芸 術 の 美 学
「人間の心の深奥へ光を送ること―――これが芸術家の使命である!」とシューマン
は言った。ロマン・ロランは「芸術は“生命を百倍にし、強化し、より大きくよりよくする
ことである」と言う。芸術作品は、芸術家という一人の個人によって生み出されたもの
であっても、その個人を越える射程を持っている。芸術家個人が何を、いかに表現した
かということが問題なのではなく、私たちが「その作品から何を、いかに受け取るか
が問題なのである。」とアンドレ・マルローは言った。かれの問題意識は、芸術作品を
「価値づける文明の状態」にあった。彼の芸術論は、当然に文明論になった。
マルローの世界においては、ゴヤの絵画も、シュメールの彫像や中世の浮き彫と
同じように無名の作家のものであっても構わない。アフリカの黒人彫刻が彼の興味を
惹くのは、それが現状の私たちに何かを語りかけて来るからである。この何かを語り
かけて来るものがすなわち「芸術」であって、それ以外のものは彼の興味の対象では
なかった。「西洋の没落」の預言的思想の影響を受けていたがある手紙のなかに
「エジプトの彫刻がエジプト人に語っていた言葉は、エジプト文化とともに失われて
しまって、彫像たちはもはや永遠にその言葉を語らない。と言ったシュペングラーは、
きわめて正しかったのです」と述べている。しかしそれにすぐ続けて、「しかしながら、
それにもかかわらずその彫像たちがわれわれに語りかけていること。そしてわれわれ
はそれに耳を傾けざるを得ないということ。それを忘れた点で彼は誤っていたのです」
と断定している。かつて神であり、信仰の中心であったものが、現代では彫刻となり、
ギリシア人が女神として信仰していたアフロディテは、今日では彫像として甦って来る。
実体は同じであっても、その意味は時代とともに変わる。これが、彼が「神神の変貌
(メタモルフォーズ)」と呼んだ。神神は「変貌」しても、なおわれわれに語りかける。
それが彼の言う「空想の美術館」である。現代は、地球的な規模で、さまざまな文明が
「芸術」を通じて、対話を交わしている。まさに現代は、諸文明の出会いの時代である
と言える。裏返して言えば、文明の出会いは、つまり、人間の連帯性は、今や「芸術」
に賭けられているということである。マルローは「死が悲劇的であるのは、それが人生
を運命に変えてしまうからだ」と言った。その「運命」に対抗するために、彼は人間の
連帯性を求めた。「行動の人」マルローの「行動」はまさにそのためのものであった。
ユネスコにおける「人間と芸術文化」の講演で、彼は、「人間は、かつて個人によって
腐敗させられたように、今や集団によって腐敗させられている」と語っている。運命に
対抗し得るものは、もはや「芸術」しかない。そして、過去の神々を地球的な規模に
おいて甦らせた現代こそ、はじめて、人間がその「反運命」としての芸術に明確な
自覚を持った時代になるのである。彼はフランス国会の演説で「文化とは、死のなか
においてもなお生命であるもの」と述べた。「空想の美術館」は,マルロー個人の祈り
にも似たものであった。トルストイは言った。「芸術とは、人間が心の中に高まる感情
を最高、最善のものへと移行させる人間活動である」と・・・。
未来創庵 一色 宏
杉原千畝:「外交官としてではなく,人間として
当然の正しい決断をした。」
早朝6時少し前、領事公邸の外が騒がしい。100人以上もの老若男女が、
何かを訴えている。
私はこれはただごとではないと思った」。時は1940年7月18日、日独伊
三国同盟締結の2ヶ月前。
場所はバルト三国のひとつリトアニアの首都カウナス。当時の様子をこう
回想するのは、日本政府の
訓令に従わず通過ビザを発給し、6000人以上ものユダヤ人の命を救った
杉原千畝その人である。
1900年(明治33)岐阜県の八百津町に生まれる。中学で成績のよい息子を
医者にしたかった父は、医学学校の受験手続をする。しかし千畝は、
得意の語学を生かした仕事が希望。
入試当日は母が作った弁当だけを食べ、試験を受けずに帰宅。当時から
自身の価値基準を信ずる気骨ある青年であった。1918年、早稲田大学
高等師範部英語予科に入学。
果たしてその後外交官になった千畝は満州国外交部、ヘルシンキ公使館
勤務を経て、1939年8月末にカウナス領事館の領事代理に赴任したが、
その直後にナチス・ドイツはポーランドに侵攻。ここに第二次世界大戦の
火蓋は切って落とされた。その後もドイツ軍は各国を蹂躙しつづけ、
翌40年6月14日にはパリに入城。ナチスに忶えるユダヤ人たちは逃げ場を
失う。こうして7月17日、彼らはカウナスの日本領事館に通過ビザを求めて
やってきたのであった。「人道上どうしても拒否できない」と、千畝は
本国外務省に通過ビザ発給の許可を求め2度にわたり暗号電報を打つ。
しかし当時ドイツと同盟を結ぼうとしていた外務省の返答はいずれも
“ノー”。千畝は数日間悶々と考えに考え抜く。
「私を頼って来る人を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に
背くことになる」。幸子夫人の同意を確認し、外務省の訓令を無視する
という重たい決断を下したのであった。
かくして7月29日より約1ヶ月間、千畝は寝食も忘れてビザを書きつづける。
リトアニアがソ連に併合された8月3日以降はモスクワから領事館退去命令が
再三あったが、これも無視。いよいよ9月5日当地を離れることになったが、
カウナス駅まで多数のユダヤ人が押しかけ、出発間際まで書きつづけたという。
’47年4月に帰国した千畝は同年6月に外務省を退官。75年まで貿易商社などで
活躍。そして1986年7月31日、鎌倉にて永眠する。「私のしたことは、外交官と
しては間違ったことだったのかもしれない。しかしそれは人間として正しい行動
だった」と生前、幸子夫人に語っている杉原千畝―85年にはイスラエル政府より、
「諸国民の中の正義の人賞」という勲章を授与された。国境や民族を越えた一個の
生きる人間としての勇気ある決断は、いつの時代にあっても崇高である。
一色 宏
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