが、摂取の心配があるとのこと。また放射線レベルが測定されていないのが問題であることが訴えられた。
バクダッド市内の小学校も訪れ、多少の交流を持つことができた。最近、より民族意識と国防意識を高める教育が強まったようで、迷彩服を着た子どもや戦意高揚の授業も行われていた。しかし、これとて、アメリカの攻撃を意識してできたのではないか。むしろそのことがなければ、このような授業も服装もなかったのではないか。戦時下(?)にある学校教育の姿を見たが、いつの世も、為政者に子どもが翻弄されるのだなと思った。
12月19日の夜、アメリカの平和団体「荒野の声」のキャシー・ケリーさんたちが組織したイラク平和チームというグループが、バクダッドの火力発電所前で、キャンドルを掲げて、「ここ(火力発電所)を攻撃するな!」という人間を楯にしたデモンストレーションが行われた。私たちも国際的な連帯としてそれに合流し、火力発電所の前に立った。この行動には、欧米各国から40名ほどの人々が人間の楯として集まって来ていた。身体を張って戦争を止めようとする彼らの行動には頭が下がる。
駆け足で巡ってきたイラクであったが、そこに暮らしているのはまぎれもなく民衆である。私たちと同じく病気や仕事に悩む姿である。湾岸戦争に続いての経済制裁が、社会の最も弱い部分を最も苦しめている状況を、経済制裁を行っている為政者たちは知っているのだろうか。その上で、次の戦争を行うならば、ますますその苦しみを拡げるだけだろう。
イラクの体制にまったく問題がないとは言わないが、しかし武力による解決は、誇り高いアラブの人々を敵に回すだけではないか。むしろ、民衆との連帯を通して、彼らが抱えている課題を共に解決する事が必要ではないか。日本の役割も、武力ではなく、平和憲法の趣旨に立ち、積極的な予防外交を展開するべきではないか。特に、劣化ウランの被害を疑われているイラクだけに、広島・長崎を経験した国として、援助を差し延べる必要があるのではないか。子供たちの顔を思いだすたびそう思う。
写真撮影: 豊田直巳